季節の旅人のブログ

秋の日差しを浴びて、一歩一歩前へ

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<「戦国時代の主役“織田信長”(12)」・・・「村木砦の戦い」>
・・・「信長」が初めて「鉄砲の連射」の戦法を使った戦い

 
 さて、「今川義元」は、本格的に西進を目指し、じわりじわりと「尾張」に侵攻してきているようです・・・「赤塚の合戦」のところでも、記述しましたが、「信長」の代になって、鳴海城主「山口教継」と子の「教吉」が、「義元」側に寝返っています。それは、突然でなく、以前から「駿河勢」の工作があったからという史料もあるらしいです。そして、「山口教継」の働きかけで「沓掛城」「大高城」も「義元」側になっています・・・かなりの「尾張」への浸食です。
 
 さらに、「駿河勢」は、「信秀」と同盟関係を持ち、「織田方」だった「知多」の「水野信元」の「緒川城」を攻めようとします・・・「信長」の代にも、「信元」との同盟は続いていたようですね・・・ちなみに、「竹千代人質」のところに記述したように、「家康」の母於大」は、この「信元」の異母妹で、「信元」が「織田側」についたことにより離縁されます。
ところが、近くの「寺本城」の「花井氏」も「駿河方」につきます。このことによって、「信長」と「信元」は陸路では分断されるわけです。そして、「駿河勢」は、「信元」の居城「緒川城」の直ぐ近くに「村木砦」を造り、圧力をかけます・・・「信元」は「信長」に支援を求める訳です・・・「信長」は兵を出すことを承知します。


 <「緒川城祉」>
   ・・・「織田氏」と同盟関係にあった「水野信元」の居城でした。ちなみに、
     「徳川家康」の母君「於大の方」はこの城で生まれているようです。

   《現在の「緒川城」の跡》
         ・・・かなりの高台にありました。


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      《「緒川城」主郭跡 》

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      《「緒川城祉」の碑 》

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      《「緒川城」の説明板 》

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      《「緒川城」の主郭跡 》

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      《「於大の方」の出生地碑 》

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 <「村木砦」>
   ・・・「村木砦」の跡は、現在「八剱神社」になっています

   《「八剱神社」全景》

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   《「八剱神社」の殿  》

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   《「史蹟 村木砦祉」》

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      《「村木砦の戦い」の説明板 》

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      《 説明板にある「村木砦」の略図 》

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      《「八剱神社」の由緒 》

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信長公記」により、その戦いを要約してみます。
・先ず、「信長」は、父の「古渡城」の時と同じように、留守中に「清州衆」が、「那古屋城」を襲うのではと推測します・・・そして、「信長」は、奇手を使います・・・舅の「斉藤道三」に、留守中の城番の軍勢を一隊貸してほしいと依頼します・・・「重臣」たちはびっくりしたでしょうね。「清州衆」ではなく、「道三」に城を乗っ取られるのではと・・・。
 「道三」は承知し、1000人の兵を貸してくれます・・・同盟がきいていますね・・・そして、「信長」は「清州衆」の侵入を防ぐため「那古屋城」の北に配置したとのこと・・・そこは、「清州城」から「那古屋城」に兵を向けた時、側面攻撃できる位置にあり、「那古屋城」を包囲した時、後方から攻撃できる位置にありそうです。
 
・「信長」の出陣に対し、第一家老の「林秀貞」とその弟が不服を申し立てて退去します・・・後に、「林秀貞」は、弟「信行」をたてて、「信長」に反目しますので、このころから、「信長」に命を預けようとは思ってなかったのかも・・・それでも「信長」は、「林秀貞」なしで出陣をします。
 
・陸路は、造反し「駿河」についた者たちにより遮断されていますので、「信長」は海路で、「水野信元」の城に入ることにします。そして、「熱田湊」から出航しようとするのですが、予想外の大風で、船頭たちに「御渡海できない」と言われます。しかし、それを押して、強引に出港します。幸い無事に、しかも、一時間足らずで着岸し野営します。翌日、「信元」の
緒川城」に入り、軍議をします。

