おばあちゃん(親父方)の話

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 2006年1月29日に81歳で亡くなったおばあちゃん(親父方)の話です。
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 前回の続きです。

 僕たち家族は、3月17日の夕方(ほぼ夜です)におばあちゃんの家に行きました。そして何よりもま

ず、お墓に行きました。

 この日と、次の日は、僕たち家族が責任を持って、お墓に灯を灯すからとおじさんに言ってあったから

です。

 そして、お墓に行くと、既にお墓には灯が灯っていました。時刻は、午後6時半前でした。

 皆は、

 「まあ、今日は来たのが遅かったから、誰かが灯を灯してくれたのかもしれないね。」と言って納得し

ておばあちゃんの家に帰りました。

 そして、おそらく初めてだと思いますが、おばあちゃんの家で、僕たち家族だけで夕食を食べました

(今までは、当たり前ですが、おばあちゃんが居ましたからね)。

 きっと、この日が僕たち家族が僕たち家族だけでおばあちゃんの家で食事をする最後の日だったでしょ

う。

 夕食を食べた後、親父は寝ました。時刻は、午後8時半でした。

 そこからはすることもなく、行くところもないので、僕と三郎とおかんはボーと深夜12時半まで一緒

にテレビを見ました。

 その日も、いつものように畳の上に電気絨毯を敷いて、各自が毛布を1枚掛けて寝ました。


 そして、次の日の朝、僕たちはお墓参りに行きました。その際に、松江から持って帰ったお菓子(茶菓

子)をお供えしました。

 午前11時頃だったでしょうか、おじさんとおばさんがおばあちゃんの家にやって来ました。

 おじさんと親父は一言も会話を交わすことなく時間は過ぎました。おばあちゃんの家の中は何とも言え

ない重苦しい空気が流れました。

 そして、おばさんが親父の元へやって来て、何やら話し始めました。

 おばさんは、あくまでも個人の意見と前置きをした上で、おばあちゃんの家や畑などの土地は、暫くの

間は共同管理で良いと言いました。

 親父はうんうんと聞いていました。

 その後、僕たちは畑へ行き、草抜きをしました。畑は、1ヶ月も手入れをしなければ雑草などが生えて

荒れてしまいます。また、何かを栽培している場所では、除草剤も使用できません。

 なので、鍬で土を掘り、草を抜くというよりは取りました。

 そして、そうこうしているうちに、おじさん家族は帰ってしまいました。

 結局、親父の言う「修羅場」はありませんでした。

 僕たちは、親父に、何故、家族で決めたことをおじさんに言わないのかを聞きたかったですが、その時

は黙っていました。


 その後、何事もなく夕方になり、最後の、お墓に灯を灯して帰ることにしました。時刻は午後5時半頃

だったと思います。

 お墓へ行くと、なんと前日と同じく既にお墓には灯が灯されていました。

 その時、親父は、凄く悔しそうな顔をしました。三郎は、

 「1回消してまた灯そうよ。」と言いましたが、却下されました。

