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ひめゆりの塔に献花した。30年前は原っぱの中にあった記憶があるが、周囲は家で埋まっていた。
献花台に花が山と積まれていた。訪れる人が多いと嬉しく思った。竪穴は柵が廻らされているので、中を 覗くことが出来なかった。このガマの中で多くの負傷兵を看護した女子学徒は、私の女学校時代の同窓生である。
ひめゆりの塔の前に「いわまくら かたくもあらん 安らかに ねむれとぞいのる まなびのともは」の歌を刻んだ石碑が建っている。この歌を捧げた仲宗根政善は、私の父の従兄弟で、沖縄女子師範と県立第1高女の引率教師として沖縄戦に参加、負傷しながら生徒を守りぬいたおじである。戦後教え子の慰霊に1生を捧げた。
懐かしいし沖縄県立第1高女の校門が見えた。 戦前校門前は想思樹の並木が影を落としていた。
樹木に続いてこれが「ひめゆり平和記念資料館」、思わず校歌「首里城の丘かすむこなた 松風きよき大道に 沿いて甍の棟高し これぞ我らが学びの舎」のメロディを思い出した。
私は女学校3年生1学期5月に信州松本からこの学校に転入学し、4年生の8月夏母を助ける為に疎開し、命を永らえて生きている。1年3ヶ月足らずの学校生活だったがこの学校の思い出は鮮烈に残っている。
サイパン島玉砕から沖縄は戦時体制へ変貌していった。校舎で勉強した記憶は薄い。農村の託児所で幼児に「空襲警報聞こえてきたら,今は僕達小さいから、大人の言うことよく聞いて、慌てないで騒がないで落ち着いて 入っていましょう防空壕」と教えた。激戦の中 ガマ(防空壕)で幼児が泣くと敵に見つかると言うので、殺すように命令されて殺されたそうだ。
小禄飛行(現在那覇飛行場)の蛸壺壕堀り・垣の花の高射砲陣地構築にも動員された。地区別に編成されたので、クラスの友人とは親しくなれなかった。近所の同級生と軍歌を歌いながら勤労動員の場所に通ったので、62年前の少女の顔が浮かぶ。私は白髪になっている。
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