なまずの尾っぽ

富山県内、北陸各地の旧街道を歩いています。今も残る歴史風景とともに郷土史・国内外の歴史話など。

坂の下は蜘蛛[忠魂碑と日本近代]

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田舎に残された日本近代化の落し物を紹介できたらいいなと思います。歴史的な事件や大きな流れに地方や田舎も巻き込まれていった様子を理解したいと思います。
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三越歴史ツアー

金曜に東京で日本橋・三越本店に寄りました。

お買い物ではなく、ちょっと歴史的なことが知りたかったので。


インフォメーションのお姉さんにお聞きしてみたところ、
ちょっと分からない様子。
(商売客でもないのにお時間とらせ本当にごめんなさい)


いろいろ対応マニュアルがあるのか、
そういった質問用に情報を仕入れる部署みたいな所に内線されました。
そこまでしなくていいって言ったのに。


そしたらマネージャーらしき女性の方が飛んできて、
まず「きちんとお答えできず申し訳ない」と謝られました。
そんな、こちらこそ仕事の邪魔して申し訳ない。


で質問を改めて聞かれて私の趣旨を述べました。
江戸時代の絵で、それこそ広重とかで
呉服商(三井越後屋)をしていた頃の三越さんが
道をはさんで二軒並んでいたいた絵を見たことがあるが、
それは、ここ本店と中央三井信託銀行のビル(=あとで調べたらここが「三井本館」だった)
をはさむ道で正解かどうか、ただそれだけの確認だったのです。

イメージ 1

イメージ 2

そうすると、答えはまさにその通りと。
それだけでなく、実際にその道まで案内しましょう、と。
ええ〜いいですよそこまで、と言うのですが、
向こうはすっかり謝罪モード。

イメージ 3

道に出て、なるほど〜とかつてテレビでみた絵を思い出し、
感慨深い顔をしてたところ、
地下に現在、そのころの絵図を展示しているのでそこへ行きましょうと。

なんという収穫!
ついでなんで案内してもらいました。
三越さんの地下の入り口前にそれはありました。

イメージ 4

日本橋から神田・今川橋までの人通りを描いたもので
そこにしっかり三井越後屋が描かれていました。
まさに私が求めていた風景がそこにありました。

イメージ 5
左側が現在の三越本店、
右側が現在の中央三井信託銀行

絵図によれば、左(本店)の位置が「京糸物問屋(三井越後屋・喜左衛門」、
右(銀行)の位置が「呉服店(三井越後屋・八郎右衛門)
とありました。

さっきみた現在の風景
イメージ 6

案内してくれたお店の方の話では
銀行側は両替商だったとの話ですが、
これはこの絵の時代より後なのでしょうか。
いずれにせよ、三井越後屋は両替商を営み、
そこから三井銀行や三井物産が生まれ三井財閥へとなっていくわけで。。。



で、この通りの向こうには当時は富士山が見えたそうで
この界隈を「駿河町」と言ったそうです。

イメージ 13



その女性のマネージャーに
「ここまでさせてしまって本当に申し訳ない。
買い物をするわけでもない者にここまでなさるなんて」
というようなことを伝えると、
「いえ、我々は三越というブランドを売っているのですから」という
素晴らしいお返事でした。

その後、じっくりその絵図を長時間堪能した後、
(あまりにマジマジ観ていたからか、
立ち止まり客が次第に増えていって帰る頃に周囲をみて驚いた)
もう一度インフォメーションブースに戻り、最初のお姉さんとマネージャーさんに
一言お礼を述べて帰ってきました。

なおこの地下にあった絵は「煕代勝覧」というもので
文化二年(1805年)の様子だそうです。
私はレプリカだと思って写真を撮っていたのですが
本物はベルリン博物館所蔵だとのこと。

