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 家族以外の人々、おじいちゃんやおばあばあちゃん、おじさん、おばさん、従姉妹・従兄弟のことを中心に書いていますよ。
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留守番電話でのもめ事

 今回は(63)留守番電話での揉め事、です。リクエスト頂き誠にありがとうございます。

 さて、余談ですが、久しぶりにリクエストを受け付けましたが、リクエストの仮タイトルを作成したの

が随分と昔のことで、自分で見ていても、これは何を書こうとしていたのかパッと思い浮かばないことも

多くなってきました。


 では、本題に入ります。

 皆さんは、電話先が留守番電話だった場合、どうしますか?つまり、何かメッセージを吹き込みます

か、それとも何もメッセージを吹き込まないで電話を切りますか。

 おばあちゃんの場合ですが、おばあちゃん(親父方)の場合は何も言わないで切ってしまうタイプで、

おばあちゃん(おかん方)は何かメッセージを吹き込んでから切るタイプです。

 おかんは、余程のことがない限り、何も言わないで切るタイプですかね。まあ、今は携帯は勿論です

が、固定電話でもナンバーディスプレイが普及しているので、誰が電話をしてきたのかは分かるようにな

りましたね。


 さてさて、おかんは週に何回か実家に電話をしているそうです。主にはおばあちゃん(おかん方)と近

況を話すそうですが、これは決まった日に電話をしています。

 一番多いのが木曜日だそうで、これはおかんの親と同居をしているおばさん(おかんのお兄さんの奥さ

ん)が決まって出掛ける日だからです。

 つまり、おかんが実家へ電話がし易い日、気兼ねなく電話が出来る日なのですね。


 ある時期に、おかんが実家へ電話をしても電話をしても留守電になり電話が繋がらない日が続きまし

た。

 当時のおかんの怒りようといったら凄かったですね。

 「お父ちゃんやお母ちゃんが留守電の解除の仕方を知らないのをいいことに、私に嫌がらせをしている

んだわ!」と言っていました。

 まあ、留守番電話の設定にもよりますが、かなり早い段階で留守電になるように設定されていたようで

す。おじいちゃんやおばあちゃんの場合ですと、電話がなり、それに気づき、立ち上げり、少し歩いて電

話まで行くのですが、その間に留守電に切り替わってしまうのですよね。


 日々、おかんの被害妄想は膨らむばかりでして、

 「今度、あいつ(おかんのお兄さん)に会ったらそんな嫌がらせをするなと言ってやる!」と言ってい

ました。

 そうなのです、これはおかんの被害妄想でした。


 少し、事情を説明しなければなりません。

 皆さんは、親さんに対して反抗期というものはありましたか?勿論、僕にはありましたし、次郎にも三

郎にもありました。おかんに対しても親父に対しても汚い言葉も使いましたよ。でも、僕はそれが普通だ

と思っています。

 僕の従兄弟(おじさんの子)は反抗期がありませんでした。僕の知る限りでは、幼い頃から親さんに反

抗したことはなく、真面目ないい子でした。今となっては、真面目でいい子を演じていたといった方が適

切な表現かもしれません。

 僕や次郎が幼い頃、夏休みにはおかんの実家へ2泊や3泊はしていました。驚くべき事ですが、僕と次

郎が朝起きると、従兄弟達は既に起きていて、夏休みの宿題をしていました。それが終わってから僕たち

