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FIFA2010ワールドカップ南アフリカ大会も、残りわずか。
決勝戦は、オランダVSスペインとなりました。
南アのネタで歴史記事を、と思っていたのだけど、
こんな終盤になってしまった。
お時間と興味がある方は
また長文にお付き合いください。
(ほんと長いよ・・・)
南アフリカ ―。
イギリスの旧植民地で、
今も英連邦(ブリティッシュ・コモンウェルス)に入っている。
(一時、離脱したらしいが)
世界に広がったイギリスの旧植民地のなかで
南アは、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドとあわせて
同じカテゴリで語られることがある。
「白人移住植民地」として、
イギリス本国から“新開拓地”・移民先としての植民地、である。
(その反対がインドに代表される「異民族征服植民地」で、ほとんどの植民地がこれになる)
そしてこの4植民地に共通して言えるのは、
20世紀に入って、「自治領」に発展、そしてさらに発展して「国」となるわけだが、
カナダ、オーストラリア、ニュージーランドについては、
今もなお国の元首は英女王・エリザベス2世だし、
それぞれに彼女の代理人である、総督が存在している。
南アだけ、少し紆余曲折があり、違う形態の国になっている、
ご存知、アパルトヘイト、ネルソンマンデラ…の話。
…脱線した。
さて、イギリス植民地のなかにあった南アだが、
実は最初からイギリス人が移住して拓いたわけではない。
最初に移住した欧州人はオランダ人で、そこに植民地を形成した。
これはW杯の日本−オランダ戦の時期に、
テレビなどでも紹介されていた。
しかし、欧州本土でナポレオン戦争が起こり、
その戦後世界の枠組みを決め直しした、いわゆる「ウィーン体制」で
このオランダ人の「ケープ植民地」はイギリスに譲られることになる。
(世界史の教科書にも出てくる重要部分です、はい)
イギリス領になったケープ植民地ですが、
すでに居座っていたオランダ系住民たちは面白くない。
そこで、イギリス支配から逃れて内陸部に大移動。
んで、自分たち民族の国を作った。
これを「グレート・トレック」とか言う。
重要なことなのだけれど、南アに“取り残された”オランダ系住民たちは
自分たちのアイデンティティをアフリカに求め、
「アフリカ人」として意識していたので
彼らを「アフリカーナー」、彼らの言葉(つまりオランダ語系)を「アフリカーンス語」という。
だけれど、一般的には別の呼び方がある。
「ボーア人」あるいは「ブーア」人である。
そのボーア人の国として有名なのが、
「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」。
オレンジ?
そう、オレンジはオランダの象徴の色。
サッカー見てても、オランダ代表のユニフォームはオレンジ色。
これは、オランダ王室の名称・「オラニエ家」(英名:オレンジ家)にちなんだもの。
オレンジ自由国は、その王室にちなんで名づけられたオレンジ川から付けられた国名。
なお、試合会場として舞台となったプレトリアは、現在は南アフリカの行政上の首都だが、
(立法上の首都はケープタウン、司法上の首都はブルームフォンテーン)
かつてはこのトランスヴァール共和国の首都だった。
…また、脱線した。
そのボーア人の国だが、
1880年代に金鉱がヨハネスブルク近郊で発見される。
(ヨハネスブルクはプレトリア近郊の町。現在は南アの経済上の中心地で同国最大の町。)
オレンジ自由国ではすでにダイヤモンド鉱脈が発見されていた。
そうなると、イギリスは黙っていない。
帝国主義的野心ギラギラのイギリス。
当時のイギリス、そして南アフリカを語るにはずせない人物が、
セシル・ローズである。
“デ・ビアス”という会社をご存知の人も多いだろう。
「ダイヤモンドは永遠の輝き」という有名なフレーズで日本でもCMをやった会社。
ここ南アを拠点とするダイヤモンド採掘・加工・販売の会社。
セシルローズはこの会社の設立者であり、
その力を使ってケープ植民地の首相にまで登りつめた。
そして「代表的帝国主義者」といわれた彼だが、
