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利長の死には自殺説があり、有力な説だという。 彼の死と自殺説について以前から興味があったので、 先日の一連の講演を機にまとめてみました。 高澤裕一氏が唱える説、というところまで突き止めましたが、 実は1年ほど前にすでに高澤氏の論文にたどりついて目を通していたようです。 県立図書館で見つけたコピーが家にありました。すでに読んでたのです。 実は私のいくつかある関心すべてに触れられていたので改めて読んで目からウロコ。。。 調べると金沢大学名誉教授、あるいは金沢学院大学教授という職が出てきます。 【参考文献】 ・高澤裕一「前田利長の進退」(『北陸社会の歴史的展開』能登印刷出版部、平成4年) ・高澤裕一ほか『石川県の歴史』(山川出版社、2000年) ・高澤裕一「『前田利長の進退』補説」(『文化財論考 創刊号』金沢学院大学芸術文化学部文化財学科、2001年3月) ・山本博文『加賀繁盛記』(NHK出版、2001年12月) ・磯田道史『殿様の通信簿』(朝日新聞社、2006年) ・津本陽『加賀百万石』(講談社文庫、1999年) 【時代背景】 利長の時代というのは前田家にとって大変難しい時代でして、 その死の前後だけ抽出して語るというのは少し無理があると思う。 要は、父・利家の死後、豊臣秀頼の後見役を引き継いでいる一方で、 親徳川路線(豊臣中央集権ではなく地方領国分権路線への賛同)、 そして前田家の安泰、 この三つを同時にこなさなければいけないのが利長でした。 そして利長は律儀にそれをこなそうとしました。 家康の隠居後、利長もそれにあわせて引退します(44歳)。 利長の隠居料は越中新川郡に22万石。 実はここに本藩(利常)100万石、隠居利長20万石、という体制ができます。 三代目当主についた利常はまだ13歳だったので、本藩の「監国」、対徳川外交などは引き続き利長がやっています。 いってみれば家康の「大御所」政治みたいなもので、引退後も力をもった「院政」だったのでしょうか。 慶長10年(1605年)4月、利常は利長とともに伏見に赴き 大御所・家康、新将軍・秀忠に謁見。 ここで利常は「松平」の姓をもらい、「松平筑前守」と名乗ることになる。 それまでの前田家は秀吉からもらった「羽柴」姓を使ってきた。 しかも利常は秀忠の娘・珠姫を嫁にもらっているから、彼をもって前田は完全に徳川方になったといえる。 となると、ややこしい前田の家。 この時期、の前田家には、 ― 松平筑前守と名乗る利常 ― 羽柴肥前守と名乗る利長 の二つの姓が存在してまさに徳川と豊臣の狭間、といえます。 利長は自分が隠居し、利常の本藩(徳川方)と豊臣方の自分を分けた、と考えられます。 こうすることで、先に挙げた利長の基本路線、大坂秀頼擁護/親徳川路線/前田家守成のうち、 秀頼擁護の路線だけを利常から分離して自分の役割としてスッキリさせた、といえそう。 じっさい、大坂の陣が始まりそうな雲ゆきになってくると、 大坂方から利長に対し助力を願う使者が来ますが、それに対して利長は、 「何かあれば私は自分の隠居のなかから兵を出して駆けつけるつもりだが、 利常は徳川の婿だから難しいだろう」と返事している。 【自殺説】 さて、利長の死の半年後には大坂の陣が始まります! 利長は死んだので前田家としては全力で徳川方で参戦することができた。 (死の前に22万石の内さらに10万石を本藩に返却し、「監国」をやめ、遺言を書き、徳川ゆかりの本多政重を執政として迎え入れる、ということをやって幕府の警戒を解こうとしている。) 江戸時代、加賀藩では「利長様はご自身で毒を飲まれた」というのは公然の秘密であったと磯田氏はいう。 利長は徳川との対決、そして金沢前田=徳川/隠居前田=豊臣というお家の分裂を避けるため、毒を飲んで自分の存在を消した、ということです。 『懐恵夜話』という記録には、 大坂方からの味方依頼に対し利長は、「太閤様にお取立ての私に候えば、おそれ入り候」といいながら、 めぼしい家臣を自分の手元である富山から金沢に返して温存し、「御自身毒を被召上候て御他界也」、とあります。 そして「瑞龍公(利長)御手自毒を上りし事、御家を大事に思し召し、かつは三ヶ国の民を恵み、思し召す事、比類なきことなり」と。 