相模湾 海から見る風景

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逗子・鎌倉の古代史

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鎌倉の地名の由来と鎌倉別
鎌倉鶴岡八幡宮の初詣に昨日行ってきました。漸く階段規制もなく、スムーズに参拝を済ませた。参道の売店で休憩した、これも年中行事になりつつあります。先週はここも立ち席満員でした。

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さて今回は、大化改新(645)以前に相模の地にあった政治勢力鎌倉郡と御浦郡(三浦郡)の所属したヤマトタケルの子孫ゆかりの鎌倉別(かまくらわけ)について、皇統の系譜、朝廷直轄地になった背景、その性格や成立時期などを探りながら鎌倉の地名の由来に迫ってみたい。
 
鎌倉別系図

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古事記による皇統の系譜
古事記では
「「古事記」の景行天皇の段で、「ヤマトタケルの子孫である足鏡別王は鎌倉別の祖なり」とあります。旧事本紀によりますと、「蘆竈(アシカミ)見命、竈口君(鎌倉)の祖」としている。竈口は鎌倉の異名。
 
上記系図は、古事記記載に基づき作成したものです。鎌倉別は、ヤマトタケル日本武尊の子足鏡別王のそのまた子、ヤマトタケルの孫にあたります。
系図の右側の息長氏は継体天皇につながっていく、天皇家にとっての最重要系譜としているが、一方足鏡別王は兄の仲哀天皇に誅殺され、鎌倉別は遠ざけられたことになる。
 
ワケの意味すること
ワケは初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者(王族将軍)で、地方に領地を得た者の称号として用いられた。
 
ワケからキミ・オミへ
稲荷山古墳出土の鉄剣(推定6世紀前半)からはワケからキミへの変化を見ることができる。大彦(意富比)から3-5代まではテヨカリワケ(弖已加利獲居)、タカハシワケ(多加披次獲居)、タサキワケ(多沙鬼獲居)と3世代がワケ(獲居)をカバネとしているが、その後はワケを用いず、獲加多支鹵大王(雄略天皇)の代になってオワケノオミ(乎獲居臣)とオミがカバネになっている(ここでワケはカバネでなく名前の一部となっている)。Wiki
 
ワケの分布を見るに、坂東諸国では鎌倉別が唯一の例であることから、佐伯有清氏は「別姓が成立し、存在した時代が、大和朝廷による東国征服がすすめられる以前であったことを示すのであろう。」しています。(「神奈川古代史素描」荒井秀規)
 
長柄桜山古墳群
1.2号墳には、円筒埴輪や段築(1号墳)、葺石(2号墳)がある点など、畿内様式の前方後円墳に近いことから、畿内中枢の強い影響下、房総方面の交通要衝地として造墓された古墳であると考えられている。三浦半島周辺では、長柄桜山古墳群築造以前の首長墓は見当たらず、長柄桜山古墳群以後も継続していない。
弥生時代以来の伝統的な集団が古墳造営したものではなく、畿内中枢の影響下での戦略的な築造が想起されている。(田越川系首長系譜 新山保和)

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ヤマト王権は、東国に食指を伸ばそうとしていた時期、相模湾の奥深く、房総や武蔵国に睨みを利かせる戦略的場所に前進基地を築き、大型古墳を造営した。司令官には、皇族に連なる高貴な身分の鎌倉別を配置し、鎌倉別と名付けた。こういうストーリーが見えてくる。

 古墳群の造営された時期は、朝鮮半島情勢が動乱していてこの影響を大きく受けていた。東国の海洋民を半島に送り込む意図もあっただろう。大量の兵士を半島に送り込む準備を進めていた王権にとって、航海技術に長けた海洋民は大きな軍事力になった。
 
鎌倉別成立時期
   こうしたことから、鎌倉別の成立時期は、この長柄桜山古墳群の造営4世紀後半以降辛亥年銘鉄剣によって実在が確認された5世紀以前、限りなく長柄桜山古墳群の造営に近い時期に遡ると思われます。
造営時期に近づくことによって、被葬者についても鎌倉別の基礎を築いた鎌倉別その人である可能性が近づいたといえます。
 