アフリカ縦断政策、3C政策といわれるように
アフリカ征服を企んでいた。
彼はボーア人の土地の金採掘権掌握をもくろみ
トランスヴァールに侵略して失敗、そして失脚するが、
これはとうとうイギリス本国がボーア人の国に戦争をしかける事態にまでなった。
いわゆる「ボーア戦争」で、2度行われた。
1回目はイギリス側の負け、
2回目は苦戦の末、イギリス側の勝利、
である。
とくに第2次ボーア戦争(1899〜1902年)はイギリスに大きな影響を与える。
当初、簡単に終結するであろうと思われた戦争は
その初期、ボーア人たちに圧倒されてしまう。
敗北と拠点が包囲される事態が続きイギリスでは「暗黒の1週間」などといわれた。
ボーア軍に包囲されたいくつかの町に有名な場所がある。
− マフェキング。
イギリス軍は1899年10月11日から1900年5月17日まで217日間を
800人の人数でこの町で籠城した。
それを包囲するボーア軍はなんと8千人以上。
この籠城戦を耐え抜き、解放された日、
遠く離れたロンドンではお祭り騒ぎになったという。
「マフェキングの馬鹿騒ぎ」と呼ばれるのこの現象は、
イギリス人の帝国主義的心性を示す事例として言われるが、
サッカーみててもやはり自国の勝利とは馬鹿騒ぎになるものかもしれない。
(ちょっと例えが悪いが)
そしてこのマフェキングのイギリス部隊を率いていた人物−。
それが、ロバート・ベイデン=パウエル。
彼はその日からイギリスの英雄になった。
名前を聞いたことある人もいるだろう、
そう、ボーイスカウト運動の創立者である。
彼は戦後、青少年教育に力を注ぐのだが、
その手法はこの戦争時期に得たきわめて軍隊的な活動だった。
そもそもボーイスカウトの「スカウト」自体が軍事用語で「偵察」を意味している。
(余談だが、ドラゴンボールで「スカウター」って相手の攻撃力が見える眼鏡みたいのあったな)
※すでに軍事用として開発されていた腕時計を、この戦争で歴史上本格的に使用したのも彼だという。
そしてもう一人、この時期この戦争に絡んだ人物がいる。
従軍記者として参加して敵に捕らわれ捕虜となるものの、脱走に成功。
その脱走劇は同じく敗戦続きのイギリスに明るいニュースとなる―。
彼の名前、ウィンストン・チャーチル。
言わずと知れた第二次大戦期のイギリスの指導者。
当時は25歳かそこらの青年だったろう。
…またまたかなり脱線した。
戦争初期の苦戦を覆し、結果としてイギリスは勝利した。
ボーア人の国は消滅し、イギリス領に編入された。
そして南アフリカ連邦となる。
しかし、この戦争はかなりの時間を要し、かなりの苦戦を強いられた。
まったく当初の憶測とは違っていた。
とくに戦争後半はゲリラ戦となって苦しめられた。
井野瀬久美恵先生(甲南大)などは、この戦争をもって
アメリカにとってのベトナム戦争が
当時のイギリスにとってのボーア戦争にあたる
とまで言われている。
確かにこの戦争の苦戦後、イギリスは世界第一のリーダー国の座から
だんだんと落ちていくことになる。
真にその様子が分かるのは、第一次大戦後にアメリカが台頭することをもってであろうが、
すでにイギリスはこのボーア戦争の苦戦によって
「今までのやり方」ではやっていけない状況になっていたのである。
そしてそれはイギリス自体もわかっていて、
それまでの外交方針「光栄ある孤立」を捨て
極東でロシアの南下に備えるために、日本と結ぶことになる。
(日英同盟―1902年)
そしてここにもうひとつのエピソード。
エルガーの行進曲『威風堂々』(と日本では言われるが…)は有名だと思う。
実はこの曲も発端はボーア戦争のイギリス戦勝を祝うために書かれたのだという。
WIKIの解説を読めば、
「現在のイギリスにおいて国威発揚的な愛国歌、
あるいは第二国歌的扱いを受け…」とある。
ちなみに、戦争後はイギリス人とボーア人は和解する。
そして同じ少数の白人として南アフリカで支配層となる。
最後にこの時期の南アフリカに関わった有名人を一人。
インド独立の父・ガンジー。
彼はイギリスに留学して弁護士になっていたが、
その彼が開業した土地が南アフリカで、1893年のことである。
南アでのガンジーが鉄道の一等席への乗車を拒否される差別経験は