 そして、おかんが言いました。

 「朝、お供えした、松江から持って帰ったお菓子がないわ。」と。

 確かによく見ると、朝、確かにお供えしたお菓子だけありませんでした(前からお供えしてあったお菓

子などはありました)。

 何となく、誰がこのようなことをするのかは皆分かっていました。僕から見てもかなり大人げないこと

だと思います。

 僕たちは、線香を立てて帰りました。


 その夜、親父がかなり久しぶりに怒鳴りました。そうです、僕たちが、お昼の親父の態度・行動を問い

詰めたからです。

 おばさんの言うように、おばあちゃんの家を共同管理ということにすると、つまりはおかんに負担が掛

かります。おかんがちょいちょいおばあちゃんの家に行き、窓を開けたり、畑の草を抜いたりしなければ

なりません。

 親父は、

 「分かったよ!今度会ったら言うよ!」と大きな声を出しました。


 次におばあちゃんの家に行くのは、3月21日(お彼岸)となっていました。

 その日、僕と親はおばあちゃんの家に行き、普通に振る舞い(お昼は、おはぎを食べることになってい

ました)、WBC(ワールドベースボールクラシック)の決勝戦(日本対キューバ)を見て、夕方帰りま

した。

 おじさんはこの日姿を見せませんでした。

 帰る間際、親父はおばさんに1通の手紙と書類を渡しました。

 手紙は、「弟へ」と題された手紙で、今の心境を綴ったものでした。詳しい内容は分かりませんが、先

日の、お墓の一件では悲しい思いをしたことなどが綴られていました。

 書類は、いわば契約書(一切の財産・祭祀継承者の地位を放棄する旨などが書かれていました)でし

た。親父は、この契約書は、仏壇の前でサインするつもりであると泣きながら言っていました。


 僕たち家族は、ある意味晴れ晴れした顔でおばあちゃんの家を出ました。

 僕の家は、おかんでもっていると言っても過言ではありません。おかんが沈んでいれば家族中が何か重

たい雰囲気に包まれ、おかんが明るければ家中が明るくなります。

 それから数日、おかんに笑顔が戻りました。冗談も言うようになりました。それはある意味重圧から解

放されたからでしょう。


 そして、先週水曜日、おかんは久しぶりに、レンタル屋さんへ行き、韓国映画を借りて来て観ていまし

た。親父にも笑顔が戻りました。

 実家の食卓の傍には、おばあちゃんの写真が置かれ、最近は毎日朝に親父がおばあちゃんにコーヒーを

入れてあげています。

 きっとこのままいけば、親は、ここ松江に新たにお墓を作り、仏壇も構えることでしょう。世の中に

は、二男が跡を継いでいる家は沢山あります(親父の聞いた話では、六男が家を継いだ例もあるそうで

す)。おばあちゃんや、先祖の方には申し訳ないですが、生きている人間が何よりも大切だと思います。


 今、僕の家には再び笑顔が戻りつつあります。


 追伸:
 なお、初めてお越しの方へ。
 「書庫」の上の方にある、「今後のラインナップ」に(仮)タイトルがありますので、読んでみたい記事がありましたら、コメント欄その他へお気軽にお書き下さい。日々、(仮)タイトルは増えておりますので、チェックしてみて下さいね。

