南原充士の 『越落の園』

辛口の芸術評論、なんでも評論=コメント歓迎!

「価値観の研究」第一部

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 次のページ ]

 価値観についていろいろ思いつくことを述べてきたら、もう50回めの記事ということになった。

 これまでは、かなり基本的なことを、抽象的に、体系的に述べてきたつもりである。

 ところどころに具体例を挿入したが、どちらかというと論理の展開に重点を置いてきた。

 50回をもって、「第一部 理論篇 」を終えたいと思う。第二部は 応用篇」として、具体例に即して価値観がどう働いているかということを追ってみたいと思う。ただ、気が向いたときに書くつもりなので、あまり定期的な記事を期待しないでほしい。もっとも、愛読者がいてくれたとしての話だが(笑)。

 最後に言っておきたいことは、十人十色といわれるように、人それぞれ外見も好みも考え方も違っている。白人、黒人、アジア人というようなちがいもある。生物種もおびただしい数がある。

 多様性が生物の価値だと言えるらしい。

 そこで、自分の価値観を磨くことと同時に、他者の価値観を理解し、尊重しようとする姿勢が重要なのだといえるだろう。

 個人レベルでも、グループレベルでも、組織レベルでも、地域レベルでも、国家レベルでも、さらには、国際関係でも、価値観は常に異なる価値観が存在し、衝突し、争いになりやすい。

 価値観はまた、全体として、また、部分として機能する。そして、切磋琢磨し、競争し、相反するテーゼが止揚され、変化し続けていく。

 したがって、価値観を担う主体が、どんな姿勢を持ち続けられるかが重要である。価値観は価値観をもった主体(ベースは人間)がとる姿勢や行動として現れる。言語と行動のように密接不可分である。

  人間がいかに偏見のない自由な精神をもてるかどうかが鍵である。

 それは、科学的に保障されない経験的な人類の価値であり、引き継ぐべき遺産だ。

 経験的な価値が社会的に認証され受け入れられるプロセスおよびその成果が価値観といってもよいだろう。

 もちろん、自然科学や社会科学といった科学的な成果とあいまった、総合的にして哲学的な価値観というものが究極の価値観としてとらえられるべきものであろう。 

 つまり、科学的に実証可能な部分と経験的にしか成り立ち得ない正義とか道徳的な教えとを総合的に組み合わせた、総合的な価値観こそ求められるものである。

 それは静的なものでなく、姿勢や発言や行為としてダイナミックに機能するものである。

 そのような「動的な総合的価値観」の形成(=人格形成に近似しているかもしれない)の努力と競合の結果として、最大限、異なる価値観が共存共栄できるような社会や国家のあり方が追求され実現されることが望まれる。

 つまるところ、究極の人類の目標は、平和と繁栄の共有であることは言うまでもない。

 「価値観の研究」もまたその目標にすこしでも貢献できれば幸いである。

開く コメント(0)

 価値観を考察するとき、忘れがちなのは、意識と無意識の関係である。

 なにごとも覚めた眼で観察し、判断していると思いたいが、現実はそうはいかない。

 幼児時代の環境によって、味覚や生活様式や価値判断など、かなりの範囲にわたって、個人の価値観は影響を受けざるを得ないし、社会の中の一員として道徳観も身につくこととなる。

 先入観や偏見なく物事を見ようとしても、無意識に形成された価値観は変えにくいのではないか?

 マナーやエチケット、衣食住、言葉、挨拶の仕方、冠婚葬祭、ショッピングの仕方など、もろもろの生活の細部に、価値観は現れる。

 列に割り込むことに目くじらをたてる人とさほど気にしない人がいたら、けっこう事件にさえなる。

 がんつけた、とかで刃傷沙汰に至る例もある。

 価値観を形成する歴史や先人の知恵には敬意を払う必要があるが、やみくもに信じるのは問題だ。また、自分の価値観の中に無意識が大きな役割を果たしてきたことも意識すべきである。

 価値観は、切磋琢磨して、よりよいものに改善すべきである。絶対的な「改善」かどうかはわからないが、一応、いま生きているひとたちの大多数によって支持されている価値観には敬意を表すべきだろう。その上で、自分の価値観をレビューし、修正し続けること。それこそが、不完全な存在である人間にできる最善の行き方ではないだろうか?

 わけがわからないまま生まれて、わけがわからないまま死んで行くというのが大部分の人間の一生だろう。

 それでも、生きている限りは、平和で、充実した、幸福な一生を送りたいと望むのが人の常だ。

 そういう素朴で基本的な原点にかえって、人間の生きる道を探し求めることがたいせつではないか?

 価値観とは、生きるためのよきガイドブック、マニュアルとして活用されるようなものであればよいと思う。

開く コメント(2)

 価値観の体系および要素についてはすでに述べた。

 ただ、個人の価値観と社会の価値観にはちがいがある。

 社会道徳などは個人の道徳観を拘束する。

 正義もまた個人の正義感と社会的正義は異なりうる。

 正義は、絶対的なものではない。

 社会科学が価値観の科学的な解明をすすめることは重要だが、完全に科学的な解明ができるとは思えない。

 では、「正義」とはなにか?