鎌倉地名の由来
次に鎌倉地名の由来を、この鎌倉別の系図と地形から考えてみましょう。
①「「竈(アシカミ)見命、竈口君等の祖」(旧事本紀)とあり、竈口は鎌倉の異名。竈谷(かまくら)の義で、これを古人は竈口(かまくち)とも呼んだ(『大日本地名辞書 第6巻 坂東』)」

②「鎌倉の鎌はかまどのことで、倉は谷の意味です。地形が三方は山で、一方が海で、かまどに似ていることと、大きな谷を、大倉と呼んでいることから、鎌倉になったものと思われます。(『かまくら子ども風土記 上』)」

竈はカマドを指している。
鎌倉別の父蘆竈(アシカミ)と鎌倉別は竈の字が共通していた。通字ともいえます。
 
二代共通の竈を使っているのは、既にあった地名由来の命名と思われます。

この竈は5世紀になって、朝鮮半島からもたらされた。5世紀初頭、半島から馬と馬具、それに乗馬の風習とがもたらされた。半島は高句麗の南下政策により動乱が勃発し、ついに百済は倭国に応援を求めた。倭国は高句麗対策のため軍備拡張を急ぎ、半島から渡来人とともに文物が大量に流入し普及していった。

    竈もこんな時期に倭国にもたらされ、大和から逗子に進駐してきた王権部隊の高級武官の家でも使用していたことは容易に想像がつきます。鎌倉の地を見て、地形的要因により三方を山に囲まれ、竈のような形をした土地と見たのでしょう。鎌倉という地名が決められた瞬間であったと思われます。
 
同時にこの地形は、防御に強いことから、房総、武蔵、毛野国への備えでもあった。逗子に前進基地・見張り所を設け、鎌倉に本陣を置いたのです。
平安時代房総で起きた平忠常の乱に平直方が鎌倉に本陣を置いた。また源義朝も房総の備えに逗子に屋敷を構え、鎌倉の楯を寿福寺に置いた、ともに房総への備えは鎌倉にあったのです。
 
   長柄桜山古墳群の造営時期に近い西暦400年頃には、この地方はカマドのような地形の鎌倉と呼ばれていた。という説を採りたいと思っています。

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何故鎌倉・三浦地方に延喜式内社がないのか
お正月の初詣のシーズンです。当地では鎌倉鶴岡八幡宮が、連日参詣客を集めています。本殿の前に進む長蛇の行列が続きます。写真は、三連休二日目の様子です。
七草が過ぎて、少し落ち着いた頃に八幡宮を訪れることにしています。

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相模国の一宮というと、寒川神社と鎌倉八幡宮が挙げられます。鎌倉に幕府が置かれて以来の一宮として鶴岡八幡宮、また式内社としての一宮は寒川神社ということになります。
古い神社の格式延喜式内社とは何か。

「延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。巻910は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されている。これが一般に延喜式内社と言って社格の一つとされたが、現在では消滅したり不明となっている神社も多い。」以上ウイキ

 10世紀初の段階ですでに古社として崇敬が集められていたということになり、創建は8世紀以前の古社と思われます。
相模国の式内社は、13社ありますが、すべて相模川流域から西にかけて所在しています。
鎌倉三浦地方は、式内社空白地帯となっています。
 
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   13社配置図はネットより拝借、鎌倉別を加筆した

古く相模国は、地方豪族が大和朝廷に服属したとき、三つの政治圏があり、①酒匂川流域・県西部に師長(しなが)国造・②相模川流域・県中央部に相武(さがむ)国造・③鎌倉・三浦地方は鎌倉別(かまくらわけ)とされていた。このうち相武国造が最も勢力があったと考えられている。
 
 7世紀律令体制により相模国が成立し、相武国造と師長国造を合した。さらに、鎌倉別の鎌倉・三浦も加わた。
この鎌倉別とは、ヤマトタケルの子孫(孫にあたる)鎌倉別の支配する地とされる。
鎌倉別がいつのころから設置されていたのか詳らかにされていないが、逗子にある長江桜山古墳群の造営と大きく関わっているとされます。

 長柄桜山古墳群は畿内方面から相模を通り、上総など房総方面へ向かう道筋を望む場所であり、そのような場所に古墳群が造営されたことに大きな意味があると見られている。
古墳としての完成度が高い。これは長柄桜山古墳群の被葬者は、他の神奈川県内の前期古墳の被葬者よりもヤマト王権中枢との関係性が深かったからと見られる。

