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昨日もまた余震がありました。
揺れが始まる度に、この地震はどれくらいで収まるだろうか、と思います。 テレビの映像は悲惨過ぎて、どう受け止めたらよいのか戸惑うばかりです。 一人でも多くの命が助かること、
救助の働きが速やかに用いられること
原発からの放射能漏れによる被害が広がらないことを
天地の造り主なる神に祈っています。
それと同時に、「神様どうして」という疑問も心に沸いてきます。
その疑問との戦いは、とても疲れるものです。
何も考えないのが一番楽だとさえ思ってしまいます。
聖書には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)
とあり、クリスチャンはそのように信じています。
そしてまた、神の知恵は、私たち人間には計り知ることができないと信じています。
それでも、「どうしてなのか。」と、 分からないこと、知らされていないことを求めてしまう自分がいる。 そこで「神を神として崇める」ということは、難しいことと気付かされます。 神を「人の願いを叶える道具」として求めるのは、信仰ではない。
でも、人は自分の目線で、神が自分の役に立つことを求めてしまう。
あまりにも狭い考え方ですが、とても陥りやすいところです。
聖書が言う罪とは、そのような考えに陥りがちな人間の傲慢さを指しています。
神を本当に信頼しているのか、 それとも、自分の考えを神にまで押し付けようとしているのか、
心の深いところに何があるのか、問われているように思います。 この世の悲惨な出来事に意味があるのか・・・、答えはすぐには出ません。
でも、世界を造られた神は、 この世界に命を与えた人々が、神を神とせず身勝手に生きていても
すべて滅ぼすのではなく、憐れみをもって支えてくださっています。
今、起きていることの意味を、人はそのすべてを理解することはできないけど、 聖書の神は、愛の神。 それは、イエス・キリストが御自身を十字架の上に犠牲となり、 すでに実証してくださっています。
あとは、私たちが信じて受け止めるかどうか。
そこに難しさがあるのですが、 すべてのことを愛をもって導いておられる神を信じます。
そして、できることを精一杯していこうと思います。
ここ中野では、地震の被害を受けた方々を思うとき、
普段とほとんど変わらない日常生活を送っていることに、後ろめたく感じます。
「何かしたい」と思っても、何もできないような気持ちにさせられます。 けれども、私たち一人ひとりは微力であっても、無力ではない ちょっと我慢して、その分を義捐金として送ること、 電気の使い方、時間の使い方に気をつけること、
小さなことでも、諦めないで、みんなで続けるなら大きな力になる。 これを読んでくださった方々も、 それぞれ思うところがあると思います。 無力だと諦めずに、できることを精一杯、協力していきましょう。 きっといつの日か、すべての意味が明らかになることを期待しつつ
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