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お父ちゃんの代理で、公民館付き合いの方のお通夜に行ってきた・・・ 「代わりに行って来い」って言われて、ヽ(ヽ゚ロ゚)えぇーっ?!って感じだったけど、 お父ちゃん来週まで出張中やから、仕方ない・・・ でもね・・・ 全く、わかんない。 同じ公民館でも、私はそういう地域のことに参加してないから、 ○○さんって言われても「誰?それ?」って感じで・・・ でも、母が亡くなったときに、御香典いただいてるから、知らんぷりもできんし・・・ 心奮い立たせて行って来た。 知らなくても、最期のお別れをしてくればいいよねって。 しかし、安易だった・・・ もっと弔問客がいるのかと思ったら、微妙な数で^^; 行ったはいいけど、どなたが喪主で、どなたが身内で、どなたが弔問客かよ〜わからん・・・ 誰にお悔やみ言えばいいんよぉ『・・・。』( ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄; ) やっぱり無謀でしたil|li ▄█▀█●)) il|li ひたすら周りのおしゃべりに耳を傾け、どなたが身内で、どなたが弔問客か探って、 なんとかその場をしのぎ・・・ そんで、亡くなられたおじいちゃまにお別れの挨拶して・・・ 娘さんの話を聞いて・・・ 娘さん・・・といってもうちの母より年上くらいなんだけど、 おじいちゃまの話を、なんにも知らない私にし出した。 でも、母を亡くしてるから、私にもわかる。こういうときは黙って聞いておけばいい。 『和尚さんが、父は96歳で死んだのに、享年97歳って言うの。 私、和尚さんの世界のことはわからないから、驚いたけど、 うちの父は長生きしたいって言ってたから、 ひとつ多目の年で喜んでるって考えることにしたの。』 幸せな人だな〜と思った。 その年まで、そういうことを知らないで生きてこられたなんて。 生意気だけど、思わず微笑んでしまった私。 でも、いくら96歳まで生きたとしても、 子供にとっては親の死っていくつになっても淋しくて、悲しいもんなんだよね。 大往生って言葉があるけど、 子供にとっては親がいくつで逝っても「大往生」っては言えないもんだよね。 立派に死ぬより、1分1秒でも長く生きて欲しいから。 父と、正月に喧嘩して、なんとなくシコリを残したままだけど、 父が元気なことに感謝しなきゃ・・・と思った。 ちっとも親孝行できてないのが情けないけど・・・
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お母さんへ
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博多祇園山笠のフィナーレ「追い山」は毎年十五日早朝。 水法被の男たちが担ぐ七流の舁き山笠が、勢い水を浴びながら博多の街を疾走する。 沿道には約十七万人の見物客が詰めかけ、 十五日間にわたった祭りのクライマックスに酔いしれる。 私は長いこと福岡に住んでいたけれど、一度もこのクライマックスの追い山を見たことがない。 たぶん、これから先も見ることはないだろう。 なぜなら… 我が家で一番、にぎやかで、天真爛漫を絵に描いたような母の命日となってしまったから。 5年前… 家族全員での泊まりこみの看病の甲斐なく、 母は、博多山笠の「追い山」とともに逝ってしまった。 胃癌だった。 入院から手術まで、私はあるHPに綴った。 母の頑張りを、忘れたくなくて。母を残したくて。 けれども、未完のままだ。2〜3年放置している。もう、私のページは削除されているかもしれない。 母の容態が悪化してから最期までが、書けないのだ。 ここに、父が書いたメモがある。 7月10日から15日まで、治療の様子と、見舞い客、看病の交代の様子などが細かく書かれている。 今でも、このメモを見ると胸が締め付けられる。 