 つまり逗子鎌倉地域が、ヤマト王権の直轄地とされていたとみられている。このため鎌倉別とされていた。
この鎌倉別については、別の回にもう少し明らかにしたいと思います。
 
さて表題の疑問、「何故鎌倉・三浦地方に延喜式内社がないのか」に戻りましょう。
「あなたの知らない神奈川県の歴史 洋泉社歴史新書/山本博文【監修】」によると

「相模国では鎌倉郡と三浦郡、武蔵国では久良岐郡と橘樹郡の神社は、式内社になっていない。
これらの郡はどれもが早くからヤマト王権の直轄地や屯倉となったとされるところで、それらの場所に式内社が見られないのは、9世紀に行われた神階授与による神祇統制が地域神を通じた人心掌握であったことを物語るだろう。」とあります。
 
つまり、式内社は、地域神の神階授与による神祇統制によるその選定の背景には政治色が強くみえるというのです。
逆に言えば直轄地では人心掌握のための神階授与は必要がないのです。
直轄地ではどんなに奈良時代以前からの古い神社、地域から奉斎された古社であっても式内社の対象にならなかったのです。
 
鎌倉別にある古社
葉山森山神社
葉山の良弁創建の森山神社は、749年頃には創建された。
創建は天平勝宝(西暦749)で、東大寺初代管長良弁僧正により勧請とされています。
往時は「守山大明神」とか「佐賀岡明神」と呼ばれ、佐賀岡(現・三ケ岡=大峰山)にあったらしいです。
世計神事、行合祭などの古代の祭事が伝承されている。

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甘縄神明神社
甘縄神明神社も、和銅三年(710)八月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(1063)には当社を修復、永保元年(1081)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=396&cd=1205009
 
両社ともに古東海道街道筋に沿って位置している。
甘縄神明神社や森山神社は、式内社に合致する条件を持っていると思われます。
何故、鎌倉別に所在すると、式内社に合致するにもかかわらず、式内社にならなかったのか。それが、鎌倉別の持っている性格だったのです。

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八雲神社神主家の古代氏姓
 
夏祭りのお囃子が方々から聞こえる季節だが、お囃子に心がざわめく気分はいくつになっても変わらない。
早朝散歩で、夏祭りの鎌倉大町八雲神社に向かった。
今日は、この神社が、源頼朝の入府以前から1000年近く、この地の鎮守として続き、古代の氏姓制度を保持してきたことを紹介します。
 
八雲神社は、新羅三郎義光が鎌倉に疫病が流行しているのをみて、「厄除神」として霊験の聞こえた京都の祇園社を勧請したと伝えられている。平安時代末期永保年間のことです。
神主家の言い伝えでは、義光の家臣の一人だった小坂氏が創建以来神主家を務めているといいます。
 
 
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また小坂氏は、苗字のほかに古代の氏姓制度の部民の漆部(ヌリベ)氏を名乗り、伝えています。
相模国の漆部氏と言えば、奈良時代に国造に任じられた漆部直伊波が有名です。
ここに見られる国造は大化改新まで土地の草分け豪族を処したそれとは異なり、いわゆる「律令国造」、官位の一つで、その多くは神祇祭祀に従事したとされています。

その後9世紀頃まで相模国には漆部氏の一族の名が中央、地方の役人だった記録もあります。
10世紀頃から、それまでの律令体制が緩み崩壊していったとき、古代の豪族の末裔は姿を消していったと言われています。
 
それは、「八雲神社神主家小坂氏はこの漆部直伊波の後裔ではないか」ということです。
 
当の小坂氏と何度かこの件で話していますが、「義光の家臣と聞いているのですがね。」と言いながら少し興味を見せてくれています。勿論漆部氏が、関東に下向した義光の知己を得て、家臣となり鎌倉の南の境を守ったのかもしれません。
 
漆部氏小坂氏が、八雲神社の神主に就く平安時代の末期までの空白の200年ほどは、まさに律令制度の崩壊した平安時代中期の混乱期で流動化していて、相模国の神社に関わりながら漂泊していたと考えたのです。