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9


三越自体も歴史ある建物で面白かったです。


その次の日に江戸東京博物館に行くと、
なんと三井越後屋の復元が展示されていて
このすごい偶然に驚きました。

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

なんとも嬉しいものでした。


偶然にも今回の東京で、旧岩崎邸庭園を訪れ
三菱財閥についても触れたので、
三井のルーツについて知識を深めたのは為になったと思います。

ちなみに、三井越後屋の三井家は伊勢商人(松阪出身)で
越後出身ではありまへん。
祖先が越後守だったから「越後さんのお店」からきているという。
詳しくは、Wikiで。



そいや旧岩崎邸〜内にも三井との比較が説明されてました。
そう、「人の三井、組織の三菱」。
あるいは三井の「番頭政治」、三菱の「独裁政治」。

江戸東京博物館で、第一国立銀行についての展示もあったので
微妙に三井(三井銀行)もからみ、本当にいろいろと関連をみた旅でした。

イメージ 14
第一国立銀行の建物復元
東京証券取引所でも学んだな〜
いあや〜本当に行く場所、行く場所がリンクした旅だった。


以前に安田さんについて調べたときに思っていたのですが、
http://blogs.yahoo.co.jp/namazuoh/26667567.html
日本近代の経済人の話は面白いですね〜
今度機会があったら住友について調べてみようかな。
昨夜は家族で風呂に行き、
帰宅してからみんなで1杯やりました。
「1杯」?
自宅で飲んで缶ビールを4本も5本もあけるなど初めてのことではないかな。


終戦の日、ということもあり
死んだ祖父の話や戦争のことなどを
父から聞いたりしました。
昔はこういう話は興味なくて、酔っ払い親父の話など「はいはい」とスルーしてたけど
今は聞く側もそれなりに興味がでて「会話」として成立するようになりました。


話の流れは我が家の歴史のことに。
こういう話も父の年を考えると、
聞けると時に聞いとかなきゃ、って気になりました。

我が家、今でこそ貧しい家ですが、
死んだ祖父さんが今の家を建てる前には今の倍の大きさがあったらしい。

なんでそんな家だったかというと
我が家の本家は私の住む集落全体のなかでも1、2の地主の家で
そこの分家として成立したのが我が家、なんだそうです。
多くの土地も合わせて分家してもらったそうな。
私で4代目。
私にとって曽祖父がこの家の初代。
その後、小学校設立、道路整備、そして現在の区画整理など、
だんだん土地はなくなっていくわけだが。。。


我が家は、本家の娘が婿をもらってできた家らしい。
その婿さん(我が家の初代、私の曽祖父)は、隣集落から入り婿したそうですが、
その土地も含めたこのあたりの校区、当時は高岡市ではなく独立した村で、
その村の村長だった人の弟だったそうです。

「村長の弟」の家、というのが小さい頃の父の自慢だったのか
父の昔話にはよくでてくる話です。
そして当時となりの市から国会議員が出ていたそうですが、
曽祖父はその後援会長?だったらしく、よく応援に駆り出されていたようです。


その「村長の弟」だった初代は、我が家本家筋の妻を先に亡くし
後妻をもらうのですが、その妻にも先立たれます。
そこで何かを感じて出家して坊さんになったそうです。
その時には最初の妻との間に子ども(私にとって祖父)が生まれていて
後妻との間にも子(私にとっての親戚家系の初代、父の叔父)もあったそうです。

曽祖父、祖父、父、ともに「字」が好きなのは家系なのかしら。



祖父(父の父)の戦争体験は生前に直接聞くことはできなかったけれど
(私が小学校のときに死去)
父からはたまに聞いたことはあります。
でもいつも真剣には聞かなかったので、てっきり戦地には行ってなかったのかと思っていましたが、
どうやら昭和18年か19年頃に中国(北支というから北京周辺?)に行ったようです。
当然同じ部隊の仲間の死も経験しているそうで、父には語っていたみたい。
向こうではやはり酷いこともしたらしい(とくに戦争末期だし)。
終戦後に病気にかかり、帰国がずいぶん遅れたとか。