と遊んでいました。

 そして、壁には、宿題を終えてから遊びに行くこと、と書いて貼ってあり、それを実践していました。

 何と言いますか、本当に真面目な家風でした。


 従兄弟が高校に進学した後、理由は忘れました(成績が下がったのでしょうか)が、従兄弟はおじさん

の言いつけで部活を辞めました。つまり、おじさんは勉強に専念させようと考えていました。


 その後、時期は覚えていませんが、従兄弟は精神病になりました。その後、良くなったり症状が悪化し

たりの繰り返しでした。周期的には約2年に一度の割合で症状がでました。

 従兄弟は高校も休学、留年しました。大学へは行きましたが、そこでも休学を繰り返し、遂には大学を

辞めてしまいました。

 当時、従兄弟は総合失調症と診断されていました。一生薬を飲み続けなければならないと聞きました。

久しぶりに従兄弟を見た時、身体は薬の影響でしょうか、かなり浮腫んでいました。

 何年か前に、詳しくは書けませんが、僕宛に従兄弟から電話があり、意味不明なことを言われたことも

ありました。従兄弟はその数日後に入院していました。


 おかんの実家が留守番電話になっていた当時、実は従兄弟は入院していました。入院先から深夜であろ

うとなんであろうと従兄弟は家に電話をしてきていたようで、苦肉の策として留守番電話にすることにし

たのだそうです。


 おばあちゃん(おかん方)はことある毎に、目に涙を浮かべながら、

 「なんであんな優しくていい子がこんなことになってしまったのか。」と言います。聞いていると辛い

ですね。


 実は、従兄弟が病気であることはおじさんからおかんや僕には一切伝えられていませんでした。おばあ

ちゃん(おかん方)がこっそりおかんに状況を教えてくれていました。なので、おじさん達としては、留

守番電話にした理由が言えなかったのでした。


 従兄弟はかなりの長期入院でしたが、無事に退院しました。

 その過程で、従兄弟は総合失調症ではなく、躁鬱病であると診断されたそうです。両者は全く違うらし

く、変な話ですが、皆喜んでいました。


 去年の12月でしたが、おかんが法事へ出席した際に、おじさんが酔っておばあちゃん(おかん方)に

絡んだ時のこと、従兄弟が、

 「お父さん、そんな考えは間違っている。」と大きな声で言ったそうです。

 それを見て、おかんは安心したそうです。


 また、先日おじさんが市内に来た際に、おかんと深夜まで話していて隣同士で寝たという話をしました

が、ここで従兄弟の名前を「太郎」とすると、おじさんは、

 「おーい、太郎、どこにいるんだい。」と寝言を言っていたそうです。

 それを聞いておかんは涙が出たそうです。


 その後、従兄弟は、自分で看護師になりたいと言い、看護師になるために専門学校の試験を受けまし
た。

 そして先日、見事に合格しました。4月からは元気に学校へ通います。


 僕も将来、親になったらきっと可愛い子供から言われます、

 「このくそじじぃ。」と。

 でも、それは成長する過程で必要なもので、普通だと思っていますが、いつのことになることやらです

ね。

 只今の貯リクエスト率は0%(件)です。リクエスト、お待ちしています。


 追伸:
 なお、初めてお越しの方へ。
 「書庫」の上の方にある、「今後のラインナップ」に(仮)タイトルがありますので、読んでみたい記事がありましたら、コメント欄その他へお気軽にお書き下さい。日々、(仮)タイトルは増えておりますので、チェックしてみて下さいね。