 自然科学については一定の制約はあるものの、証明可能な法則や事実がある。

 社会科学は、一般には、相対的な価値観だ。

 歴史的に積み上げられてきた価値観である。

 たとえば、ひとを殺したり傷つけたりしてはいけない。

 ひとの自由をうばってはいけない。財産を盗んでもいけない。

 侵略的な戦争はいけない。人種差別はいけない。誹謗中傷はいけない。

 正義は、公平、公益、公正、非暴力、自由、博愛、平等などのなかにある。

 弱いものを助けよ。病人を手当てせよ。体の不自由な老人を介護せよ。身寄りのない孤児を救え。などなど。反論しようのない立派なスローガンだ。

 だが、見方を変えれば、正義は別のところにある。

 一昔前の世界は、戦争をやむをえないこととみていた。

 であれば、力は正義となる。

 常に軍事力をたくわえ、すきあらば、敵にせめかかり、勝利を手にするのである。

 日本でも、家康が権力を掌握するころまでは、戦国の世が長く続いていた。

 国際的にも、いまだに戦争は各地で行われている。

 「正義」を標榜しない戦争はないはずだ。少なくとも、戦争をしかける者は、正義のために戦うことを宣言するだろう。

 正義と正義の衝突が、見かけ上の戦争の実態だ。

 だが、第三者的な立場で見れば、状況はまったく違って見える。

また、後世になって振り返れば、状況は違って見えるだろう。

 正義というものは、さように、歴史的な意味づけがなされるものであることを忘れてはならないだろう。

 ただ、人類が、正義に向かって進化していることを信じたいのはやまやまである。

ぼくもまた、それを信じたいし、そういう努力をすべきだと思う。それが歴史的な知恵であり、価値観だと思う。

開く コメント(0)

 価値観の競合はいたるところに見られる。

 価値観が生き物だというとらえ方についてはすでに述べた。

 では、価値観はどのように優劣が決まるのか?あるいは強弱が?

 正当性とか論理性とか宣伝能力とか?

 価値観の競争ということを分析するとき、ひとつ注意すべきことがある。

 それは、善意と悪意ということである。

 たとえば善と悪との対立という構図なら話は単純だ。

でも、現実は複雑だ。善悪は区別困難だ。

 仮に、善意だとしても、善意同士の真摯な競争や衝突というのが現実にはよくある姿だ。

 とくに、自分こそ正義の具現者だと信じ、真剣に自分の価値観を主張し実現を図ろうとする者が多数存在し、競争状態にあるとしよう。

 そういう場合は、どの価値観を選択すべきか迷うだろう。

 また価値観が共存しうるのか、選択を迫られるのかも重要な要素だ。

 さまざまな事情の違いに応じて価値観のあり方や競争関係もかわってくる。

 ただ、善意ならいいとか、悪意だから悪いとか、単純な判断はすべきではないということには留意する必要があるだろう。

開く コメント(0)

 これまで、科学と科学以外のことがきちんと区別できることを前提に話をしてきた。

 しかし、ほんとうに科学と非科学を峻別することは可能なのだろうか?

 科学的とか客観的とかいうと、きわめて論理的・実証的で疑問の余地がないようにも思える。

 実際にそうだろうか?

 アインシュタインが敬虔なキリスト教徒だったという話もある。

 どんなに科学が進歩しても、宇宙や生命のなぞはとけそうもないのだろうか?

 宇宙のはじまりについては画期的な理論が提唱されている。宇宙の歴史や構造についても、驚くべき発見や理論展開がなされてきている。まさに天才的な発展といえるだろう。多くの天才の功績も大きい。

 だが、どうにもわからないことも膨大ななぞとして存在しているようにも思える。

 そもそも、なぜこの宇宙があるのか?

 空間と時間とはなにか?

 どうしてこんなに多くの動物や植物や物質が存在するのか?

 人間ひとつをとっても、なんでこんなに高機能の生物が生まれてきたのか?

 こうした宇宙や生命の設計図をかけるのは、超越した存在しかありえないのではないか?

 「神」ともいえる存在がなければ説明できないような気がする。しかし、それは証明するのがむずかしそうだ。

 神の概念は宗教と密接に結びついているが、ここでは、宗教とは別に、科学的なアプローチとしての「神」の問題が残されているということを指摘しておきたい。

 かりに、科学が、思想や信条や道徳観など科学以外の分野と明確に区別しきれないとしたら、話はややこしくなる。

 科学的な思考も、哲学的な思考と結びついているとしたら、科学もまた相対的な理論にすぎなくなるかもしれない。いわば、たしからしい理論として、「仮免」はもらえても、絶対の真理としては公認されないのだ。

 科学の発達、そして医学の発達。それはさまざまな難問に光を当ててはいるが、すべてに解答を与えているわけではない。

 ユークリッド空間と実際の宇宙空間とは違うらしい。次の理論も完全には現実を説明できないかもしれない。それでも、すこしづつは、真理が明らかにはされている。

 そのように、科学といえども、完全とは行かずに、どこかファジーな要素をはらみながら、相対性と絶対性をあわせもち、、さらには未解決の現実を膨大にかかえたまま、研究が続けられているのかもしれない。

 「科学」という言葉の持つ「魔性あるいは「陥穽」」に幻惑されないような注意が必要かもしれない。

 

開く コメント(0)

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事