「ねぇ、何で奥さん許してるの。私の事」
「さぁ」
「さぁって何。普通許さないと思うよ」
「そうだなぁ」
すうと、彼は眼を閉じると同時に、私は言葉をなくした。
「私に何か、隠し事でもしてるの」
頷く代わりに深く口角を刻んだ。短い間で何度見た笑みだろう。肝心な事は、はぐらかしてばかりいる。諦めて私は彼に背を向ける。色褪せた緑色のカーテンから光が差し込んでいるのが見えた。ああ、もう朝なのだ。濁ってしまっているのであろう私の眼に届く太陽光は痛いくらいだった。胸の奥を焦がされて、眼が潤む。
「あのね」
「どうしたの」
優しい声色を崩さずに問いかけてくる。私が拗ねても、怒っても、隆之はいつだってこうだ。そう、いつだって、私の感情は隆之に呑み込まれていった。
「私、結局、隆之の事、全然知らないんだなって思って」
「なんだそれ」
突然だなぁと、彼はからかう調子で私の後ろから腹に腕を回す。伏せた眼から垣間見る隆之の掌の大きな傷を盗み見た。視線でそっと撫でて、私は再び眼を閉じる。抱きしめられて感じる甘い香り。男の人は皆、こんな匂いがするのだろうか。私は隆之の鼻腔を満たす心を溶かすようなこの香りがたまらなく好きだった。同時に、太陽光と同じような眼を潤す効果もあるようだ。強い風が吹けば、消えてなくなってしまいそうな淡い存在がそうさせるのか、もしくは、それを隆之に思っているのか、私にはわからない。
「いるって言ったらどうする」
鼻につんとこみ上げるものを無視して、不細工になっているのであろう口元を懸命に動かした。
隆之の吐息が頭皮を巡る。聞き取れない低音が私の脳髄に響くたびに、心がびくついていく。見透かすようにいつだって決まって、隆之は回す腕に力を込める。私はその度に息が出来なくなる。
「隆之の、子」
貴方が抱きしめている、この体の中に。
そこまで言わなくても、貴方ならわかるよね。
「それは本当の話、仮定の話」
囁くように言葉を紡ぐ。焦りも、罪悪感も何も無い滑らかなものだった。事実とは実に馴染まない穏やかな震えが部屋に響いていく。
「本当の話」
だからどうしたい、と、言い出すべきなのだろうか。
隆之の反応がどうであれ、私の中の答えは決まっていたとしても、すぐには彼に言い出せなかった。
隆之は、もう、結婚しているのだ。
それをわかっていて男女の関係にまで、この学生である私が選んだ事だった。断る事だって、会わないという選択だって、出来たはずだったのだ。けれど、私はその選択はどうしたって出来なかった。弱さだと言われれば、逃げられない。それでも、心の奥底では、認めきれないのだ。
心の私の、いや、誰も踏み入れられない世界の中で、私は隆之と一緒にいることを望んでいた。
結婚しているのは奥さんかもしれないけれど、彼と一緒に生きているのは自分であると思っている。罪悪感と一緒に、限りある時間を、一瞬を焦がす熱と共に生き合ってきたという優越感がなせるものなのだろう。
一緒に生きていきていきたい。
明日には、私は、貴方は、いないかもしれないのに。
初めは、だだ、言葉を交わすだけでよかった。
ひとりだった私に、声をかけてくれたただひとりの人を、心の奥底で誰にも秘密に想えるだけで幸せだった。
どうしてだろう。触れられると思えば、転んでしまうのを恐れずに、階段を走っており始めてしまう。足を止めて、振り返ることもしないで、欲しいものだけを求めて。立ち止まる選択肢は私が自分で捨てた。
「そう、私は一度だって、隆之が私に捨てさせたことはなかった。私がそうしたかっただけ」
束縛するようなことも、なかったものね。隆之は。
「私は隆之を縛っていたかった。私に執着して欲しかった。こんな関係を隆之に望んだのも私。何となく予感はしていたし、望んでいなかったと言ったら嘘になる」
私が、こんなに感情的になれる人間だったとは思わなかったと、歪んだ顔を滑る涙を震わせて心の中で自嘲する。
「もう独りになりたくないの」
掠れてしまった声で、隆之にちゃんと届いたのかが気がかりだった。
けれど、心配する理性など、思いのほか残ってはいなかった。鼻水と涙が混じり、嗚咽をあげる。本気で泣くのは何時以来なのだろうか。隆之に言いたかった事まで、体液と共に流れ出てしまうようで、彼が何を思っているか考えている余裕も無くて、ひらすら泣く事しかできなかった私に隆之は自分の掌を私の頭に添えて言った。
「菜月はもしここにいるのが俺じゃなくても、同じ事言ったと思う」
努めて一段と柔らかい声を出しているのだろうか。そう問われて黙る私を優しく撫でる。相変わらずの隆之の掌に私は甘えてしまった。
「そんな仮定の話、私、わからないよ」
「うん。そうかもしれない。菜月を責める気なんて、俺の中に微塵も無い。誰だって、独りは怖い。誰かに寄りかかりたい、弱さを受け入れてもらいたい、当たり前のことなんだから」