 また、誠に申し訳ありませんが、出来れば、一番読みたい記事を1つだけ選んでもらえると嬉しいです。その記事が書かれた場合、またリクエストして下さいね。

 続きです。

 大学2年の夏休み、それぞれ実家に帰省していた僕達は久しぶりに会いました。僕の中学時代の親友も

も交えて3人でビアガーデンに行きました。実はそのビアガーデンは、とあるデパートの屋上でしていた

のですが、今ではそのデパートもなくなり(移転しました)少し寂しく思います。

 その時に小林君からその言葉を言われたと記憶しています。

 「あの時に貰ったお守りね、今でも大切に持っているよ。」と言われました。

 僕はそれを聞いた瞬間に胸が熱くなりました。

 小林君が大切に持っていたお守り、小林君が入院した頃に、僕が神社へ行って購入したものでした。僕

にはそれくらいしかできることがありませんでした(勿論、あんな本やこんな本を差し入れた友達もいる

と思いますが)。

 そのお守りを購入したときのことは今でも覚えています。

 神社で売られているお守りは何種類もありまして、病気の回復系のお守りでも2種類はありました。当

時、僕は、

 「お守りは2つありますが、どちらが効果がありますか?」と聞いて購入した記憶(どちらも同じと答

えられたと思いますが)があります。

 小林君は、そのお守りを病室のベッド(頭側です)に括り付けてくれました。手術当日、そのベッドご

と移動されたらしいですが、その時もお守りは付けたままだったと以前に聞いたことがありました。


 僕が神社でお守りを買って小林君に渡してからその時で約8年が経過していました。小林君が病気が治

った後もそのお守りを大切にしていてくれたことが嬉しかったです。


 余談ですが、小林君にあげたお守りと同じお守りを、同じ神社で購入し、亡くなったおばあちゃん(親

父方)にも今年の1月17日に渡しました(おばあちゃんが亡くなったのは今年の1月29日でした)。

 でも、その時は願いは叶いませんでした。

 そう言えば、今年も神社の受付の方に、

 「どちらが効果がありますか?」と聞きましたね。


 さて、それからさらに数年が経ちました。

 小林君は大学卒業と同時に、ある雑誌の出版社で働き始めました。僕は、出版社なら当然、プロレス関

係かなと思いましたが、違いましたね。

 その間、お互いにあまり連絡をとることもなくなりましたが、小林君は律儀に年賀状を送ってくれまし

た。殆ど毎年くれましたね。そして、年賀状の空いたスペースには、毎回、

 「お元気ですか?今度実家に帰った際には是非会いたいです、飲みましょう。」という内容の言葉が書

かれていました。

 でも、それは社交辞令(と僕は思っていました)で、小林君は滅多に実家へは帰省しませんでしたし、

帰省しても滞在は1日程度でとんぼ返りでした。

 おかんはたまに小林君のお母さんに会って(スーパーなどで偶然にです)いましたが、お母さんは、

 「あの子は滅多に帰って来ませんのよ。」と少し寂しそうに話されていたそうです。


 そして、今年11月6日に、おかんから言われました。

 「貴方宛に、小林君から葉書が来ていたわよ。」と。

 僕は、この時期に小林君から葉書は珍しいなと思いましたが、ふと良くない考えが頭をよぎりました。

小林君の親類の方が亡くなられたのかな、喪中の葉書かなと思いました。


 葉書を見ると、そんな心配は吹き飛びました。差出人の名前が連名になっていたのです。そうです、結

婚報告の葉書でした。住所も僕の知っている住所ではなく、新しい住所でした。

 そして、葉書の空いたスペースには、いつもの見慣れた、お世辞にも綺麗とは言えない字で、

 「お元気ですか?このたび結婚することになりました。今度実家に帰ったときに是非久々に会いたいで

す。いろいろお話ししましょう。それでは、お体に気をつけて。」と書かれていました。


 僕はすぐに返事をしなければいけないと思いましたが、どのような方法で返事をしようか迷いました。

 僕は今の僕のメールアドレス等も書きたかったので、葉書はやめました。次は、手紙ですが、パソコン

で書くのは味気ないし、かといって、手書きの文字も少し恥ずかしいなと思いまして、思い切って葉書に

書かれてあった電話番号へ電話することにしました。