(弁護士は本国ではれっきとした身分なのに、インド人であるから)
映画『ガンジー』の最初のほうで描かれている。
私もそう何回も観ていないが強烈な印象が残っている。
そしてガンジーはこの経験から南アでのインド系住民の権利保護、
を自らの活動の出発点とするのであるが、
そのガンジー出発の土地が、南アフリカ、というのもすごい偶然に思えてならない。
なお、この時期世界大に拡大していたイギリスでは
(奴隷貿易は廃止していたので)労働力供給のため
世界規模での国際労働力移動を行っている。
(「年季奉公人」という「契約」という名の人身売買とも言われているが)
その中でインド系住民(印僑)は最たる担い手になっていた。
(たとば南太平洋の島国フィジーには多くのインド系住民がいるが、それもこうした歴史的経緯がある)
国際人口移動の観点からいえば
インド、中国、アイルランド、ユダヤ、
この4民族がもっとも有名といえる。
書いておきながら締めがうかばないのでここまで。
オランダがW杯決勝に残るって
上記歴史的経緯からすると、なんかすごい因縁を感じる。
私はスペインを応援しますが。。。
(何よりすごいと思うのは、タコの占いだ〜〜!!)
長文乱文にお付き合いいただきありがとうございました。
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老獅子の鬣 [近代イギリス]
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19世紀のイギリス社会と世界の様子をいろんな切り口から語れたらいいな。世界の4分の1を有した大英帝国はまさに「今の世界を形作った」わけです。
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ご存知のように、先週からメキシコでの豚インフルエンザ発生とヒトへの感染、 WHOのフェーズ4への引き上げと新型インフルエンザ発生宣言、 そしてフェーズ5への引き上げ、ヒトからヒトへの感染確認… あわただしく、日々感染拡大の報道が行われています。 日本人でも感染疑いの前段階となるA型陽性の人も見つかった、と報道も。。。。 まあ、この件自体は報道のとおり経緯を見守りつつ落ち着いて行動を、とのこと。 今回は歴史における「パンデミック」についてのお話。 こんなときにのん気にも思うのですが、それが私のブログのスタイルですから…。 インフルエンザの世界的流行といえば、 1918年から翌年にかけて流行し世界で約4000万人の死者(感染者6億人)を出した「スペイン風邪」が人類最初といわれ、高校世界史の教科書でも出てきますよね。 日本では大正時代にあたり著名人も感染しています。 数日前の北日本新聞では芥川龍之介の『邪宗門』が未完のままになったのは、彼がスペイン風邪にかかって体調を崩したからだという説を取り上げています。 さて話はかわります。 インフルエンザはウィルスによるものですが、 ウィルス性感染症には、天然痘、狂犬病、日本脳炎などがあります。 いっぽう細菌による感染症には、ペスト、コレラ、結核、赤痢などがあります。 ○○菌ってやつです。 ところで近代の歴史における感染症の世界的流行(パンデミック)としては、コレラが有名です。 もちろん天然痘含めいろんな病気も広まっていますが、いろんな意味でこの病気は有名です。 今回はこのお話です。 もともとインドのガンジス河流域、とくに下ベンガル地域の風土病(エンデミック)であったコレラは、1817年に突如としてインド全域に拡大、地域的流行病(エピデミック)に変身します。 その年の8月、カルカッタの北100マイルのところにあるジュレソという場所で発生したコレラは、翌月にはカルカッタに侵入、その後多くの犠牲者を出しながらガンジス河に沿って急速に拡大。 そしてインドの西から東に拡大したコレラは1818年8月にはボンベイに到達、そしていよいよインド国外に拡大していきました。 こうして「アジア・コレラ」と呼ばれ世界的流行病(パンデミック)と化していきます。 日本へは1822年に到達しその進行の早さから「三日ころり」と呼ばれたそうです。 