 また、誠に申し訳ありませんが、出来れば、一番読みたい記事を1つだけ選んでもらえると嬉しいです。その記事が書かれた場合、またリクエストして下さいね。

 さて、前回の続きです。

 こうして、深夜12時頃、おばあちゃんの家には僕たち家族だけになりました。この日は、僕たち家族

は日帰りをする予定でしたが、おじさんの言葉を考慮して(喪主はおばあちゃんの家に泊まるべきだとい

う趣旨のこと)、おばあちゃんの家に泊まることになりました。

 そして、小腹も減ったということで、夕飯の残り物を食べながら、家族で話し合いをしました。この場

では、おかんは憔悴しきっていて、もうこんな家は嫌だと言っていました。この家と今後も関わるような

ら、親父と離婚したいとも言いました。

 僕が思うに、親父以外の家族の意見は一致していました。


 つまり、おばあちゃんの家に今すぐ、そして将来、住む意思のある人は僕たち兄弟にはいないというこ

とです。これは、家がどうこうというよりも仕方のないことでした。

 親父は、もう10年くらいしたら、住んでもいいかな、と思っていたようです。おかんは住みたくはな

い、住む意思はないと言いました。後は、親父の決断一つでした。

 その場では皆が思っていることを言いました。

 例え、この家を親父がもらっても、到底管理は出来ません。週に1度この家に来ることもおそらくでき

ないでしょう。また、誰かに管理を頼むにしてもかなりの金額が掛かります。


 この日の話し合いでは、親父は、この家の所有権を放棄するという方向でまとまりました。親父は、お

ばあちゃんが亡くなったことさえも未だに受け入れられないような状態だったので、かなり酷な決断をし

てもらわなければなりませんでした。


 そして、午前3時過ぎでしょうか、いつものように、畳の上に電気絨毯を敷き、各自が毛布を持って寝

ました。

 朝、6時半頃、何かおかしな音がしていて起きました。見ると、おかんが苦しそうに呻いていました。

僕は一瞬救急車を呼ぼうかと思いましたが、そうではなく、おかんは泣いていました。


 僕たち家族は、おかんの泣き声で起きました。昨夜の出来事が忘れられず、一睡も出来なかったそうで

す。

 そして、家中を掃除して、昼過ぎに帰りました。


 次におばあちゃんの家に行くのは、本当の49日にあたる3月18日でした。

 それからは、親父もおかんも毎日目に涙を浮かべているかのように生活をしていました。三郎も実家に

いましたが、親には声を掛けられないほどでした。


 親父は、18日に、おじさんに、この家はおじさんに譲るということを言う決心をしていました。

 余談ですが、実際、親父はこの家には約2年間しか住んでいません。親父が高校2年生の頃に建てられ

た家だそうです。親父は、親父のお父さん・お母さん(おじいちゃん・おばあちゃん)の思いを受け継ぐ

ことが出来なくて申し訳なく思い、目に涙を浮かべていました。

 つまり、おばあちゃんの家の所有権を放棄して、おじさんに譲るということは、仏壇も位牌もおじさん

に譲ることを意味し、祭祀継承者の地位もおじさんに譲るということを意味していたのです。


 何というか、言いにくいのですが、仏壇を動かすわけにもいかず、家はおじさんの物で家の中にある仏

壇は親父の物、という都合のいいことは出来ないらしいのです。

 
 僕は、長男です。子供の頃からずっと、僕はあの長芋畑の見えるお墓に入るものだと思っていました。

子供の頃は、あんな寂しく辺鄙な場所にあるお墓に入るのは嫌だな、と思っていました。

 親父もまた、僕以上にずっとずっとあのお墓に入るものだと思っていました。親と一緒のお墓に入るこ

との出来ない悔しさや、これからは祭祀継承者ではなくなることについて、親への申し訳なさがあったの

だと思います。

 前にも書きましたが、おじいちゃん・おばあちゃんは、鳥取県に長芋を根付かせた功労者の1人です。

お墓の前の長芋畑を見つめながら、きっと毎年、今年の長芋出来はどうかなと心配していることでしょ

う。

 親父には、長芋畑で働いているおじいちゃんやおばあちゃんの姿が重なって見えていることでしょう。


 さて、僕たち家族は、3月17日に、おばあちゃんの家に行き、1泊することにしました。

 この前日、三郎は、

 「もう、おばあちゃんの家には行きたくない。あんな場面は見たくない。」と言いました。