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相模国の古社との強い関係が続いていたと見たほうが良いと思えるのです。
たとえば、鎌倉最古の神社・甘縄神明神社は、漆部直伊波(後の名を染屋太郎大夫時忠)により創建されています。屋敷跡が由比ヶ浜にあったそうです。
 
また大住郡の式内社三宮比比多神社は、『新編相模国風土記稿』に記述されている、当社社頭の梵鐘(現存せず、戦時供出により失った)の銘文にあった、「天平年中鎌倉鎮将の染屋太郎大夫時忠の霊を祀った」との記述があります。

『東大寺要録』にも「僧正者相模国人漆部氏也」とある東大寺の開山初代別当良弁についても、大山寺の開基や葉山の古社森山神社、玉蔵院を勧請しています。
 
漆部氏の、相模国で神祇祭祀関係に深く従事していたことが明らかになっています。
 
八雲神社神主家小坂氏が、この漆部直伊波の後裔であるかは、今後さらなる調査が必要ですが、古代の氏姓制度を守ってきた貴重な一族であることは間違いありません。

明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、神仏分離令を発し、世襲神職等が打撃を受けた中で、古代からの氏姓制度を世襲していることは、貴重なことと言えます。

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秋谷の入江から

秋谷の入江から
ここは、葉山の南隣にある秋谷の小さな入江、釣りに出るといつもはこの沖合で、アジサバを狙っている。
一昨日は所属マリーナの仲間が今季初のブリを釣ってきた。アジ・サバが釣れず、粘って釣ったヤリイカを餌に釣り上げた。

この日5日、私も他人船に同乗して泳がせ釣りを計画していた。道具を積み込み、出港準備が整って、エンジン始動テストに至ってトラブル発生。急遽出港を中止した。

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   そこで予定が空いたので、この日の秋谷の小さな入り江の訪問となった。
ここは、相模国国分寺創建時の瓦を焼いた窯跡乗越瓦窯跡、相模国を挙げての建設であったことが分かる。

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 何故秋谷だったのか、相模湾を横断して、40kmも離れた地、一つは、横須賀市内では7世紀後半から瓦が焼かれており、瓦技術者を抱える豪族が相模国分寺建立に積極的に協力したと考えられるという。

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秋谷の土が瓦に適していたのと、この小さな入江を基地に水運が利用できると考えたのだろう。

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隣接のシラス漁師を訪ねた。釜揚げシラスの日干し作業に勤しむ中、親切にも「発掘調査報告書」を持ってきてくれた。この家の改築時にも遺物が出土したという。
 
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この付近一帯17000㎡が窯跡になる。
山の斜面を利用した登り窯になる。
 
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                   発掘時の様子

  この日大漁だった釜揚げシラスを購入したのは言うまでもないことであった。

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横須賀東部の古墳跡を巡る
                                
  昨日、横須賀市観光ボランティアガイドの会主催のガイドツアー「横須賀東部の古墳跡をめくり、地政史を推測する」に参加した。やや健脚コースと言われていたが、13km以上とよく歩いたツアーだった。
なにしろ、横須賀市に土地勘のない者にとっては、歩いてみなければ、分からないことばかり、目を見張るようなことの連続であった。
 
そもそもは、安房口神社の存在を知ってから、周辺に古墳群がたくさんあることが分かり、歩いてみたと思っていたところに、このガイドツアーの存在を知った。
渡りに船の好企画、健脚コースに少し不安があったが、参加をお願いした。
  
コースのうち、古墳を中心に一部紹介したい。説明は、配布資料に寄る。
 
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大津古墳群
 東京湾側の京急大津駅前の森が古墳だった。
2007年の発掘調査の結果、古墳群は最高所海抜75mの丘陵頂部から北東方向へ緩やかに延びた急峻な細い尾根上に点在帆立貝形前方後円墳の一号墳と円墳の二号墳・三号墳の三基で構成されている。
 
安房□神社
 この神社は、このブログ海上安全安房口神社でも紹介したように、原始信仰の形を残した神社で、今回のガイドツアー参加のきっかけを作ったところ。裏側の住宅地から登る。
 洲崎神社と安房口神社を結ぶとほぼ真北を指す。それぞれの地点の磁北との西偏差を考慮した方向を向いている。当然ここに石を置いた意味があるだろう。一つは、対岸の最高所標高75mという点、目印山建てになった点であるが、そのほかに重要な意味があるとすれば、この真北が関わっているのではないか。
 
