南原充士の 『越落の園』

辛口の芸術評論、なんでも評論=コメント歓迎!

「価値観の研究」第一部

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 世の中には、むかしから、賞賛もあれば批判もあり、風刺や皮肉や揶揄もあった。

庶民が、不満を言う方法はいろいろあったが、時代によって、言論の自由の程度が異なるから、
その言い方も変化にとんでいる。

では、庶民を代表するつもりで、いろいろ批判的な発言をするひとがいるとする。

自民党は親米一辺倒で主体性がないとか、憲法改正は戦争への危険性を高めるおそれがあるから反対だとか、財政赤字は政府の責任だとか、社会保険や年金制度について国民に展望を与えないとか、税負担が不公平だとか、金融政策が失敗だとか、証券取引法や外為法に欠陥があるとか、教育制度に欠陥があるので、いじめや自殺などの問題が発生しているとか、雇用政策の欠陥のせいで、ニートが発生したとか、
とにかく、あらゆることに対して批判的な言辞を弄する者がいるとする。

それらの批判には反論が可能だろう。根拠資料や論理展開を突きつけあって議論は展開されうるだろう。

そういうまったく利害関係や立場を離れた議論がなされることは悪いことではない。
ただ、その場合、「批判のための批判」であったり、「批判が愉快」だからとか、「応援団の喝采をえたいから」とかの不純な動機が働いていないことを確認する必要があると思う。

批判は重要な改革の契機となりうる。
しかし、批判のもつ構造や性質にも注意を払うことを忘れてはならないだろう。

価値観の体系を構築するときに忘れてはならないのが、立場という観点だ。
たとえば、今の世の中のことについて批判するとしよう。
批判はどんな立場からするのか?は重要なポイントだ。

憲法改正はわが国の将来にかかわる重要問題だろう。
これについて、防衛省の職員が、公式に反対の態度をとることはむずかしいだろう。
しかし、個人的なレベルでは、反対と考えている職員がいないわけではないだろう。

これに対し、職業的に憲法改正についての態度に特別の制約がないという国民のケースであれば、公私共に賛成とか反対とかの立場を貫けるだろう。

政治的な活動に制約を受ける職業もあれば、そうでない職業もある。
さまざまな立場をもった国民がいるので、意見も微妙に変わる。
評論家という職業もある。政治評論家としての発言というものもある。
庶民が雑談のなかであれこれ意見をかわすときは、なんの責任もなく自由気ままに発言できるだろう。

憲法に定められていることといえば、国家権力のことと基本的人権のことが中心だ。
国民は、さまざまな権利を保障されている。そして、さまざまな義務も負う。

ある国民がいる。自分の支持する候補者に投票する選挙権がある。しかし、所得税や住民税を納める義務を負う。社会保険料も納めなければならない。

ある国民が、さまざまなことに舌鋒するどく批判するとしよう。

たとえば、教育制度に問題があるから学校でのいじめが増加する。だから、教育にかかわる法律や制度や教育委員会や教員養成方法や学習指導要領などを改正する必要があると主張する。

その者が、学校関係者であるか、学校に通う子供を持つ父母か、直接関係をもたない者であるかどうかによって、発言の意味と重みはかわってくる。

多くの場合、利害関係のある者はその立場上、責任ある発言を求められるので、真剣さや正確性や状況把握や問題解決の方向性について、利害関係のない者より高いレベルの準備をすることが期待される。

もちろん、言論の自由は、利害関係のない者の発言を否定はしない。しかし、発言には責任がともなうので、責任の重さによって発言の尊重度に差が出てくることはありうる。

自分の意見を形成するときに、そういう「立場」の持つ意味を忘れてはならないと思う。

「価値観の体系」の構築のひとつの前提として、自分がどんな立場からものをとらえて、意見をもとうとしているのか、チェックしなくてはならないと思う。

藤原伊織氏も団塊の世代、全闘共世代に属していた。

一口に団塊の世代といっても何百万人もいる。

ひとくくりにすることには無理がある。

しかし、「どんな特色があったか、またいまあるか?」ということを考えてみることはおもしろいし、意味があることだとは思う。

歴史をどうとらえるか?というときの、ひとつのヒントとしても興味深い。

まだ、過去になりきっていない時代のことや世代のことを描いてみれば、過去になってしまった時代の
ことをどうとらえるかについての手法を考えるのにも役に立つはずだ。

「団塊の世代」の定義について厳密な議論をしたいとは思わない。

戦後のベビーブームに生まれた世代。
昭和22,23,24年あたりが中心だろう。

名付け親は、堺屋太一氏らしい。

ぼくは昭和24年北関東の地方都市に生まれて、東京の大学を出た。
学生運動の真っ最中だった。

個人的な経験をベースに当時の東京の大学生についての特徴を挙げれば、

おおきく3つグループに分かれた。
1.政治運動に積極的にかかわらない。(いわゆるノンポリ)
2.全共闘(といっても多くのグループに細分化していた。角材、鉄パイプ、ヘルメット、タオルでマスク、というスタイルで、デモをしたり、集会をしたり、アジビラを配ったり、校舎を占拠したりした。)
3.民青(共産党系)

 ノンポリといっても左翼的な発想、中立、右翼的な発想、無関心派など詳しく見ればいろいろあった。
 デモとか集会に積極的に参加しないというだけで、政治に関心がないというわけではなかった。

 最初は、これらの学生はクラスメートとしてひとつにまとまっていた。やがて、学生運動が激化するとともに、3グループはけっていてきな対立関係に陥り、信頼関係を失ってしまった。