 僕はその時に、三郎を説得しました。

 「今度は、多分、凄いことになるから、居た方が良いよ。ニコニコしている親ばかり見ていても駄目だ

よ。」と言いました。

 次の日、三郎はおばあちゃんの家に行く車に乗っていました。


 しかし、それは僕の説得が功を奏したからではなく、親父が、

 「頼むから明日来てくれ。修羅場を見せてやる。」と三郎に言ったらしく、来ることにしたそうです。


 おばあちゃんの本当の49日は修羅場になりそうでした。

 続きます。
  



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 さて、前回の続きです。

 平成18年3月11日(おばあちゃんの納骨の日)、僕たち家族は約1ヶ月振りに全員集合しました。

 東京にいる次郎は、朝一の飛行機で鳥取空港に来て、そこから電車でおばあちゃんの家に来ました。残

りの面々(僕たちですね)は、朝、車でおばあちゃんの家に向かいました。

 この日は、朝10時におばあちゃんの家に、おじさん家族と待ち合わせをして、お墓掃除をすることに

なっていました。

 僕は朝7時過ぎに実家へ行きましたが、僕の家族は朝弱いというか、支度が遅く、寝起きの三郎と、未

だ髭を剃っていない親父がいました。おかんは、テキパキと動いていましたね。

 どうにかこうにか頑張って、朝10時前にはおばあちゃんの家に着きまして、早速お墓掃除に行きまし

た。お墓は、目の前には長芋畑が広がり、すぐ近くには海(日本海)があります。なので、お墓の墓石は

砂混じりの風ですぐに汚れてしまいます。風も強いので、撒き石が飛び散ってしまいます。

 僕たちはお墓を磨き、雑草を抜き、花をいけました。そして、線香を立ててお祈りしました。

 まだまだ時間があったので、僕たち兄弟は、もう一人のおじいちゃん・おばあちゃん(おかん方)の家

に行き、話をして、時間を潰していました。

 ちょうど、おじさん(おかんのお兄さん)もいて、おじさんは高校の校長先生なので、今年の大学合格

の実績を嬉しそうに話してくれました。因みに、今年は、鳥取県で1番の進学校成長したようです。

 そして、頃合いを見計らい、おばあちゃんを連れて(おばあちゃんは納骨へ参加しました)帰りまし

た。そうそう、おじいちゃんは、とても元気そうでしたよ。

 この日のスケジュールは、午後1時半よりおばあちゃんの家で和尚人さんがお経→お墓に移動して、納

骨→お寺に移動して、49日の取り越し法要→お食事、となっていました。


 そして、納骨は喪主であった親父が行いました。お墓には、他に骨壺が3個(数え方は合っているので

しょうか)ありました。どうやら、お骨は時間が経つと崩れてきて、容量が減る(入れた当初は満杯に入

っています)ため、他のお骨と一緒にしてしうことがあるそうです。

 そして、午後4時半頃でしょうか、無事に法要まで終わりました。


 ここからは、最後の食事会となります。

 親父の挨拶の後、僕は、次郎と三郎と共に3人で一緒に食事をしました。

 この日、僕たち家族は日帰りを予定していたため、僕はお酒を飲まずにひたすら食べ続けました。そし

て、次郎と三郎にお酒(ビール)をついでいました。


 親戚の人達は、いい方は悪いですが、待ってましたとばかりに日本酒を飲み、陽気に話しをしていまし

た。

 そして、僕たち兄弟は早めに食事を済ませ、他の部屋に移動してくつろいでいました。

 その後、おばあちゃん(おかん方)を家まで連れて帰りました。

 道中、おばあちゃんは珍しくおかんの子供の頃の話(中学生の頃の話でしょうか)をしてくれました。

 結論から言うと、おかんはとても運のいい子だったということでした。


 午後6時半か7時頃だったでしょうか、突然、食事会の行われているはずの部屋から大きな声がしてき

ました。

 なんというか、僕の親戚は、飲むと大声で話す傾向があるようで、僕が子供の頃もお酒の席ではおじさ

んと亡くなられたおばあちゃんの弟さんが大声で言い合い(ほとんど喧嘩です)をしていました。


 その怒声の鳴り響く時間は多分2時間以上に及びました。

 僕たち兄弟はもとより、誰もその部屋に入ることは出来ませんでした。

 「うるさい、黙れー!」

 「俺の言っていることを聞けー!」など、周りの親戚も加わって、口喧嘩をしていました。


 そうです、騒いでいるのは、おじさんでした。