帰国後、我が家に帰ってくると
同じ村のある家のお母さんが足元にしがみ付いてきて
「息子をみなかったか?」と泣きながら聞いてくるそうです。
ドラマや映画でみたようなシーンが実際にあったわけです。
その家の息子さんについては戦争中にすでに死亡通知が届いていたそうですが
そのお母さんは信じたくなかったんでしょうね。
ちなみにその息子さんは実際は海軍に行っていて、祖父とは全然一緒なはずはないのですが
それでも外地から帰還する人が何か情報を持っていないか、まさにしがみつく心境だったのでしょう。

「こんなことならお日様があるうちに帰ってくるんじゃなかった」
と思った、というのが祖父が父に語るときにいつも出てきた心境だったそうです。


我が家の歴史、戦争の話
いろいろ父から聞けてよかったですが、
忘れないよう記事にしました。
もしこのままの状態で父を失うことがあったら、
自分の家のことなど全然知らないことになる。
それってすごい恐怖だな、って思うようになっています。
機会をみて昔話を父からもっと引き出さねば。

安田善次郎

北日本新聞で「ふるさと風土記」という地域紹介の連続特集があります。
今日は富山市の愛宕地区を紹介していました。

ここは旧北陸街道が通った町です。
以前、呉羽山越え⇒富山中心部へ、のときこの町を歩きました。
(富山藩成立後は、金沢の殿様の大名行列で使う街道は小杉手崎から下村へと向かうルートに変更されますが、それでも富山の町を通る従来の街道は一般人にはメジャーなルートでした。)

さて、今日の記事で紹介されていたのは、
「日本の金融王」と呼ばれ、安田財閥を興した安田善次郎(1838〜1921年)はここ富山市愛宕町の出身で、
この地区にはゆかりの公園があるという記事。

善次郎の生家だった跡地は昭和14年頃に安田家から富山市に寄付され、
現在は「安田記念公園」として整備されています。
で公園の隣には「安田町」という町名があります。

富山市中心部、しかも家並みが密集する古くからの地区に公園があるのは、なるほどそういう理由かと納得する。
    場所 ↓

詳しい地図で見る



以前撮っていた安田善次郎関連の写真を掲載しときます。
いずれもデジカメもってない時代にケータイで撮ったのでご容赦を。

愛宕地区にある安田記念公園。
イメージ 1


生家にあった井戸は今も公園に。
イメージ 2


生家跡地を示す石碑。ちと読めんかもしれんが。
イメージ 3


公園内にある説明看板。
イメージ 4



場所は変わって富山駅前にはる「明治安田生命ビル」の前にある安田善次郎像。
イメージ 10

イメージ 5

イメージ 6

   場所 ↓

詳しい地図で見る



さらに場所は変わって、国指定史跡・安田城址の近くには、
安田善次郎の祖先が住んでいたという場所もあります。
イメージ 8


  場所 ↓

詳しい地図で見る

 
で、そこから近く、少し南に行ったところには、安田家の菩提寺・西円寺があります。
イメージ 7

イメージ 9

ここで将来の大成を近い、江戸に出たという。


新聞の話に戻るのですが、
地元の愛宕町、安田町の住民が定期的に公園を清掃しているのに加え、
みずほ銀行富山支店、みずほ信託銀行富山支店、損保ジャパン富山支店は
善次郎生誕の地に敬意を示して年に一回の公園清掃を欠かさずやっているという。
また安田不動産(東京)は毎年、公園のそばにある愛宕公民館に児童書を寄付しているそうで
「安田善次郎翁記念図書」として地元の子どもたちが利用しているそうです。
ん〜いい話だった。



安田善次郎:
富山藩の下級武士の生まれ。
祖先は広島の三善氏というから名門?
21歳のとき江戸に出て奉公人として働き、
その後に乾物屋 兼 両替商の「安田屋」開く。
2年後、両替専業「安田商店」に。
明治2年、政府紙幣発行にからみ巨万の富。
明治13年、安田銀行に改組。(⇒富士銀行⇒みずほフィナンシャルグループ)
明治13年、共済五百名社創立(⇒共済生命保険⇒安田生命⇒明治安田生命)