 電話すると、奥さんが出られました。

 聞くと、小林君はまだ帰宅していませんでした。そして、僕は、

 「では、電話のあったことをお伝え下さい。」と言って切ろうかと思いましたが、何故か会話が弾みま

して、色々奥さんと話しました。奥さんも、小林君の中学・高校時代のことを知りたがっていました。


 そこで色々なことが分かりました。

 奥さんは徳島県出身の方で、小林君と4年間遠距離恋愛をしていたこと、結婚を機に小林君と同居し始

めたこと、正月休みなどは奥さんが小林君の住んでいる部屋へ遊びに行っていたため(その時くらいしか

ゆっくり会えなかったそうです)小林君は実家へ帰ることができなかったこと、でした。

 奥さんは、小林君が実家へ帰れなかったのは自分の責任ですと謝られましたが、全く謝る必要なんてあ

りませんよ、寧ろ、結果的にそれでよかったのですよ、と僕は言いました。

 そして、奥さんにも色々聞かれたので、僕たちはプロレスが好きでして、という話をしたところ、奥さ

んが、

 「今でも、プロレスが好きなんですよ!週刊ゴングは買うし、大晦日には格闘技番組を見て過ごすんで

すよ!」と言われました。

 僕は、その言葉を聞いた瞬間、凄く嬉しくなりました。僕も未だにプロレスというものに魅せられてい

ますが、小林君もそうだったのかぁと思いました。僕は、

 「一度奥さんもプロレスを生で観戦してみてくだいね。きっと好きになりますよ、と言い、その代わ

り、奥さんの趣味の1つを小林君にもして貰って下さいね。」と言いました。

 そして、奥さんの話を聞くうちに、今の小林君もあの頃の小林君と何も変わっていないこと(勿論多少

変わっているとは思いますが、芯の部分は何も変わっていない)が分かりました。奥さんは、小林君にも

う少しファッションに興味を持って欲しいと言っていましたね。


 さて、その後、小林君とも電話で話をしましたが、話している内にあの頃の記憶がどんどんどんどん蘇

ってきました。あんな事があった、こんな事もあった、と。そして、数年振りに電話もするのに、お互い

に堅苦しい挨拶もなしに、すんなりあの頃の関係で話すことができました。不思議ですね。

 そして、小林君は言いました。

 「中学・高校時代の友達で、葉書を出したのは貴方だけなんですよ。」と。

 嬉しかったですね、ずっと連絡を取らなくなっても友達だと思っていてくれたのですね。

 僕は、小林君との電話が終わった後に幸せを分けて貰ったような気分になりました。


 そして、僕だけに葉書をくれたということは、小林君にとっては僕が親友だったのだなぁと実感しまし

た。


 さて、来年の正月には本当に実家へ帰って来るそうなので、会う(飲む)約束をしました。

 小林君、正月に会ったときは、僕に1日、いや半日だけでいいので下さい。

 奥さんも一緒に、僕たちの思い出の場所へ行き、一緒に写真でも撮りましょう。僕が案内しますから。

 中学校・高校・出雲ドームなんていうのも良いかもしれませんね。


 最後に。

 最近の遠距離恋愛事情は分かりませんが、手紙やメールや電話、パソコンを使ってチャット、もしかし

たらウェブカメラなどを使ってお話をしてきたのかもしれませんね。どちらにせよ、実際に会えない恋愛

というのは大変だったでしょうね。それでも4年間もゆっくりと愛を育んで結婚したのですから頭が下が

ります。

 きっと奥さんの選択、小林君という男性を生涯の伴侶に選んだことは間違っていません。僕が保証しま

す。そして、小林君が選んだ女性ですからきっと奥さんも素敵な女性だと思います。お互いにこれだけ沢

山の相手の中から、よくぞ出会って結婚に辿り着きましたね。

 この度は、本当に本当におめでとうございました。そして明るい知らせをしてくれて本当にありがとう

ございました。

 これからも末永くお幸せに。

 今度会える日を楽しみにしていますね。正月は大いに飲んで語りましょう。


 僕は最近、本当に多くの人に支えられて生きているのだなと実感します。例え離れていても、何年も連

絡を取っていなくても、僕のことを気にかけてくれる人のいることを嬉しく思います。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

