|
今回は完全な地元ネタです。
『高岡歴史の道を歩く』(高岡市教育委員会、平成10年発行)という簡易資料を読んでいたところ、高岡市牧野地区(上牧野、下牧野、中曽根)、松木(旧新湊市)、能町(高岡市)、六渡寺(旧新湊市)、伏木(高岡市)、三ケ新(旧新湊市)といった庄川下流域から河口にかけて広がる両岸地区の諸集落と、明治末から行われた庄川河口付け替えの工事のことが出ていました。 ↓ 場所はこのあたりのお話です。
現在の庄川の姿は明治33年から大正元年まで行われた改修工事によってできたものです。 それまで庄川と小矢部川は能町(高岡市)で合流し、伏木港へと注いでいました。庄川のほうは大変な暴れ川でこの合流地点あたりで堤防決壊などの水害が頻発し、そのうえ大雨のたびに莫大な土砂が流れ出して港を浅くしていました。 ※工事前の庄川の流れが分かる古地図。小矢部川と庄川が合流して一つの河口に注いでいる。
そこで水害と港湾維持のため川筋を変え河口を2つに分けるという大工事が実施されることになります。 工事は新庄川を新たに作り、新河口を六渡寺町と三ヶ新町(旧新湊市)の間に直流して日本海に注ぐようにして、それまで能町で小矢部川と合流していたのを全く別の川として切り離すというものでした。 この工事で収容された土地は238ヘクタール、移転した民家は8町村299戸、総工費297万円(当時)、労働延べ人員200万人余とのこと。 さてこの工事の結果、川に沈んだ集落があっただけでなく、それまで地続きで往来できていたルートが分断されたのだろうことがイメージできます。 高岡市牧野地区は、大門と新湊(放生津)を結ぶ街道(大門側からは放生津道、新湊側からは大門往来と呼ばれる。現在の県道新湊庄川線に相当)の途中にあります。 たとえば同地区の中曽根で上牧野へ向かいそのまま、あるいは下牧野を経由して現在は庄川を挟んで対岸に当たる吉久へ、という人の往来もあったはずですし、古い地図をみると確かにこれらの集落が繋がっています。 また、牧野地区より南に位置する宮袋や川口といった集落(旧新湊市)は現在庄川右岸堤防の際(きわ)に位置して、街道、旧道的には少し理解しにくい位置関係ですが、宮袋と吉久もかつては地続きで往来できたこともわかります。 こうした大規模工事の結果、地理関係がガラッと変わってしまうと少し上のレベルの「歴史的想像力」が必要になるかもしれませんね。 特に庄川河口に近い上記の地区にとって、この工事のことを念頭におかずして旧道の往来をイメージすることは意味がないというか片手落ちになってしまうかもしれません。 ■■ ご案内 ■■
2つのブログ共同で、facebookページを立ち上げました。 よければ、いいね!してみてくださいね。 ・「なまずの尾っぽ、みらい街道も歩く。:なまずおfbページ」 http://www.facebook.com/namazuo (関連記事) ・ フェイスブックページを作ってみました。 |
全体表示
[ リスト ]







すごい(@@)
自分が調べてる肥前だと、昔は一つの河川だったのが今は二つの河川に別れているっていうのが、ちょいちょいあるんです。
で、暴れてはいないけど蛇行が酷いから肥前独特の満干潮による河川逆流現象で毎回浸水してたんです。
ただ利点があって河川が氾濫浸水することで肥沃な耕作地になるんですね。
それで浸水するけど我慢してて、やっと河川工事したのは昭和になってからなんです。
とにかく、地形を変えるって、不便は不便なりに成立してた生活基盤が根こそぎ変化するので、影響はすごかったでしょうね(@@)
先人は偉大だ!ナイス
2014/9/22(月) 午後 8:06
栞さん
昔の人はすごいですね。
いわば大手術ですよね。
2014/9/23(火) 午前 10:52 [ なまずお ]