明治20年、安田保善社(現・安田不動産)。

明治26年、帝国海上保険(⇒安田火災海上⇒損保ジャパン)

明治27年、共済生命保険。(共済五百名社解散)

明治29年、東京建物。

明治30年、安田製釘所(現・安田工業)。

明治32年、安田商事。


大正10年(1921年)、善次郎、凶刃に倒れる。

大正12年(1923年)、中小銀行11行の大合併。新・安田銀行。
(1971年の第一勧業銀行誕生まで他の追随を許さない国内首位の銀行)

第二次大戦後、GHQの財閥解体。
(安田銀行⇒富士銀行)


安田善次郎って、オノヨーコのひい爺さんってのは今回調べて初めて知った。。。


ところで、安田善次郎と並び富山県出身の大実業家としては、
氷見出身の浅野総一郎(1848〜1930年)が有名ですが、安田は浅野に対する援助を惜しまなかったといわれ、
この二人はワンセットで語られたりする。。。
京浜工業地帯の形成に寄与し、「セメント王」と呼ばれる人。
現在の東亜建設、太平洋セメント(←日本セメント←浅野セメント)、JFE(←日本鋼管←浅野造船所)など15大財閥のひとつ「浅野財閥」を築く。
(私の従兄弟の一番下のが今年から東亜建設に入ったらしい)


って、安田さん、浅野さんを調べてみましたが、
実は富山県出身の実業家や富山にルーツがある会社ってほかにもすんごいあるんだわ。。。

・佐藤助九郎(砺波):1847〜1904年 ⇒佐藤工業(1862年創業)
・清水喜助 ⇒清水建設(1804年創業)
・瀬木博尚:1852〜1939年 ⇒博報堂(1895年創業)
・青井忠治(小杉):1904〜1975年 ⇒丸井(1931年創業)
・大谷米太郎(小矢部):1881〜1968年 ⇒ホテルニューオータニ(1964年)
 ※戦前は大谷重工業、「日本の鉄鋼王」。
 ※小杉の富山県立大学って大谷米太郎の寄付で作られたんだね(1962年、富山県立大谷技術短期大学)。


などなど。
※先輩うるまさんから教えてもらった情報を元に調べました。。。





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樺太

今日(といっても昨日か)の午前中、高岡の中心部にお住まいのお客さん宅にお邪魔しました。
70歳半ば前後のお爺さまで、毎年使ってくれる方です。

たまに寄ると、玄関先で旅行話を聞いたり、昭和初期の昔話を聞いたりします。
最近の私にとっては後者のほうが関心に合います。
高岡の大和が建ったのは日中戦争の始まった年だ、とか、
片原町にある北陸銀行高岡支店の土地には昔、市役所があったとか
その向かいには警察署があった、とか
(この地に役場があった話は以前に調べて知ってました。江戸時代にも奉行所?か何か役場的なものがあったと記憶してますが)

で、お爺さん言うには今年の夏にサハリンに行くつもり、とのこと。
驚いて、なぜ?と聞いたところ、実は樺太生まれなんだそうです。

満州生まれはたまに聞きますが、
少なくとも私がじかにお話を聞けたご老人で樺太生まれという方は初めてでした。

で、そこからいろんなお話を聞きました。


お爺さんのお父さんは、伏木の方で
王子製紙で働いていた関係で当時の日本領・南樺太の恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)に赴任。
お爺さんはそこで生まれたらしい。
王子製紙は戦後に分社化され伏木工場は十條製紙が継承しましたが、その十條製紙は王子製紙の再合併の際に合流せず、今の日本製紙になりました。
お爺さんは今も十條製紙と呼んでました。
残念ながら、その伏木工場はどうやら昨年の9月に操業停止になっているようです。
私にとっても小さいときから見慣れた風景で今日知ってびっくりです。