 後から分かりましたが、おじさんは、僕の家族へ対してかなりの不満があったらしく、その不満を親父

や周りの親戚に言っていたそうです。

 おじさんを弁護するつもりなど全くありませんが、おじさんは、喪主とは言いながら殆ど何もしなかっ

た親父に不満を持っていて、それがその場で爆発したのでした。

 最後の方には、毎週続いてきた御逮夜のためにわざわざ休みを取った自分たちは、一体幾ら損(お金の

話です)をしたと思っているんだ、とまで言い始めました。

 その場には、おじさんの子供もいましたが、親に対して何も言わなかったそうです。

 僕がその場にいて、親父が酒に酔って暴言を吐き始めたら、言い方は悪いですが、きっと殴ってでも止

めるでしょう。


 それともう一つ、このおばあちゃんの家をどうするか、ということでも揉めていました(なんという

か、遺産争いというのでしょうか)。

 その場にいたおかんは、おばあちゃんの遺影を見つめながら泣いていました。

 何故、この納骨という日に兄弟喧嘩をしなければならないのか、おかんは心の中で、

 「おばあちゃん、ごめんなさい。」と謝っていたそうです。


 兄弟喧嘩とは言っても、親父もまた言い返したかというとそうではありません。親父は、何も言い返さ

ず、じっとおじさんの言うことや親戚の言うことを聞いていました。


 後日、その場にいた親戚は、

 「あれは、我が家の醜態だ。」(納骨の日に、兄弟喧嘩をするなんて、という趣旨です)と嘆いていま

した。

 結局、おばあちゃんの死をきっかけに、力を合わさなければならない一族は分裂してしまったのです。

 親戚が帰った後もおじさんは僕の家族に対する文句を言い続けました。その場には、僕たち家族と、お

じさん家族だけになっていました。

 おじさんの言いたいことは主に2つありました。

 1つは、一体この家をどうするのか、という問題。家は誰かが管理しなければすぐに傷んでしまい、畑

は1ヶ月も放置すれば雑草だらけになり使い物にならなくなるということ。

 これに対して親父は、お盆くらいまでには考えをまとめたい、と言いましたが、おじさんは、今すぐに

決めろと迫りました。

 もう1つは、喪主としてしっかりしろということ、喪主ならば本来は49日が終わるまではこの家に住

み、納骨から49日までも毎日お墓に灯を灯しに行くべきだ、ということでした。なんというか、全て裏

方作業は自分達家族にさせるな、ということでした。

 そして、おかんが言いました。

 「すいません。全て私が悪いんです。」と言い、頭を下げました。。おじさん家族に甘えていた自分が

悪いと言ったのです。

 これにはおじさんも驚いたらしく、暫くして自分の家に帰ってしまいました。

 その後、おばさん達も、

 「お父さん(おじさん)は酒に酔って言っただけで、気にしないで下さい。」と言って帰ってしまいま

した。

 こうして、おばあちゃんの家には僕たち家族だけになりました。
 

 続きます。


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 お久しぶりです。

 今回は、おばあちゃんが亡くなった後の52日間(お彼岸まで)について書いてみたいと思います。

 前回にも少し書きましたが、49日までには、御逮夜(おたいや)というのが6回あります。この御逮

夜とは、簡単に言えば、おばあちゃんにエールを送るという感じの日です。

 つまり、本当はもっとこ難しいのですが、僕の解釈によると、おばあちゃんは亡くなった後、7つの関

門を突破しなければならず、1週間宛ある道(何々道、何々道というそうです。例えば、餓鬼道。)を歩

いて、7日目に関所のようなところで、検問を受け、それをクリアーすると次の道に進むのだそうです。


 そして、御逮夜とは、おばあちゃんが検問を受ける前日に、

 「明日はおばあちゃんが無事に検問をクリアーしますように。」と親族等が祈る日なのだそうです。

 そして、おばあちゃんの亡くなった日を考慮して、おばあちゃんの御逮夜は、毎週金曜日になっていま

した。

 つまり、少なくとも毎週金曜日はおばあちゃんの家に行かなければいけないのです。

 おかんはこの御逮夜でゲッソリしてしまいました。

 週に1度だけならそんなに大変ではないのでは?と思われる方もおられるかもしれませんが、おかんよ

