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一昨日、地元紙や地元テレビで報道されていましたが、調査が進んでいた立山で江戸時代の「禅定道」のルートが確認され、当時から登拝者たちにとって有名なスポットであった「姥石」(うばいし)と思われる石が発見されたというニュースがありました。立山信仰について関心がある方には大ニュースです。
以下、北日本新聞より引用します。
江戸時代に立山信仰で使われた旧登拝道、いわゆる「禅定道」跡が立山の千寿ケ原から雄山山頂の間で確認され、18日に県民会館で開かれた立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会(委員長・黒崎直富山大名誉教授)で報告された。禅定道は明治期の略地図などで存在は知られていたが、ルートを特定する遺構は見つかっていなかった。調査に当たった県埋蔵文化財センターの久々忠義主任専門員は「登拝ルートの全貌が明らかになり、当時の信仰登山の様子が具体的に分かる」と話している。 さらに記事引用を続けます。
調査は立山・黒部地域の世界文化遺産登録に向けた資料収集を目的に、5年計画で実施。禅定道は千寿ケ原から雄山山頂までの約20キロで、4年目の本年度は、千寿ケ原−天狗平間約13キロを調べた。過去の調査と合わせ、ルート沿線にあったとされる雄山神社の末社36ヶ所のうち、27ヶ所を確認。ブナ平や弥陀ヶ原では、くぼ地となった幅40〜60センチの登拝道跡も見つけた。 個人的には大ニュースでした。
ちょっと検索してみると、関心のある方がやはりこのニュースを取り上げられているようです。
− 学芸員の小部屋(2014/2/19)
立山は江戸期に全国から多くの参詣者、登拝者を集めました。
一説には、旧暦の6〜7月(今7の〜8月)のひと夏に7000人もの人々が、富山またはその周辺の町を起点にして3〜4泊もの難行を重ねて立山に登拝したと言われます。
天上の立山にある豊かな自然世界は、地獄と極楽を体験し生きながらあの世を見てくることができる場所でした。
また旅人を受け入れ山岳ガイドの手配も担った岩峅寺・芦峅寺の宿坊は、立山曼荼羅を持って全国に立山信仰の布教活動と登拝ルートの説明にまわっていました。
富山平野部における参詣ルートと沿道遺産は県内東部を中心に多く残っており当ブログでも何度も取り上げています。私もその魅力も憑りつかれ様々なルートを歩いた人間の一人です。
(なまずおが歩いた立山道の諸道概略)
(以下リンクに詳しくまとめています)
[富山県]立山道の諸ルート /「カチタビ旧街道」
私自身は上記のとおりの平野部ルートのみで、芦峅寺の先「藤橋」から先の山中の登山には足を踏み入れていませんが、記事の内容の「禅定道」はここから先の山中、その一部区間についてのことです。
※「禅定道」は山頂までの山中登山ルート(=時代によっては「修験道」と同義だったり)と理解しており、厳密には平野部ルートは含めないと考え全体として「立山道」と呼ぶことにしていますが、平野部も含めて「禅定道」と呼ぶものもみられるため、個人的には「立山参詣(の)道」と曖昧に表現することが多いです。
(参考過去記事)
さて、立山はもともと女人禁制でした。
ある尼さんがその禁を破って山を登り石になってしまったというのが「姥石」の謂れですが、この石は江戸時代の登拝者たちが目にする重要スポットになっていました。
新聞記事の写真にあるように、道標地蔵が姥石の上に乗っています。
ちなみに山に登れない女性たちの信仰心を満たす「装置」として、「布橋灌頂会」というイベントと「姥堂」という宗教施設がありました。
これらについては、若干ですが過去のウォーク記事にて触れています。
(2009/9/27)
立山信仰は非常に面白い。
久々にその関心を掻き立てる大ニュースでした。
【追記】
富山県高志の国文学館の学芸員の方が立山信仰についてまとめたサイトを見つけましたので、勝手にリンクしておきます。(怒られたら削除します)
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素晴らしい^^
往時のコースが判れば、今後も遺物などの発掘もありうるかもですね^^
ナイスヽ(*´∀`)ノ★ぽち
2014/2/23(日) 午前 2:19