さて、その恵須取はパルプと炭鉱の町で、お爺さんのお父さんもその両方に関わっていたらしいです。
ちょっと調べたら【概要】が分かってきました。
お爺さんの記憶どおり、【大きな町】だったようです。
http://kam-r.sub.jp/ainu/esutorusi.html

お爺さんの話では「現地には中学校がなかったので」、教育上よくないと考えた親が
故郷の高岡に移らせたとのことです。終戦の引き上げではなかったらしい。
お爺さんはここで初めて内地に来ました。
生活の違いにびっくりしたそうです。
樺太時代には、リンクの資料にもあるように、きちんと暖房完備の住宅だったそうですが、
高岡では豆炭のコタツ。
伏木の「けんか山」も、最初聞いたときには「山」の意味が分からず、
自然の山がどうして動くのだろうと思ったそうです。
あと、当時から恵須取では水洗トイレだったとのこと。

これは以前読んだ本で似た情報を知ってます。
『僕の見た大日本帝国』では、中国の大連でも戦前から下水道が整えられてかなり良く機能したとの情報があります。
日本は植民地開発・インフラ整備に力とお金を注いだのは事実のようですね。

あと、いわゆる強制労働で連れて行かれた朝鮮人の存在もお話されてました。
家族ごと移住した彼らにも家族がいたわけで、
お爺さんの小学校にも朝鮮人がいたけれど、経済的な事情からから
同級生でも2コとか3コ上の人だったそうです。
また、運搬トラックから転げ落ちた石炭を拾って集めて暖をとっていた朝鮮人の光景がまだ記憶にあるとも言っておられました。


などなど、貴重な話をお聞きすることができました。(私、何の調査員?)


お爺さんはすでに図書館などで調べた当時の資料や写真のコピーなど
自慢げに持ってきて、私に見せるのですが、
その顔は、上のリンクでも見れるような「日本的な町並み」に思いを馳せているようでした。

もちろん本人もそれらは今や残っていないことは理解しているようですが、
「死ぬまでに生地をもう一度訪れたい」とおっしゃる顔はなんだか無邪気な喜びが宿っていました。

調べると、恵須取にはまだ当時の小学校の施設の一部とか、
神社の鳥居とかが残っているようです。
もし見れたら、お爺さんすごくうれしいだろうなぁ。。。

ちなみにお爺さんが持ってきて私に見せた地図には、
現在のユジノサハリンスクが思いっきり旧名の[豊原]と書いてありました。

今回調べて見つけたこのサイト、なかなか面白いねぇ。
『新樺太市』 http://www.k3.dion.ne.jp/~karafuto/top.html
今秋からNHKスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』やりますね!

こちらもすごく楽しみです。 
…原作は途中まで読んだのですが日本海海戦の前で挫折した。

週末散策していると、道沿いや集落に「忠魂碑」を見かけることがよくあります。
その集落の戦死者の供養のために建立されたものですが、
よく見かけるものは第二次世界大戦・太平洋戦争での戦死者供養のものです。

でもちょっと調べてみると、忠魂碑はそもそも日清・日露の両戦争での戦死者供養から始まったと分かります。
まさにドラマの時代、日本の近代化の道のりですね。

うるまさんの家の近くにある忠魂碑なんかは台湾出兵の際の戦死者から記載されてます。
こんな田舎から台湾までの道のりを考えると・・・すごく遠い。


神社なんかではたまに西南戦争戦死者供養の碑(と言われるもの:さすがに何も読めない)があったりする。

各村々から戦争のために住民を兵隊に出す。。。
先の大戦のような「国民皆兵」「総力戦」ではない時代の話。
それは村にとってどんなインパクトだったのだろう。

国家としての日本は「近代」の形を整えつつある時代、
でも村はまだまだ長閑な風景だったんだろうな。

いつかこのテーマで散策しまとめてみたいです。



イメージ 1

富山市婦中町田島にある忠魂碑。時期は不明だが兵隊さんの格好が日清日露期っぽい。

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