コレラのパンデミックは当時から指摘されていたように、 イギリス帝国主義のワールドスケールの展開と、それに伴う世界規模での交通網の整備が大きなう要因でした。 こうしてコレラは19世紀に5回ものパンデミックを起こしています。 第一次:1817〜23年、 第二次:1826〜37年、 第三次:1840〜60年、 第四次:1863〜75年、 第五次:1881〜96年。 …要するに19世紀のほとんどの時期に世界のどこかで流行していたわけで、 コレラは結核とともにこの時代を特徴づける病気だったということです。 コレラは第二次パンデミックのとき、はじめて中東、ロシアを経てヨーロッパに到達します。 1829年8月、まずロシアのオレンブルグに侵入。 1830年9月、モスクワに到達。 1831年4月、ロシア軍のポーランド侵攻とともにワルシャワへ拡大。 5月にはバルト三国のひとつ、ラトビアの首都・リガへ拡大。 バルト海交易を通じてイギリスと関係が深い都市だったので当時のイギリスではパニック状態に陥ったということです。 同じ年の8月、ベルリン、 10月、ハンブルグ。 当時、ハンブルグは汽船で36時間の距離だったのでイギリスでは相当な焦りも報告されています。 そして1831年10月、イギリスに上陸。 場所はイングランド北東岸のサンダーランド。大陸との交易が盛んな都市でした。 イギリス最初の犠牲者は10月26日。ハンブルグからの船が感染源とのことでした。 その後、ニューカッスルから北へスコットランドへと拡大、 南は1832年2月8日にロンドンでも発生が確認されました。 こうして1831年から32年いっぱいにかけてイギリス全体に拡大し、3万人以上の死亡者を記録しました。 さらに1832年、コレラは海峡を渡りアイルランド北西部スライゴに到達。 その地域の人口の8分の5の命を奪うほどの猛威を振るったとのことです。 さらにアイルランド移民とともに、1832年6月には北米大陸に上陸します。 イギリスは1831〜32年の第一次流行(死亡者3万人)ののち、 1848〜49年(死亡者6万人)、 1853〜54年(死亡者3万人)、 1866年(死亡者1.5万人) にコレラの大流行を経験しますが、その後は 島国であったこと、 そして上下水道の整備を中心とする衛星改革の進行(とくに飲料水の質的向上)もあって ヨーロッパ大陸に先駆けてコレラから解放されることになりました。 当時のイギリス、そしてヨーロッパにおいて 病気(疫病)が何を原因と見ていたか(「瘴気」説と細菌説)や、 「清潔」という概念の宗教的なまでの信仰、 「外部からの侵入者」としての疫病、 「軍事的な隠喩」としての「病気との戦い」の概念の発生、 そして疫病や「不潔」とユダヤ人とを結びつける考えの広まり、 「消毒」という概念の登場とそれと結びついて究極的にはヒトラーのホロコーストに行き着く話など… 疫病、そしてそのパンデミックが巻き起こした恐怖は 当時のヨーロッパにおいてはその後も相当な影響をもったようです。 もちろん、細菌であるコレラとウィルスであるインフルエンザには違いがありましょうが、 「パンデミック」という切り口から語ってみました。 19世紀の当時すでにパンデミックの原因と指摘された世界の一体化は 今ではものすごい勢いで進んでいます。 現在報道されている新型インフルエンザの急速な拡大には、世界じゅうにはりめぐらせられている航空機網が関わっていることは容易に想像できます。 願わくば、今回の流行の被害が少ないものであることを。 そしてさらに言えば、病気から変な影響・風説が広まらないことを。 ※今回も以下の本から参考にさせていただきました。 丹治愛 『ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』 (東京大学出版会、1997年) 「にほんブログ村」に参加しています。 クリックで1票お願いします。 ↓ ロゴではなく、下の文字をクリック |