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 続きです。

 中学校時代のことで、小林君関係で覚えていることはもう一つあります。あれは修学旅行だったと思い

ますが、夕飯後に余興?の時間がありまして、各クラスか若しくは修学旅行の班毎に自由に出し物をしま

した。

 僕達はパロディー劇?コント?をしまして、「水戸黄門」のパロディーをしました。

 勿論、悪代官と越後屋のお決まりのやり取りも再現しましたね。小林君は主役?の黄門様役でして、白

い髭(サンタ用ですかね)も付けていたような気がします。

 そこでもお決まりの、「この紋所が目にはいらぬか。」と言ったところ、「入るわけないだろう。やっ

てしまえ。」と言って、黄門様(小林君)がボコボコにされて終わるというものでしたね。


 先日、夕飯時におかんと小林君の話をしていました。

 すると、おかんが、
 
 「小林君ね、カッターシャツを着たまま大きく息を吸って、『フン』と言って胸を膨らませたら、カッ

ターシャツのボタンがブチブチって飛んだんでしょ?貴方が大笑いしながら昔、話してくれたわよ。お母

さん、今でも覚えているわ!」と言いました。

 そんなこともあったような気がしますし、おかんが覚えているということはそうなのでしょうね。しか

し、今思えば、お母さん泣かせですね。きっとボタンを付けるのは大変だったでしょうにね。


 さて、中学時代も無事に終わりを迎えようかという頃に、高校受験がありますよね。彼も僕も行きたい

高校は同じでして、しかも特殊なクラスへの進学を希望していました。

 市内では高校進学(公立高校)は少し特殊な事情があります。行くことのできる公立高校は住んでい

る地域によって決まっています。例えば、簡単に説明すると、市内の住んでいる地域が、「東西南北」に

分かれているとします。仮に僕が東の地区に住んでいると、それに対応して行くことのできる公立高校は

それに対応している「東高校」になります。

 小林君は、先ほどの説明だと北区に住んでいたので、それに対応する北高校へ進学し、僕は東区なので

東高校へ行くことになっていました。しかし、この北高校には特殊なクラスがありまして、このクラスだ

けは県内(市内ではなく)から誰でも入ることのできることができました。


 さて、僕も小林君も頑張って、この特殊なクラスへ入ることができました。

 中学校の終わり頃(3月も後半で、既に中学校を卒業していました)に、再び全日本プロレスが出雲ド

ームへやってきまして、僕たちは再びプロレスを見に行きました。その時は前回よりもさらに多い人数

で、見に行きまして、なんと担任の先生も誘い、見に行きました。

 友達の中には、市内からチャリンコで来た人もいましたよ。市内からは30km以上は離れているでし

ょうに。


 高校は、特殊なクラスと書きましたが、「理数科」というクラス(普通は、「普通科」ですよね。高校

によっては「体育科」というものありますね)で、3年間クラス替えなし、男子30人女子10人のクラ

スでした。普通科よりも理数系科目が多く、その分体育などの時間が極端に少ないクラスでした。

 高校では、僕は相変わらずサッカー部で、小林君は新聞部に入部したと記憶しています。

 その後、僕も小林君も「理数科」(通常へ理系の学部へ進学します)にいながら文系の学部への大学進

学を希望しまして、「文転組」と呼ばれるクラスになりました。


 これは定かではないですが、僕は一度おかんから小林君は医師になりたいと言っていた(小林君のお母

さんを通じて聞いたと思いますが)と聞いたことがあります。

 きっと小林君の手術をして、小林君を救ってくれた医師さんに憧れたのだろうなぁと思った記憶があり

ます。

 他のクラスメイトが化学や物理の授業を受けている時間に、文系用の数学などを別の教室で受けました

ね。

 小林君は、高校時代も生徒会長を務めまして、今思えば本当に人望の厚い人でした。

 さて、高校を卒業すると次は大学へ進学ですが、僕は1年浪人をしまして、小林君は現役で埼玉の方に

ある大学に行きました。僕は予め小林君がいつ松江を出発するのか、手段はどうやって行くのかを聞いて

いましたが、小林君は夜行列車で東京へ向かいました。

 小林君が松江を去る日、僕は駅に見送りに行きました。

 駅のホームにいたのは、小林君の家族の方以外は僕だけでしたね。小林君を見送った後に、お母さんか

ら「今日は来てくれてありがとう。」とお礼を言われました。


 それから1年後、僕も大学へ進学するために、松江市を離れます。

 小林君と再会したのは大学に入って、お互いに大学が夏休みで帰省したときでした。

 その時、僕は大学2年生、小林君は大学3年生でした。大学時代には、お互いに住所や電話番号は知っ

ていましたが、なかなか電話をしたりすることもなく(何回か電話はしました)過ごしました。