この『懐恵夜話』の記事が自殺説の大きな根拠のようです。 『懐恵夜話』は享保4年(1719年)に加賀藩士・由比勝生が著したもの。 この年の彼はなんと90歳で、彼の父親は由比正勝といって幼少の頃から利長に仕え近侍した大少将組の藩士だった。 また、父・正勝の妻(勝生の母?)は脇田直賢という人物の娘。 これは衝撃な情報だった!私が以前から気になっていて情報がほしかった脇田さん、 まさか利長の死を調べて線がつながるとは。 そんな環境から、由比勝生は父や外祖父といった利長の近くにいた近親者から詳しい話を聞ける立場にあったのではないか、というのが高澤説の推測であり根拠です。 高澤氏はもう一つ傍証として次のことを挙げています。 『梅葵継』という記録のなかに9代藩主・重教(1741〜1786年)が加賀八家のひとつ前田土佐守家の当主に出した手紙が収められています。 その中にある文言に 「瑞龍公ニハ天下之ため死を御急被遊候事古今稀にして」とある。 この「天下のために死を急ぎなされた」というフレーズが自殺を暗示している、とし、 前田家当主一族どうしの内輪話としてよく知られた話だったのだろう、としている。 ただしこうした自殺説に対し山本博文氏は、利長の病が重篤だったのは事実で疑いなく、必ずしも自殺説をとる必要はないとし、おそらく大坂の陣を前にした利長の苦しい立場のさなかでの死が藩士の間で自殺説を生んだ要因だったのだとし、『梅葵継』の件については、『懐恵夜話』などの説がこの時代までに流布していたためと思われ自殺説の傍証にはなりえない、としている。 どのみち、自殺説は「病が非常に悪くなった段階での服毒自殺」としているようですが、物語としては「薬で自ら病になった」、あるいは「病でないのに自殺した」だったら面白みがあるのになぁ、と小説家気取りしてみたり。。。。 他にもちょっと気になる情報としては、 利長は病状が悪くなると徳川に自ら病状を伝える書状を書いたり、 徳川から医師を派遣してくれと頼んだり、 その医師たちに面倒を見られながら「私は毒など食べさせられておりません」と書いてみたり。。。 …何がしたかったのでしょうか。 磯田氏は、「わざと徳川の医師を招きいれ、自分に毒を盛ることすら可能な状況を作りだし、その上自分が死んでも徳川医師団が疑われないようにした」とまで深読みしています。 しかも実際に病状はよくならず悪くなる一方なのに徳川医師団に見せ続けている。 梅毒の四期って脳まで行くらしいので、「気が狂った?」とか思えなくもなく。。。 そう思うのは「自分は大名をやめて京都で死にたい、何なら自分の越中隠居料は幕府にあげたらどうか、越中にある銀山に幕府の奉行を置いたらどうか」と本多政重に言っている点も。。。。 磯田氏によると、利長の臨終の際に金沢から利常が駆けつけ人払いをして二人きりになったそうな。 そしてボソボソと遺言が伝えられたという。 今枝古民部という児小姓が次の間にいてその様子を目撃したというが、何が話されたか聞こえなかったらしい。 しばらくしてその密室から出てきた利常。 これまでに見たことのないほどにやつれきった顔だったという。 右手には形見の刀、左手には何やら巻物。 「これこそが利長の本心を語った遺書であるが、この遺書は、今日まで見つかっていない」とのこと。 前田家永続のために徳川につくよう遺言したのは間違いないが、そのほかに何を言い遺したのか。 すごくミステリー感があります。。。。 なお、利長の死を聞いた家康は囲碁を囲んでいたそうで、こう言ったそうです。 「さてさて惜しきこと。笑止なり」(惜しいことだ、いたましい) ※長文、乱文にて失礼しました。 |
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いや〜、長文ながら読み入ってしまいました。
この時代の人は、激変する世の中でどのようにして「家」を
存続させるか、って悩んで悩んで「個」の処し方を決めていたんでしょうね。
真田家も同じような発想だったのですかね〜。
2009/5/23(土) 午前 9:04
mam*z*1206*p様
今回も自己満足の長文にお付き合いいただきスミマセン。
2009/5/23(土) 午後 11:29 [ なまずお ]
梅葵継の読み方とこの記録は何処で見ることできますか?お教えください。
2018/6/15(金) 午前 9:16