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私はとくに骨董趣味もないのですが、 学生時代の専門にからんで、唯一持っている“古物”があります。 学生時代にロンドンで買ったマグカップです。 ポータベロかノッティングヒルゲイトあたりの蚤の市で買いました。 このマグカップには歴史的エピソードがあります。 学生時代に読んだ史料に出ていたので、 見つけたときに間違いないだろうと衝動買いしました。 いくらだったのかも、もう忘れたけど。 ヴィクトリア女王(位:1837〜1901年)は近代イギリス史においてもっとも輝かしい時代に君臨した王様ですが、たいへん長い在位でして、その晩年に「即位50周年記念式典」と「即位60周年記念式典」が開かれております。 50周年記念式典=“ゴールデンジュビリー”(1887年) 60周年記念式典=“ダイヤモンドジュビリー”(1897年) 「もっとも輝かしい時代」というのは、イギリスが世界各地に植民地を建設し、広大な「イギリス帝国」を支配して、列強国のリーダーであったという時代、まさにそのピークがこの女王の治世でした。 ちなみに、現在のイギリス女王・エリザベス2世は、このヴィクトリア女王を抜いて最長齢の王様になっておりますが、2002年にゴールデンジュビリー(即位50周年記念式典)を開いたものの、まだ在位60年にはとどいていません。このまま治世が続いたとすれば、2012年にダイヤモンドジュビリーが開かれることになります。 さて、本題に戻りましてこのマグカップについて。 東京大学の木畑洋一先生がこの式典について簡単にまとめた文章があります。 木畑洋一「ジュビリー・イヤーズ ―帝国の祭典」 (英国文化の世紀5 『世界の中の英国』第一章、研究社、1996年) 以下はそこからの情報を抜粋させていただきます。 1887年6月21日に挙行されたゴールデン・ジュビリー。 その日、女王は外国や帝国植民地からの賓客とともにバッキンガム宮殿からウェストミンスター寺院へと赴き、感謝の祈りを捧げた。 行列を見に実にたくさんの群集が集まったのですが、何よりも注目を集めたのはインドの藩王たちの姿でした。(インドはムガル帝国が滅んだあと、イギリスの直轄領と地方君主「藩王」の所領で成り立っていた) その日の午後はバッキンガムで各地の貴賓を招いて大宴会。 そして夜にはイギリスの隅々の土地の丘という丘で松明がたかれた。 翌日22日は女王の臨席のもとで、ハイドパークで貧しい子どもたちにパンとミルク、記念のマグカップが配られたという。 記念コップの配布は、このときに限らず様々な機会に行われていて、児童に愛国心を植えつけるための貴重な手段とみなされていて、とくにゴールデン・ジュビリーの際に配られたものはその目的をよく示していました。 そこに描かれたのは、イギリス帝国を表す世界地図、オーストラリア、カナダ、ケープ植民地(南アフリカ)、インドの各紋章、スーダンで行進するオーストラリア軍隊の絵、グリニッジ標準時と帝国各地の時刻を表示した時計、イギリス帝国の人口・面積・貿易額の数字、様々な植民地特有の人物像に囲まれたブリタニアのイメージ(ブリタニアとはイギリスを擬人化した古代女神のようなキャラクター)、そして皇太子、ヴィクトリア女王自身のイメージでした。 まさに私のマグカップは一番最後の「ヴィクトリア女王自身のイメージ」に当てはまると思うのですが(できればイギリス帝国領土を示した世界地図が描かれたのが欲しかった)、よーく見ると。。。 若き日の女王の絵の下=1837(即位した年) 年配の女王の絵の下=18「9」7 そう、これはゴールデン・ジュビリーではなく、さらに10年後の 即位60周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)のもの、と考えられます。 おそらく同じように子どもたちに配られたんでしょうね。 でも、イベント自体はこちらのほうがすごかったようです。 1897年6月22日に挙行されたダイヤモンド・ジュビリー。 このときには大パレードが催され、女王自身が八頭立ての馬車で進み、その前には帝国各地からの軍隊の華やかな行列、ヨーロッパ各国の王室代表の馬車行列が続き群衆の興奮をあおったとのこと。 また世界じゅうにあるイギリス植民地でも式典が行われたようです。 たとえば、カリブ海の小さな島・セントルシアでも盛大な祝賀が行われたようです。 教会での祝賀の礼拝、西インド連隊の兵士の行進、夜には祝賀会、子どもたちには記念のパンを配布、貧しい人々には無料のディナー・・・といった具合に。 ※セントルシアは今は英連邦ではありますが独立国です。 「ダイヤモンド・ジュビリーは、まさにイギリスの、そして帝国の人びとを帝国の絶頂感に酔わせる祭典であった」ということです。 裏はこんな感じで文章が書いてあります。 「日の沈むことのない帝国」の広大な領土と人民を統治する我らが君主、 その彼女が「イギリス史上最長の治世を迎えた」ことを宣伝し、 自分たちもその世界一等国民である「イギリス人」の一員であるという意識と誇りを、さりげなく(?)子どもたちに植えつけたのでしょう。。。。。 (木畑先生が論じた「帝国意識」とその「涵養装置」のお話になるわけですが…) なお、ダイヤモンド・ジュビリーで行われた行列行進の詳細な様子は 木畑先生も紹介されているように、次の本で詳しく書かれています。 井野瀬久美惠 『大英帝国はミュージックホールから』朝日選書、1990年。259頁〜 ヴィクトリア時代のイギリスがいかに広大な帝国を築いていたのか、 今でも世界各地に、州、都市、湖、湾、滝、公園、橋、港などの地名にヴィクトリアの名を見つけることができますよね。 また世界各地ににこの女王の像が残っています。 来年のサッカーW杯・南アフリカ大会。 ここもイギリスの重要な植民地でしてケープタウンの都市計画など面白い話はいろいろあるんですが… 「にほんブログ村」ランキングに参加しています。 1票ご協力お願いします。 ↓ ロゴではなくその下の文字をクリックしてね |
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昨夜、日テレ・金曜ロードショーで『宇宙戦争』(トムクルーズ主演/スピルバーグ監督)をやっておりました。 観たのはこれで2度目です。 初めてみたときは微妙な評価をしましたが、2度目も微妙でした。 原作をうまく利用しながら舞台を現代に設定し、9・11テロへの感情なども反映した作品、とのことらしい。 原作は言わずと知れた19世紀末のイギリスのSF作家・H.G.ウェルズの同名作品(1898年)です。 学生時代にイギリス近代史、とくにこの時代をやっていながら、正直いうとウェルズ作品は読んでいない。。。(『タイムマシン』は映画化されたほうを観ましたが。) でも、周辺研究からなんとなくウェルズに触れるわけで、今回はそんなテーマです。 以前、ドラキュラのところで少し触れましたが、 たくさんの植民地を有し産業的にも世界をリードして世界一の強国である立場を誇った19世紀末イギリス社会には「ぼんやりとした不安」が蔓延していたと言われます。 いろんな原因や要素がありますが、陰りが見えてきたその立場への不安、が大きな要素でした。 そして「反転した植民地化の不安」という外部からの侵略恐怖さえ浸透していたといわれます。 すなわち、「文明的」世界と表象されてきた地域が「原始的」力によって植民地化されつつある、という不安です。 そしてそれらはヴィクトリア朝後期といわれる19世紀末葉の小説に反映された、というのです。 代表例が、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』(1897年)ですが、 ライダー・ハガード『彼女』、ラドヤード・キプリング『消えた光』、A.コナン・ドイル『四つの署名』(シャーロックホームズシリーズです)、などがそうした系統ジャンルに属し、 そしてウェルズの『タイムマシン』や『宇宙戦争』もそのひとつです。 これらの作品では、「怖ろしい反転」が生じています。 今まで植民者だった立場は被植民者の立場に、搾取者は被搾取者に、加害者は被害者に、その立場は逆転するのです。 つまり、イギリス人やヨーロッパ人がアジア・アフリカ・アメリカなど非ヨーロッパ地域で行ってきた行為が、ドラキュラや火星人たちの侵略に摩り替えられて、侵略される側の立場となった自分達「先進」欧米人たちが破壊と抹殺の恐怖におののく、という構図です。。。。 そもそもウェルズは、『宇宙戦争』の着想自体がイギリスの支配のもとで生じたタスマニア土人の絶滅について弟のフランクと交わした議論のなかにあった、と述べているようです。 (「土人」とか「原住民」という言い方が現在よくない言い方なのは分かっていますヨ) で、それらしいことは『宇宙戦争』の作品中にも出てくる。 ―われわれは、火星人についてあまりに過酷な判断を下すまえに、人類が、いまでは死滅してしまったバイソンやドードーといった動物ばかりでなく、人類の下等な種族にたいしても、いかに無慈悲で徹底的な破壊行為を行ったかを思い出さなければならない。タスマニア人は、その人間的類似性にもかかわらず、ヨーロッパ移民が企てた絶滅戦争によって、50年のうちに完全にその存在を抹殺された。火星人がそれと同じ精神で戦争を仕掛けてきたとしても、それに文句が言えるほどわれわれは無慈悲の使徒であろうか。 (「人類の下等な種族」という表現も現代的には問題ありだが、当時はそのような考え方が当たり前だったから仕方ない。イギリス人は自分達を最も「高等な人種」と考えていたし) 「反転化した植民地化」はイギリスが犯した罪悪に対する正当な罰として上記のような作品群のなかに表象されることが多いので、これらの物語は帝国主義の罪悪をつぐなう機会を幻想として提供した、んだそうです。 ところで、トムクルーズの映画『宇宙戦争』の最後は、あっけない(拍子抜けな)もので、娯楽エンターテイメントととして観た人からは非難の的だったそうですが、あの結末は原作にのっとったものです。 でも19世紀末と現在では考え方や知識量が違うし、それまで地球人以上の技術で暴れまくっていた異星人(映画では火星人とはふれていない)があんな結末になる原因に手立てを打たなかったってありえるのか??? あと前半のほうで、どこから誰からの攻撃か分からず町じゅうがパニックになっている最中、 息子がトムクルーズに「どこからの攻撃?イギリス?」と言ったのが気になった。 ここでなんでイギリスが出てくるの?(戦前ならドイツとか日本といわれても分かるが) 原作を生んだ国への敬意(?)なのか。 それとも深読みすれば、現代のアメリカ社会もいつか転落するという「ぼんやりとした不安」を抱え(それはあると思うが)、老大国イギリスにさえいつか「抜かれる」という潜在意識の表象なのだろうか。 【参考】 丹治愛『ドラキュラの世紀末 ―ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』(東京大学出版会、1997年)。 |

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“ドラキュラ”を知らない人はいないと思う。 大学時代の恩師の授業で、ドラキュラについて少し触れることがあり、 それから少し関心を持っていたのですが、本当に面白いジャンルだと思う。 当時の授業では、 19〜20世紀の世紀転換期のイギリス社会(私の専門でもありました)における 「ぼんやりとした不安」についての説明への切り口として、 「裏返された帝国主義」(反転化した植民地化の不安)、「外部者からの侵略への恐怖」を挙げ ちょうどこの時期に出たストーカーの『ドラキュラ』を象徴的に扱う研究がある、 という紹介程度でした。 でもその後に日本人研究家の本に出くわし、 私個人の勉強テーマに触れる部分もあったので読み深めたのでした。 “ドラキュラ”は、そんな意味で社会史研究の題材として魅力的なテーマですが、 よくよく考えてみると、吸血鬼ってすごい設定だと単純に思いませんか? 人に噛み付き、相手を不死者にし、不死者になった者がまた噛み付く相手を求め、それが「伝染」していく… このような「不死者の伝染」は、ホラーの世界ですごく多いと思うんです。 子供の頃の映画だと『ゾンビ』や『バタリアン』、 学生時代には、タランティーノ脚本作品の『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(の後半部分ね)とか、 最近観た映画だと(本当に映画はずいぶん観ていないが)イギリス映画、トレスポの監督の『28日後…』とか。 「不死者の伝染」という設定、すごいですわぁ。。。。 その原型はストーカーの『ドラキュラ』の前からあったようです。 ドラキュラについて、そしてそこからイギリス社会を見る話、
学生時代に戻ったつもりで機会があったらまた更新します。 |

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