 約2年振りに再会した僕たちは、お互いに高校時代には持っていなかった携帯電話や煙草、ライターを

持ち歩くようになっていましたね。

 彼は「キャスター」という銘柄で、僕は「マルボロ」でした。

 その時に、僕は小林君からある言葉を聞いたのです。その言葉は僕にとっては思いもよらない言葉でし

た。

 続きます。

 続きです。

 さて、昨日、実家でこの小林君の話をおかんとしたところ、新たな事実が判明しましたのでここで訂正

しておきます。

 僕は中学2年生の時から昨日までの15年間、小林君は「脳腫瘍」で入院して、手術を受けたと思って

いました。しかし、おかんは、

 「小林君は、脳腫瘍じゃなかったわよ。確か、脳の血管が詰まって瘤が出来てね。それで手術したの。

その病気は先天性のものだったらしく、小林君のお母さんは私の責任だわって悩んでおられたわ。」と言

っていました。きっと、おかんお記憶の方が正しいと思います。ということで誠に申し訳ありませんが、

脳腫瘍ではなく、脳の血管に瘤が出来た、ということに訂正をさせて頂きます。申し訳ありませんでし

た。

 さて、その手術によって、小林君は脳の一部が傷ついたのですが、その部位は、大きな意味で言えば言

語に関する部位だったようで、小林君は手術前まで有していた漢字の知識を失ってしまったそうです。つ

まり、小林君は「漢字」が書けなくなってしまいました。それ以外は殆ど大丈夫で(と思いますが正確な

ことは分かりません)、話すことも出来ましたし、走ったりも出来ました。とにかく、漢字が書けなくな

ってしまったのです。


 小林君の特技の一つに、「暗算」がありました。小林君は有段者(初段や二段程度ではありませんでし

た)でしたが、少し計算能力も鈍ったと話してくれたことがありました。因みに、僕は恥ずかしながら、

暗算は4級です。

 おかんに聞いた(おかんは小林君のお母さんから聞ききました)のですが、小林君は、学校が終わると

すぐに家に帰り、部屋に閉じこもって、小学1年生からの漢字ドリルをひたすらしていたそうで、毎日毎

日徐々に漢字を書く能力も回復していきました。

 今考えるともの凄い努力ですね。当時は既に中学2年生でしたから、そこまでに知っていなければなら

ない必修常用漢字数は1000以上はあったのかもしれません。


 さて、中学校では生徒会というものがありますが、中学2年生も終わり頃に近づくと、新生徒会長を決

めなければいけません。僕の通っていた中学校では1学年は4クラスありまして、1クラスは40人でし

た。こういう場合は、何故かは分かりませんがクラスから1人は生徒会長候補を立てなければならず、僕

のクラスでも生徒会長候補を選出しなければいけませんでした。

 生徒会長等を決めるには基本的には立候補なのですが、まあ、自分から進んで立候補する人は稀で、学

級会などでは誰も立候補しないので、その次の手段として推薦と称して相応しい人物を一人宛紙に書いて

投票します。

 小林君が周りから押されて立候補したのか、あるいはクラスの投票で推薦されたのかは記憶にありませ

んが、僕のクラスの代表は小林君になりました。そして、小林君は見事に生徒会長になりました。

 僕は全く生徒会には興味がなかったので、内部のことは分かりませんが、生徒会では「ロータスクーポ

ン」(ベルマークのようなものです)というものを集めるように生徒に指示をして、集め始めました。お

かん等はそういうことが好きなようで、せっせと敢えてロータスクーポンの付いている商品を購入してい

ましたね。後に、集めたロータスクーポンを車椅子と交換し、どこかの施設へ寄付していました。


 さて、中学3年生の夏でしたが、僕たちの大好きな「プロレス」(全日本プロレス)が地元にやってく

ることになりました。その頃はプロレス団体は今ほど多くはなく、アントニオ猪木さん率いる「新日本プ

ロレス」、故ジャイアント馬場さん率いる「全日本プロレス」、大仁田厚さん率いる「FMW」などが地

元にはよく来てくれました。

 新日本プロレスは松江に来てくれまして、松江市総合体育館に見に行きましたね。松江市総合体育館は

2階席もありまして、当時は小中学生自由席が1000円で売られていましたので、安く見ることができ

ました。多分、小林君とも一緒に見にいったと思います。余談ですが、その同じ体育館のどこかには次郎

もいましたね。次郎は必ず色紙とマジックを持って観戦に行きまして、若手選手などのサインを貰ってい

ました。

 その後、試合の模様が雑誌に載ったりすると嬉しくて思わず買ってしまいましたね。


 さて、話がそれましたが、中学3年生の夏、僕は初めて「全日本プロレス」を見にいきました。地元と

は言ってもお隣の出雲市に来まして、当時、木製ドームである出雲ドーム(基本的に野球場で、草野球な