 卒業してからも、基本的には、3グループの分裂状態は解消していないと思う。
 ここに最大の不幸があると思う。

 自分のクラスメート(法律専攻)についてみれば、
 卒業してからの進路は、ノンポリが、一般企業、公務員、大学、マスコミなど。
 全共闘は、弁護士、一般企業や公務員、大学。
 民青は、弁護士など。

 学習意欲にはいまの若者と差はないと思う。
 ただ、パソコンやケイタイなど便利なものがなかったので、情報量や情報の処理力はいまの若者のほうが上だろう。
 ただし、人間と人間が話し合うという機会はいまより多かったかもしれない。
 生涯雇用がふつうだと思う人が多かった。いまの若者は自分の進みたい道に忠実かもしれない。

 スポーツや遊びについては、選択肢はいまよりせまかったものの基本的には大きな差がないような気がする。ただし、マージャンはよくやっていた。
 合コンなどもそれなりにやっていたような気がする。
 群れて画一的で権威主義的だという見方があるが、それほどでもないと僕は思う。
 
 今団塊の世代は、60歳にちかづいた。
 全体としてどういう特色があるのかよくわからないが、まず自分たちのことをよく知ることが世界認識の第一歩であることはまちがいないだろう。

 「価値観の体系」を考えるうえで、「団塊の世代」の考察も自分の重要なテーマとしてみたいと思う。

  
 

 性善説を信じたいが、歴史をふりかえればそんな甘い見方はできない。
では、性悪説が正しいだろうか?
歴史を振り返れば、そうとばかりもいえない。
どうやら、人間は、正邪両面をもっているらしい。

 ひとりの人間の中に天使と悪魔が共存する。

 皆殺しを命じ、命乞いをするおんなこどもさえ切捨て、家屋敷は焼き払った残酷無比な武将も、舞を愛し、茶の湯やハイカラな文物を好んだ。有能な部下を取り立て活用した。商業の発達を促進した。武芸に秀でただけでなく、経済や文化や風俗にも意を用いた。芸術への理解もあっただろう。

 人間の内面は脳科学や心理学、社会学などが総動員されなければ研究が進まないと思う。

 ともすれば、善悪。正邪、真偽、明暗、強弱、など、二元論に陥りやすいのが、人の常。

 できるだけ科学的に、人間を人類を観察して、歴史を分析する視点が不可欠だ。

 歴史認識が単純に共有できるとは思えないが、統一しようとする努力は大切だと思う。

 結論とともに、プロセスも重要だ。

 姿勢や運動、行動がともなってはじめて、価値観が実証的になり、説得力をもつのだと思う。

「価値化の体系」とは、人口に膾炙した言い方をすれば、「思想」とか「世界観」とか「主義」とか「イデオロギー」とか「信条」とか「生き方」とか「理念」とかと言い換えることもできるかもしれない。

だが、それらの用語には一定のニュアンスがつきまとうので、ここでは、あえて、「価値観の体系」という言葉を使ってみた。

価値観の体系について総論的なことは述べたので、以下、各論に移っていきたい。

なお、「価値観の体系」の具体例は、前述のように、たとえば、総理大臣の選挙に際して表明される公約や政策がある。安倍晋三総理、小泉純一郎前総理などの発言を思い出してもらえばわかりやすいだろう。

体系というからには、いくつかの要素が組み合わさっているわけだ。

たとえば、安全保障問題。
憲法。
国家組織。三権分立。
地方組織。
経済問題。
税制。
金融。
産業・通商。
CIQ.
科学技術。
医療・福祉・介護。
年金。
人口。少子高齢化。
教育。
雇用・労働。
外国人の受け入れ。
治安。防災。消防・警察。
交通基盤整備。
消費者保護。
生活安全。
環境保護。自然保護。
国際関係。国際協力。

情報通信。
観光・レクリエーション。
地域振興。
芸術。文化。芸能。娯楽。
スポーツ。
宗教。
ボランティア。

このように、大きく分類しただけでも、膨大な内容がある。

そこで、話を単純にするために、
「言論の自由」ということを取り上げてみよう。
たとえば、憲法改正について賛否両論がある。
国会で成立した法案は有効になる。
まだ予断を許さないが、国民投票が行われるというステップがありうるだろう。

それでも、成立した法律の内容に反対するのは自由だ。
かつて、現行制度を批判しただけで逮捕され投獄された事例もあったが、
今の日本では、違法な暴力的な反対行動を起こさない限り、あるいは、名誉毀損などに該当しない限り、
どんな発言も許される。
これが、長い歴史を経て、成立された「言論の自由」だ。
まだまだ、不十分だという意見もあるかもしれない。そういうひとは、これからもずっと反対意見を表明し続けることができる。そういう制度がよいというふうに「価値観」が選択されてきた。

いまでは当然と思われる「言論の自由」も歴史的、あるいは、地理的に見れば、必ずしも自明ではない。

衆愚政治批判という考え方もあった。
民衆はおろかだから、政治は少数のエリートにまかせておくべきだ、とか、
言論の自由を認めると、世の中が混乱するから公益に反する、とか、
まじめに考えられたこともあった。

時間の経過は人類を進歩させるかどうか?
よくわからないが、長い眼で見れば、人類は進化し、成長して、賢くなっているのだと思いたい。

いまの民主主義をベースとする日本においては、
選挙や投票などの法的なルールを基礎に、多数決でものごとを決定することが基本だ。
そして、反対者は、合法的な範囲において、反対運動を続けることができる。
次の機会にまた選挙や投票によって自分の「価値観」が勝利する可能性がある。

「言論の自由」という価値観の体系のひとつの要素を見てみたが、
さまざまな要素が複雑に組み合わさっているのが現実である。

それをきちんととらえた、正確な議論が求められる。
その上で、公正な手続きによって結論が出されるべきだと思う。


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