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 ○祭神は天太玉命(あめのふとたまのみこと)
・磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて、社殿、拝殿を持たない。三浦半島では最古の社ではないかといわれる。ご神体の石は安房国洲崎神社から安房大神太玉命の御霊代として東国鎮護のためにこの場所に飛んで来たといわれる。言い伝えによると、日本武尊が東征のとき、勝利祈願したと伝えられ、源頼朝、北条義時なども武運を祈って参拝したと言われる
 
大塚台古墳群
 ここからは、大規模開発の住宅団地を抜けた小学校校地の隣接地にあった。
復元古墳と公園内にパネルでの説明展示コーナーがあった。
 
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○大塚台古墳群は、大正13年(1924)に赤星直忠博士によって発見された。その後、発掘調査が行われ前方後円墳3基と円墳3基が確認された。復元されている前方後円墳は1号墳で、全長31.3ml、後円部径18.8mで古墳時代後期としては三浦半島最大のものである。後円部からは、土坑状の棺の床部分が確認されている。棺は木製であったため残っていなかったが、棺の床部分を中心に直刀2点、刀子1点、鉄鏃(鉄製のヤジリ)15点以上、ガラス製小玉40点以上などが出土した。
 
吉井貝塚・怒田城址
 
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○吉井貝塚がある台地は、縄文時代の貝塚と集落跡、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡、怒田城址が、ひとつの台地にいくつかの時代の性格の異なる遺跡が残されている複合遺跡である。 
・遺跡の中心となる縄文時代の貝塚は、第1貝塚と第2貝塚に分かれて存在し、おのおのの貝塚は上下に堆積する2つの貝層からなっている。またここから、縄文時代早期から中期にかけての土器、骨角製漁労具や装身具など豊富に出土している。 
・対岸約800mの位置にある「茅山貝塚」とは、時期において一致するところもあり遺跡相互の比較研究をする上で重要な位置を占めている。 
・平安時代末期・衣笠城を居城とする三浦氏は、この台地に山城を築いて怒田城とした。当時は、丘がずっと前方まで張り出しており、今の平地は全部海水が入り込んでいて、わずかに北側が後部の山岳と連なっているのみという、海を利用した山城としては理想的な地形であった。
 
蓼原古墳跡
 
 ここは、次の八幡神社も同じだが、久里浜の駅付近、現在でも海から僅かな距離。標高も3m程度の地、古墳時代には、波打ち際、低地の古墳といえる。そこから見事な埴輪が出土している。古久里浜湾の入り江の岬に当たる場所でどんな世界が繰り広げられていたのか想像が広がった。
 
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    ○昭和53年の神明小学校建設に伴う事前調査で古墳が     見つかった。この古墳は帆立貝形前方後円墳で墳丘
     全長28m、後円部径約22mであるが、江戸時代以前に
     洪水により墳丘は流失している。
・古墳からの出土埴輪のうち琴を弾く埴輪「弾琴人物埴輪」は、極めて:貴意な埴輪である。 古墳は調査後シートをかぶせ埋めてある。
 
八幡神社古墳跡・八幡神社
 現地はこの時代、海岸線から100メートルほどの距離にあり、市教委では埋葬人物は舟を使い漁業や交易をしていたと推測。墓は、胸から足先にかけて徐々に幅が狭くなっており、舟をイメージできるという。
これまでに5世紀前半とみられる三つの古墳が発見されている。
 古代の横須賀では、平作川に沿って海が内陸に深く入り込んで「古久里浜湾」をつくっていた。浅い海底に形成された砂地は耕作には適さず、墓地として活用される道が残ったとの説がある。
 
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○八幡神社遺跡は、標高3mほどの砂堆上に立地する遺跡で南北長約500m、東西幅が最大約170mほとの広がりをもっている。
この遺跡から4基の古墳が出土している。 ・八幡神社地点周辺は、広く古墳時代と中世の2つの時代に利用されていた。
 
 この企画、ボランティアさんが、最近の発掘成果をまとめてコースにしたもので、定年退職後にまったくの素人が勉強したものだと聞いて、思わず素晴らしい企画をありがとうございますと申しあげた。
よく歩いたが、同時に貴重な情報をたくさん手に入れた一日だった。

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