らできるくらいの大きさです)が完成した直後でした。

 そこで、僕たちはあることを考えて実行しました。

 あることとは、クラスメート(全員男子です)で行ける人はみんなで見にいこうというものでして、中

学生にはあるまじきことですが、一番料金の高い「特別リングサイド」(最前列から5列目までです)で

見ようということになりました。この特別リングサイドの料金は6000円でした。

 今思えば各家庭の親さんへ感謝しなければいけませんね。本来なら小中学生自由席で見るところを無理

をしてお金を出してもらいましたからね。その時は約10人は行ったと思います。

 ある人は電車で行き、ある人は親さんの車で行きました。


 この時、おかんは猛反対しまして、中学生だけで行くのは危険であるとか、料金が高いと行っていまし

たが、ある時に、小林君のお父さんに偶然会い、

 「今度のことは中学生だけでは危ないですよねー。料金も高いですよね!」と言ったところ、小林君の

お父さんはニコニコしながら、

 「いやー、奥さんね、プロレスは本当に面白いんですよ。いいじゃないですか!」と言われたそうで、

おかんも諦めました。おかん、相談した相手を間違えましたね。

 そして、予めチケットも送られてきましたが、なんと5列目でした。今となっては、最前列は関係者の

知り合い等が入手したり配られているということを知っていますが、当時は、何故真っ先に予約して購入

したのに5列目なの、と思いましたね。

 平成4年7月24日の出雲ドーム大会は4100人(超満員)を集める大盛況でした。地方大会で41

00人も集まるのは異例のことです。僕は売店で足を組んでタオルなどにサインをしている(3000円

以上グッズを購入するとサインが貰えました)故ジャイアント馬場さんに驚き、大好きな三沢光晴さんを

初めて見ました。

 馬場さんが飲んでいた自動販売機のカップのコーヒー、本当に小さく見えましたね。

 そんな中学生でした。

 余談ですが、学校で一番大きなテレビ(画面)のある教室は音楽室でしたが、僕たちは先生に頼み込ん

で、ホームルームの時間に音楽室を貸して貰い、大きな画面でプロレスを見ました(誰かがビデオを持っ

てきましたね)。家のテレビの画面以外でプロレスを見たのは初めてだったので感動しました。


 さて、よく覚えているのは、中学校の学園祭ですかね。

 小林君は見事に生徒全員を騙しました。小林君の特技の一つに、暗算があると書きましたが、なんと小

林君は全校生徒(勿論先生もいます)の前で、その暗算力を披露したのです。それは足し算で、もの凄い

桁数の数が読み上げられていき、小林君は暫く考えた後に、「77万7777」と答えたと思います。

 僕は全校生徒の中に混じって固唾を飲んで見守っていましたが、結果は見事に正解でした。それにして

も「7」ばかりの綺麗な数字の答えだなと思い、後で小林君に、

 「小林君、凄いねー。答えも綺麗な数字だったねぇー!」と言ったところ、小林君は、

 「誰にも言わないでよ。実はね、答えを知っていたんだよ。」と言いました。つまり、ヤラセでした。

 純粋な僕の心が打ち砕かれ、大人の世界の怖さを知った瞬間でした。

 続きます。
 

 さて、今回は(67)あれをずっと持っていてくれたなんて、をお送りします。

 先日、中学・高校時代の同級生から1通の葉書が届きました。それを見まして、この話を書くことにし

ました。ここでは、彼の名前を仮に「小林」とします。

 小林君に初めて会った記憶は、中学2年生の春だったと思います。勿論、同級生で同じ中学校だったの

で、1年生の時から知っていたといえば知っていたのでしょうが、1年生の時はクラスが違っていたため

に、親しく話した記憶もありません。

 中学2年生の時にクラス替えがあり(中学2年生と3年生は同じクラスでした、同じクラスになったの

ですが、その頃も僕と小林君はそんなに親しくなかったと思います。僕はサッカー部で、彼は陸上部でし

たかね。

 小林君は、色の白い大人しい少年でした。でも、周りの人から頼りにされている、そんな感じでした

ね。いつの頃からでしょうか、小林君と僕は親しくなりました。きっかけは、「プロレス」でした。僕も

小学生の頃から深夜にプロレスを見ていまして、同じくして彼の方も深夜にプロレスを見ていたようでし

た。

 僕の記憶が確かなら、小林君が小学校3年生の時に、松江市のお隣のお隣の米子市に「全日本プロレ

ス」がやってきて(小林君はお父さんと一緒に見に行ったそうです)、地方大会では珍しくタイトルマッ

チが行われ、それを見た小林君はそれからプロレスの虜になったと聞いたことがあります。


 先ほど調べましたら、小林君の話は本当で、1987(昭和62)年7月11日に米子市産業体育館

で、(王者)ジャンボ鶴田、天龍源一郎組対(挑戦者)スタン・ハンセン、テッド・デビアス組のタイト