相当、苦しかっただろうに、 一言も「辛い」だの、「苦しい」だの、「痛い」だの、「助けて」だの言わなかった母。 最後まで頑張り続けて、生き抜くことを目指した母は、 何も、何の言葉も残さず、安らかに逝ってしまった。 母の最後の一呼吸… 私は、忘れない。 博多の街は、追い山の余韻を残し、 まだまだ宴の後…というよな静寂感は感じられない中、 私は、もう息のない母を島につれて帰るために、 マンションまで自転車をこいだ。 祭りの余韻の中、明るい太陽が昇る中、泣きながら… 身支度を整え、病院に戻った。 妹が、母を洗髪していた。私も手伝った。 身体をきれいに拭き、綿を詰めた。 鼻に詰め切れないでいると、看護婦さんがやってくれた。 暑い日だった。 島に帰り、仏壇の前に母を寝せた。 すると、硬直していたはずの顔が、笑顔に変わったようだった。 やっぱり、帰ってきたかったんだねぇ。 私は、初めて母の胸にすがり付いた。 生きてるうちに、こうしとけばよかったと思った。 信じられないほど、温かく柔らかい胸だった。 人目も気にせず泣いた。こみ上げる嗚咽を抑えることはできなかった。 お母さん、早すぎやん。 こんな未熟な娘を残して逝っちゃって。 お父さんの世話は、私じゃ、ムリやん。 最近、ちっとも笑ってくれんし。娘は非力やなぁ。 来年、7回忌か… いややなぁ。 また「もう、7回忌ですか…早いですね」って慰めにもならんような言葉を聞かなくちゃならん。 でも、ちゃんとやるからね。もう泣かんと思うけど。 これ書きながら泣いてるから、また来年も泣くか^^;。 きっと、私がばあちゃんになって、お母さんの年齢追い越したって、 きっとお母さん思い出して泣くんやろなぁ。 ま、仕方ないか。 あ〜ぁ、お母さんに感謝の言葉が言えるようになるくらい私が年取るまで、 生きてて欲しかったよ。 今日は、朝3時半に目が覚めてから、ずっとお母さんのこと考えてた。 あんまり早起きやったから、昼寝しちゃったけど、 夢うつつもお母さんのこと考えてた。 生きるってホントいろいろあるなぁ。 死ぬまでこうなんやろうか。そうやった?お母さん? この島で生きてく覚悟はいつ決めたん? まさか、連れてこられるとは思ってなかったやろう? 大変やったやろうなぁ。 私は、まだ逃げ腰よ(^_^; アハハ…。 お母さん、親戚周りもいいけどさ、そろそろ私んとこへ来て、私の話も聞いてほしいんやけど。 左足痛いの、お母さんのせいやろ? ごめんって!日曜は家事に追われて、墓参り行けなかったんやもん。 でも、昨日は気持ちよかったやろ? 墓石、ピカピカに磨いたもん。 なんか、蜘蛛が多くて、昨日全部払ったのに、また今日 巣をかけてたよ。 蜘蛛は苛めたらいかんのやろうけど、今日はお母さんの命日やけんね、 ちょっと遠慮してもらったよ。 今日は、お父さんの代わりに、明かりつけたよ。
お父さん、お墓作り直してからずーっと、それも毎日、お墓に明かりともしよるね。 ま、二人で何か話しよるとやろうけん、邪魔せんけど、 たまには笑えって、お母さんから言っといて。 じゃ、またお盆にね。 |
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母がとても好きだった。 って、言うだけで、泣いてしまいます。 4年前に検査入院をして、それからわずか1ヶ月で逝ってしまった母。 私は、どちらかというとファザコンで、 何かにつけ父の味方をし、母の考えを幼稚だと笑う小生意気な娘。 母に何かを相談をしたこともなく、 母以外の大人の言うことには耳を傾けるけど、母の言うことは鼻で笑い、 自分のことは自分で決める。 そんな可愛げのない小生意気な娘だった。 そんな私でも、幼いころは母は絶対的に「正しい人」だった。 母の言うことを聞き、母の教えにうなづき、 学校でいじめられても、「めげない」パワーを母からもらっていた。 思春期を過ぎたころからか、母と話が合わなくなり、 その原因は、母が専業主婦で、社会経験が少ないせいだと心のどこかで思っていた。 