りもはるかに若い僕でもゲッソリでした。

 しかも、この御逮夜では、おじさん(親父の弟)の意向で毎週料理(これも、おばあちゃんの意向とか

何かで手料理ということに決まりました)が振る舞われ、ちょっとした宴会が開かれました。

 ある日は、おばさんが作り、ある日はおばあちゃんの妹さん達が作ったりしていました。

 おかんがゲッソリした理由、それは、親戚にありました。親戚の中には優しい親戚ばかりではなく、厳

しい、というかいじわるな親戚もいるのです。また、田舎ということもあり、かなり厳しいルールのよう

なものが存在していました(説明はしにくいのですが・・・)。


 ここではおかんの名前を「花子」としましょう。

 初めての御逮夜の日、僕たち家族がおばあちゃんの家に行くと、既に親戚は来ていて、開口一番、

 「花子さん、お団子は作ってきたの?」と聞きました。

 「いえ。お団子がいるんですか?」

 「そうよ。当たり前でしょう?そんなことも知らないの?今日は私が作って来たけど、今度からはお団

子を作って来てよね。」

 等です。見ていておかんが哀れになりました。

 「喪主の嫁」というだけで、あーだこーだと言われ、何も知らなければ(勿論知るはずがありません。

僕の家やおかんの実家には仏壇すらないのですから)、そんなことも知らないのか、とチクチク言われる

のですから。


 また、直接は言われませんでしたが、喪主は(喪主が無理ならその嫁は)、49日が終わるまでは、毎

日おばあちゃんの家に来て、ろうそくに灯を灯すべきだ、というようなことも言われました。

 僕の実家からおばあちゃんの家まで約100kmあります。どうやって、そのようなことを毎夜しろと

いうのでしょうか。

 答えは簡単です。嫁だけでもずっと泊まればいい、というのです。無理です。


 そんなこんなで、毎週金曜日はおかんにとっては本当につらい日となりました。また、料理を振る舞う

というのもおかんにとっては苦痛でした。

 毎週、僕の実家、松江の名物を探しては買って帰り、酒の席で振る舞いました。

 ここだけの本音を僕が言わせてもらえば、料理なんて振る舞う必要はありません。おばあちゃんの検問

のクリアーを祈り、来てくれた人にはお茶やお菓子を振る舞って終わりにすればいいのです。

 毎回6時に、お経が始まり、その後お酒の席となり、毎回終了するのは、10時頃でした。


 ある参加者は、

 「こんな豪華な御逮夜は経験したことがない。」と言ってました。


 御逮夜の夜、親には申し訳なかったですが、僕は一人で実家へ戻りました。親は、おばあちゃんの家に

泊まって、次の日の夕方に帰って来ました。勿論、いつもの如く、畳の上に電気絨毯を敷いて、毛布を掛

けて寝るのです。きっと寝た気はしなかったことでしょうね。

 さて、僕の家族は基本的には毎週金曜日にしかおばあちゃんの家には帰りませんでしたが、では田舎の

風習に従って、毎晩仏壇に灯をともしていたのはというと、おじさんとおばさんでした。

 どうやら、おじさんとおばさんは、毎晩のようにおばあちゃんの家で晩ご飯を食べていたようです。

 おじさんは、おばあちゃんの家から車で5分の距離に住んでいます。大変だったとは思いますが、その

辺は、家が近いということで、僕の家族はおじさん達に甘えていました。

 おじさん達は、毎日おばあちゃんの家に行って、色々部屋を掃除していたようでした。毎週おばあちゃ

んの家に行く度に、おばあちゃんの匂いは消えていっていました。

 まず、初めの御逮夜の日には、おばあちゃんの部屋の照明器具や玄関の照明が変わっていました。なん

と、おばあちゃんの部屋の照明(蛍光灯)は、リモコン式になっていました(変えた理由は、部屋が暗い

から、だそうです)。

 僕たち家族は、何故勝手に照明器具を変えるのか、何故もう誰も住まないであろう家に手を加えるのか

を不思議に感じていました。するなら、おばあちゃんの生前にしてあげればいいのにとさえ思いました。

 因みに、おばあちゃんの葬儀の際に頂いた金員は、おじさん達が管理していました(おばあちゃんの家

と近いので、何かと便利であろうということで)。


 そして、3回目の御逮夜の日、大きな事件が起こりました。

 なんと、おばあちゃんの着物や箪笥が処分されていたのでした。それを知った親父は大変悔しがりまし

た。おばあちゃんのはどんな着物・服を着ていたのか、ゆっくり見る前に処分(おばあちゃんの妹さん達