ルマッチ(PWF世界選手権試合)が行われていました。結果は、挑戦者組が勝ちまして、新王者になっ

ています。

 さて、あの頃は、クラスの男子(懐かしい呼び方ですね)は全員と言ってもいいくらい仲のよいクラス

で、いつの間にかクラス中の男子がプロレス好きになっていましたね。


 さてさて、中学2年生のある時期から小林君の身体に異変が起こり始めました。これは彼が罹患した病

気と関係があるのかは分かりませんが、彼は体育の時間になり汗を掻くと身体に赤い点々の発疹が出るよ

うになりました。その後、彼は偏頭痛を訴えるようになり、度々保健室に通っていたり、顔をしかめて手

で頭を押さえていました。


 その後、小林君は病院へ入院しました。

 中学2年生の秋だったと思います。

 僕のおかんは、まあ、広い情報網を持っていまして(小林君のお母さんとも仲が良かったとも思います

し、当時の僕の担任の先生の息子さんと三郎が同級生で同じ幼稚園・小学校に通っていましたので、担任

の先生を通じてかもしれません)、小林君が脳腫瘍であると教えられました。

 今でこそ、脳腫瘍と聞いても、早めの治療でなんとかなるとか、腫瘍の出来た箇所によっては、腫瘍を

取り除けばいい、という程度の知識はありますが、当時の僕の知識では、脳腫瘍とは不治の病でした。

 ちょうど再放送番組か何かでドラマ「スクールウォーズ」をしていまして、ドラマの中ですが「イソッ

プ」と呼ばれていた生徒が、脳腫瘍で亡くなってしまいます。そのイメージが強いのでしょうが、当時の

僕にとっては脳腫瘍とは不治の病でした。


 さて、小林君が入院した当時、クラスの人全員が彼の病名を知っていたのかどうかは覚えていません

が、僕たちはせっせと小林君の病室へお見舞いに行きました。

 その病室等の光景はよく覚えています。

 病棟の一番端の部屋で、彼は6人部屋(若しくは4人部屋)で、部屋に入ってすぐ右に彼のベッドがあ

りました。小林君はベッドに横になって、テレビを見ていましたね。


 手術の数日前だったでしょうか、一緒にお見舞いに行ったうちの一人が病室で突然泣き始めました。そ

う考えると、小林君の病名を知っていたのでしょうかね。それとも脳の病気ということで、漠然と不安感

を抱いていたのでしょうか。

 僕や他の友達は、その泣き始めた友達を病室の外に連れ出しまして、言いました。

 「泣きたい気持ちは分かるけど、今はお見舞いに来ているから、泣いてはいけない。きっと手術は成功

して小林君は帰ってくるから。」と。きっと、泣いた彼は、もう小林君に会えないかもしれないと病室

で、或いは病室に入る前から、或いは家の部屋で考えていたのかもしれません。そんな中でも小林君は気

丈に振る舞っていて、弱音を吐くところは見た記憶がありませんでした。


 そして、手術の日になりました。

 ここの記憶も定かではなく、申し訳ないのですが、小林君の手術は、11時間ないしは14時間程度か

かったと記憶しています。手術は開頭手術だったので余計に時間が掛かったのかもしれません。

 手術が成功したという知らせを聞いたのは手術当日の深夜か、次の日の朝起きてからだったと思いま

す。

 朝の朝礼で、担任の先生から、無事に手術は終わったそうですと聞いた記憶もありますし、もしかした

ら、夕方の終礼の時に聞いたのかも知れません。


 ほどなくして、小林君は元気に学校へ登校してきました。

 でも、彼は脳の手術によって、脳のある部分にダメージを受けていました(これはクラスの他の人は知

らなかったと思います。僕はおかんから聞きました)。

 おかんは彼の手術の後に、

 「小林君ね、スプーン1杯分の脳みそを取ったらしいわよ。」と聞いていました。当時、脳外科の手術

の方法など全く知らなかった僕は、脳は一体どうなっているのか、スプーン1杯の脳みそって何だろう、

そもそも世間で言う脳みそは液体なのか固体なのかさえも知りませんでした。


 余談ですが、最近はテレビで医療系の番組をよくしていますよね。「神の手を持つ医師」などと言われ

ている医師さんに密着して、手術の様子まで見せてくれています。

 その中でも、脳腫瘍の手術を見ましたが、脳腫瘍という病気(腫瘍)は僕のイメージとは全く異なって

いました。脳腫瘍の腫瘍は、なんと言いますか、ネバネバしたようなもの(かなり柔らかくなった噛み終

わったガムのような感じでしょうか)で、血管や脳と癒着していまして、それを血管などを傷つけないよ

うに上手に腫瘍と切り離しまして、腫瘍だけを脳から取り出すという根気の要る気の遠くなるような手術

でした。

 なので、おかんの表現は間違っていて、「腫瘍を取り除く際に、脳のどこかを傷つけてしまったらしい

わよ。」というのが正確な表現になると思います。

 続きます。

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