「でも、隆之、それを、こんな形にしたことは正当化できない。ごめん」
「謝ることじゃない。それに、受け入れたのは俺。声かけたのも俺。誤らなきゃいけないのは」
「謝らないでよ、隆之が。そこから、隆之が否定しないでよ。出会ったことまで、いけなかったなんて思いたくない」
これから先、私はいけなかったこととして、思える日なんて来ないのだろう。隆之の目を見ないだけで、怒鳴り声をあげられる。
「私は、後悔なんてしてない。世界中から非難されたとしても、私は、子供をおろす気なんて毛頭ないよ。手放したくない。隆之と会えなくなったって変わらない」
自分の気持ちを吐き出した後は、力が抜けていくように涙が無感情に流れ出た。引くつく身体とは裏腹に気持ちが静まるのを感じた。自分の中で大切なことを決めた後、私は決まって未来の私に問いかける。
これで良かったよね。未来は後悔してないよね。
今を後悔していなくても、未来はどうかわからない。私が心から抱きしめられる存在がこの世に2人に増えたとわかった瞬間は、何ものにも変えられない感動が襲ったのを覚えている。心の底から歓喜した。何時死んでも構いはしないと思っていたし、本気で笑ったり、泣いたり、怒ったり、そんな生活とは無縁だった私は、誰も笑いかけてくれないこの街で、私の隣に居て生きていってくれる存在を、自らが生み出せる衝撃をこれからだって忘れないだろう。
今の私に何が出来るかといったら、何も出来ないかもしれない。
この感動だけでは、子供は守れない。世界は厳しい。耐え切れるだろうか。それを考える前に、私はどうしても、この子に会いたかった。私のエゴかと言われればそうかもしれない。でも、理屈なんて抜きで、どうしても、是が非でも、私はこの子に会いたい。
女だろうと男であろうと構わない。つながりのある、この小さい存在を可能な限り愛し抜いてみたい。ああ、抱きしめたい、キスしたい、何度も何度も名前を呼んで、晴れた空も、雨が降る哀しい空も、一緒に見上げて笑い合っていたい。もう止まらないの。この気持ちは。幸せな未来しか、思えないの。自分の子が生まれるだけで、もう幸せなのかもしれないけれど、そんな日常が私は欲しいの。隆之、貴方との体温と時間を、そして、あなた自身を欲しがったように。会ってもいないはずなのに、顔も見ていないのに何故こんなにも愛おしいの。待てない。何時繰るかもわからない未来、私は待てない。
この先宿る命に会いたい訳じゃない。私はこの子に会いたい。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
何度言ったって足りない、何度涙を流したって足りない。膨れ上がっていくものがとめられない。
「そっか」
隆之はぽつりとこぼした。
「堕ろせなんて、言わない。菜月のことは知っているつもりだ。これまで、どれだけ寂しかったかも、わかってた。だから、そう言う菜月を不思議だとは思わないし、女の人は、そうなんだろうと思う」
「隆之には、やっぱり、邪魔、かな」
綺麗事を並べ立てて欲しいわけじゃないけれど、聞かずにはいられなかった。
「邪魔じゃないから、菜月の好きなようにしたらいい」
先が見えない闇など、今の私には見えない。涙に反射した光が、入ってくるだけで。
「俺は、全部、菜月だから、菜月だったから、一緒に」
窓に背を向け、隆之と向き合う。彼の親指の腹が目じりをなぞる。泣かないで、と言わないのは優しさなのかな。いつも、あなたははぐらかす。ずるいなぁ、と心でつぶやくのと同時に、暖かな涙が頬を伝う。この人を愛おしく思う気持ちごと、流れてしまえば楽になれるのにね。
ねぇ隆之、私が子供と共に生きるなら、きっと私の前から消えちゃうよね。
初めてお日様の下でしたデートを思い出した。ベッドの上で絡み合うことしかしなかった私たちが、木漏れ日を浴びながら芝生が一面広がる公園でおにぎり食べていた。それが似合わないねって笑いあったりして、家族連れを眺めたり。さらさらした芝生の細波に日の光が注がれる。あなたを知るための会話などなかったけど、私たちが探り合いながらゆっくり、ゆっくり暖かな谷底に落ちて行った。後悔などしないと、信じていた。心がくすぶって、幸せすぎて、泣いちゃうような恋も愛も知らない少女のように。貴方が笑う度、私の心と体ごとあげちゃいたくなった。これから先、ひとりで過ごしたであろう膨大な時間が色づく。私から見える町は白と黒と、灰色のコントラスト。道端に落ちている林檎が、心臓が止まりそうなほど真っ赤だった。髪の先からつま先まで、貴方にときめくたびに血が駆け巡る。
「隆之、ありがと」
今までの、くすぐったく、尊い二人の時間へ。
ありがとう。
涙を拭う彼の手を握り締め、最後のキスを落とす。