に形見分けしたそうです)されていたのです。

 おかんもこれには怒り心頭で、

 「普通は形見分けは、49日が過ぎてからするものでしょう!常識がないわ。」と言っていました。

 こうして、おばあちゃんの家は行く度に整理され、人が住んでいる気配もなくなっていってました。

 家では、おかんはずっとおじさん達の言動に怒っていて、僕にグチグチと毎日話をしてきました。僕は

来る日も来る日もその話で、参ってしまいました。

 親父はというと、おばあちゃんが亡くなったことを未だ受け入れられないのか、疲れ果てたような顔を

していました。また、毎晩寝る前に「夢に出てきて下さい。」とお願いしてから寝ていたそうです。


 こうして、おかんは、毎週金曜日が近づくにつれて、ため息ばかりするようになっていました。


 おばあちゃんの納骨は、3月11日に行うことになりました。最近では、亡くなって35日目に納骨を

する人達が多いようですが、おばあちゃんの場合は、42日目に行うことになりました。

 この地方では、納骨をすると、その日から49日目まで毎晩お墓に灯を灯さなければならないようで、

それを避けるために少し遅めに納骨することになったのです。


 納骨の日は、次郎や三郎も駆けつけ、約1ヶ月振りに僕たち家族は集まったのですが、その日の夜に遂

にあってはならない大事件が起こってしまいました。

 続きます。


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 前回の続きです。

 葬儀の次の日である2月1日(水)は、朝から香典開きをしました。帳簿と照らし合わせながら中身を

記録していく作業です。三郎と次郎がが中身を開いて、僕がおじさんに報告し、おじさんが帳簿に書き込

んでいました。

 こんな時も次郎と三郎は楽しそうにやっていましたね。ちょっと汚い話ですが、誰かが1万円を包んで

下さったとします。

 すると、三郎が「やりました!」などと言って、ファンファーレを歌っていました。これにはおじさん

も苦笑いでしたね。

 しかし、最終的には、何故か帳簿の合計金額と実際の現金の合計が1万5000円合わずに苦労しまし

た。

 その後、僕たち兄弟は、葬儀前の家の状態に戻すべく、玄関などに靴箱や植物を並べました。

 また、おばあちゃんの好きだった本(読書が好きでしたから)やおばあちゃんのアルバム・趣味だった

切り絵や貼り絵を多くの人に見てもらおうと、仏間に運んで全ての作業は終了しました。


 その日の夜に僕たち家族はようやく家に帰りました。

 家に帰っても誰も食欲もなく、カップラーメンを食べましたね。そして、僕たちはかき餅を食べまし

た。

 かき餅(方言でしょうか?)とは、説明しにくいのですが、お餅の中に細かく切ったワカメを入れて、

長細く適当な大きさにして干した物です。おばあちゃんの作るかき餅は、砂糖と砕いたピーナッツが入っ

ていて、甘いのが特徴です。

 今年、おばあちゃんは何年か振りにこの特製のかき餅を作ってくれました。正月にどっさり貰いました

が、残りは6本になっていました。これを、トースターで焼いて一人1本宛食べました。最後の1本は一

人が一口宛食べて終わりました。

 おかんは、

 「おばあちゃんは何かを悟って、数年振りにこのかき餅を作ってくれたのかもしれないわ。味わって食

べなさいね。」と言いました。


 さて、次の日、次郎は午後から出社することになっていて、朝一番の飛行機で東京へ帰って行きまし

た。

 「いやー、これが本当の自宅出勤!」などと言っていたそうです。


 僕はあまり宗教的なことは詳しくありませんが、今は、毎週金曜日の夜に「御逮夜」(「おたいや」と

読みます)というのがあり、おばあちゃんの家に行き、拝んでいます。

 おばあちゃんの四十九日は、3月18日だそうで、これは亡くなったおじいちゃんの誕生日なのだそう

です。何か運命というのはあるのでしょうかね。


 さて、少し日常に戻った僕の家はというと、親父とおかんは以前に比べれば回復しましたがかなり落ち

込んでいます。

 先日も、大根を煮て食べたときに、おかんが、

 「これは正月におばあちゃんと一緒に貴方も採った大根よ。これでおばあちゃんの大根は最後だわ。」

と言い、違う日には、「これでおばあちゃんの作ってくれた漬け物は最後だわ。」と言いました。