 <「熱田湊」>
   《 現在の「熱田湊」・・・「七里の渡り」》

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      《 現在の「跡田湊(七里の渡し)」は「堀川」を通り「伊勢湾」へ 》
          ・・・現在は、埋め立てが進んでいて、「跡田湊(七里の渡し)」は「堀川」
               を通って、「伊勢湾」に入るようになっています。

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・夜明けとともに、「駿河勢」の立て籠もる「荒木砦」を攻撃開始します。の大手は「水野信元」、西の搦手は「織田信光」、の空堀もあって最も攻めにくい所を「織田信長」が受け持ったとのこと。は、深い空堀のため案の定攻めにくく、“”から射かけられる矢で負傷者が数多くでたため、その「狭間」に繰り返し「鉄砲」を撃ちかけ、弓矢の攻撃を封じたので、兵は攻め上ることが出来た・・・これが、「信長」の「鉄砲」による戦いの始まりとか。

   《「信長」が本陣をおいたとされる「村木神社」》
      ・・・「村木砦」の対面の小高い丘にある「村木神社」

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      《 かなりの高台です 》

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      《「村木神社」の鳥居 》

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      《「村木神社」の本殿 》

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      《 本殿横の広場 》
             ・・・丘の上ですが、かなりの広さです。「信長」の時代もそうだった
        でしょうか? かなりの、軍勢を集めることができます。

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   《「村木神社」の説明板 》
         ・・・「ここは織田信長の本陣が置かれた村木神社」とあります

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・「駿河勢」も、奮闘し、双方打撃を受けたが、「駿河勢」が降参した。暮れ方になってこともあり、「信長」は謝罪を受け入れ許した。
 翌日、謀反し「信長」の行く道を遮断した、となりの「寺本城」の「花井氏」を攻め、城下に火をつけた後、那古屋に帰陣した。
 
・帰った「信長」は、「道三」配下の「留守居部隊」の陣所に出向き、お礼をいいます。そして、部隊は帰国して行きます。
 「道三」は、その家臣から「信長」の謝意とともに、「大風をついて渡海した様子」「村木砦の戦いの一部始終」の報告を聞き・・・「恐るべき男だ。隣国にいて欲しくない人物だな」といったとか。
 
 
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
 「道三」との同盟が、きいていますね。「守護代家」や「反信長の重臣」は手が出せない状態です・・・亡くなった爺の「平手政秀」の戦略が当たったのかも・・・。
 また、これにより、「水野信元」の同盟は「信長」の代でも、確かなものになりましたね。「信長」は「尾張」内に、まだ敵対勢力がたくさんのですが、「美濃」「尾張」「知多」が組んで最大の敵「今川義元」に対する構図が少しずつ出来つつあるように思えます・・・「道三」の生存までですが・・・。
 
そのころの「」は、「将軍」「管領」を押さえて、摂津守護代「三好長慶」が牛耳っており、「三好政権」の様相です。「将軍家」を継げるほどの名門「今川義元」には、「三好氏」を排除し自分が「」を牛耳るという野望と使命感はあったと想像します・・・「道三」も、それは把握していて、「義元」の道筋にある「美濃」もやがては「海道一の弓取り」と戦うことになることは予測出来ていたことでしょう。したがって、その外堀に「尾張」の「信長」を使うことも考えていたことでしょう・・・「道三」も、その同盟をうまく利用しようとしていたことでしょう・・・しかし、予想以上の「信長」の能力に驚き、また警戒もしなくてはと考えたのでしょうね・・・脅威に思った第一は、やはり、新しい「鉄砲を用いた戦法」だったのでは・・・「どこまで、新しい戦法をいろいろ考え出すやつなんだ・・・」と。
 
 
( 注記 )

 ※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味の
ある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]

 


                      ・・・次回は「尾張守護の自害」

 
 
 
 
 
 

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