口には出さなかったけど、私の言葉の端々から出るトゲに母は気づいていたと思う。 「この娘は、自分を認めていない」と。 大学進学のため親元を離れて一人暮らしをするようになって、ちょうどよかった。 つかず離れずの距離が、私に母をやさしい目で見る時間を少しくれた。 しかし、就職すると、またまた口論が多くなった。 遠距離電話をかけてきては、「髪は、ゆるやかなパーマをかけろ」だの、 「眉毛の形が悪いから直せ」だの、いちいち「文句」をつけられ、私は嫌気がさしていた。なんで、こんなに小うるさいんだろう…としか、思っていなかった。 母の言葉が、どういう過程を経て、私に発せられ、 その裏にどんな「思い」があるのかなんて、考えもしなかった。 私が結婚適齢期を過ぎてからは、母子喧嘩のモトは、私の結婚へと移る。 「どうしてしないの?」 「ひとりじゃ、できんし。」 「したい人はおらんの?」 「今はおらん。」 「まだ、あの人が忘れられないの?」 「・・・・・・・・・」 「一生結婚しないつもりじゃないかってお父さん心配してるよ。」 「ちょっと放っといてくれんかな!一生せんって言ってないし!!」 「怒らないでよ。どうして、この話すると別人みたいになるの?」 「お母さんに私の気持ちはわからんよ。」 この後、感情的になった二人が口走った言葉は、とてもこんな公の場では書けない。 何かと、結婚、結婚という母がうっとおしかった。 当時、私に結婚願望があっただけに。 母は、なんの恋愛相談もしない娘に気をもみ、 というか、実際のところ気をもんでいたのは父で、 九州男児の威厳を保ちつつ、娘にいい顔しぃの心配性の父親に代わって、 娘に結婚ジャブを入れては、回し蹴りをくらっていた母。 でも、大幕は父だったという事実を知ったのは、母が亡くなってからのことである。 母が亡くなってから、結婚ジャブも、髪型ジャブも、眉毛ジャブも、 全部、裏で父が言っていたことだった。驚いた! かわいそうな母。 しかし、これが母の愛なんだろうな。 生きてるうちに気づかない愚かな娘でごめんね。 トゲのあることばかり言ってごめんね。 小バカにしてごめんね。 生きてるときに、素直になれなくてごめんね。 私の欠点に似た欠点を持つ母を見てイライラし、 生きている間に、優しい言葉をかけてあげられず、 大人になってからは、相談も、甘えることもせず、 自分は一人で戦ってきたような気になっていた愚かで未熟な私。 子供好きな母に、孫を抱かせてやることもできず、 私の結婚式で、ひとりワンマンカラオケショーをやるんだと言う母のささやかな夢もかなえてやれず、 焦ったときには、もう遅すぎた。母の病は、手の施しようがなかった。 母を認めてやらなかった自分の愚かさが今でも許せない。 こんなことを考え悔やんでいる私を、母が見て悲しむだろうとわかっていても、 それでも自分が許せない。 「naluの母ちゃん、な〜んもそんなこと気にしてないって!あんまり自分のこと、責めすぎなさんなって。おまえも、子ぉ産んだら母ちゃんの気持ちわかるやろうけん、今は、そえん苦しむな。」 母を知っている幼なじみの言葉に、そうかもしれないと思った。 本当は心の奥底では、お母さんが羨ましかった。 意地っ張りで、負けず嫌いで、未熟な私は、素直にそう言えなかった。 母に「負ける」ような気がして。 お母さん、できることならもう一度話をしたい。 でも、それは叶わないこと。生まれて初めての、そして私の人生最大の後悔。 取りに戻れない、人生の忘れ物。 私はこの忘れ物に、時おり悩まされつつも、 自分の愚かさを示すこの忘れ物を、抱えて生きていく。 ここから先、同じ忘れ物をしないためにも。 それも人間らしくてええやないか・・・。
こんな未熟な私をも、包んでくれる言葉だった。 |
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今朝見た月は、朝焼けに光る鎮静の月。 |
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