 親父は毎夜、寝る前に、おばあちゃんに夢に出てきて下さいと言ってから眠るそうです。

 大阪にいるおばあちゃんの妹さんは、

 「毎日、おばあちゃんの家に電話してみるんだけど、誰も出ないのよね。」と言っているそうです。お

ばあちゃんの生前は、2日に1回は電話で話をしていたそうです。

 次郎は、疲れが出たのでしょうか、インフルエンザになりました。


 僕もおばあちゃんの家に行った時は、思わず畑とか庭をウロウロしてしまいます。



 大正13年10月31日、おばあちゃんはこの世に生まれました。大正・昭和・平成と生きてきたおば

あちゃん、よく考えると、大正13年とは西暦で1924年ですよね。

 第二次世界大戦中は満州(中国)にいて、女学校にも通っていました(当時で言えば高学歴だったよう

です)。その後、農家をしていたおじいちゃんと結婚しました。

 そうそう、僕はおばあちゃんと言えば、ごつい手と指でした。ボコボコした指で、子供の頃から何故こ

んな指なのだろうと思ったものです。

 おばあちゃんは若い頃、綺麗だったそうで(実際、写真を見たときには僕も思いました)、おじいちゃ

んと結婚した際に周りから、

 「こんな指の細いお嬢さんに農家の嫁が務まるのかしら?」と言われたそうですが、おばあちゃんは朝

から晩まで一生懸命に働いたそうです。

 そして、昭和30年後半頃、おじいちゃんと共に当時鳥取県では行っていなかった長芋(当時、長芋と

言えば長野県が有名だったそうです)に目を付け、先駆的な役割を果たしました。その長芋を掘る際に、

主に手で掘るために、おばあちゃんの手はボコボコになったそうです。

 今のおばあちゃんの家は、周りから「長芋御殿」などと呼ばれたそうです。

 明治生まれの曾おじいちゃんは頑固な人だったらしく、当時少しずつ普及し始めていた電化製品(冷蔵

庫など)を買う許可を貰えずに苦労したそうです。

 また、親父とおじさんが好きだったという卵料理を作るのに、姑さんを気にしなが作ったそうです(当

時、卵や調味料は高価だったそうです)。

 そして、昭和57年におじいちゃんが亡くなります。その後は曾おじいちゃんの面倒を見ながら、一人

で家を守ってきました。

 この頃からおばあちゃんは信心深くなったそうです。

 僕の家はおばあちゃんから野菜などをどっさり貰っていましたが、おばあちゃんは形の良い物・大きい

物は僕たちにくれて、自分は形の悪い物・小さい物(不良品のような物)ばかり食べていたそうです(今

回初めて聞きました)。

 平成13年には家の前でひき逃げされ、おばあちゃんは足を骨折しそれ以来足が悪くなりました。実は

当時僕も足を骨折しましたが、おばあちゃんに、

 「若くていいねぇー。同じような時期に骨折したのに、おばあさんはまだ満足に歩けないよー!」と言

っていましたね。

 そして、平成18年1月29日におばあちゃんは亡くなりました。

 生前の言葉とおり、誰にも看病や看護などの迷惑をかけることなく逝ってしまいました。

 晩年は周りの人に、

 「何も悔いはない。いつ死んでもいい。いい人生だった。」といつも言っていたそうです。本心からそ

う言っていたならば、おばあちゃんにとっていい人生だったと思います。


 最後に、おばあちゃんへの手紙にも書きましたが、

 おばあちゃんの孫で本当によかったです。天国で会いたかったおじいちゃん達と仲良く暮らして下さ

い。そして僕たちを見守って下さいね。

 本当にさようなら、そしてありがとうございました。


 最後までお読み頂きありがとうございました。また、機会があればおばあちゃんの話でも。

 尚、この話については、何か思い出せばその度に文章を修正します。

 只今の貯リクエスト率は、10%(1件)です。


 追伸:
 なお、初めてお越しの方へ。
 「書庫」の上の方にある、「今後のラインナップ」に(仮)タイトルがありますので、読んでみたい記事がありましたら、コメント欄その他へお気軽にお書き下さい。日々、(仮)タイトルは増えておりますので、チェックしてみて下さいね。

 また、誠に申し訳ありませんが、出来れば、一番読みたい記事を1つだけ選んでもらえると嬉しいです。その記事が書かれた場合、またリクエストして下さいね。

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