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母をたのしく! すべての母に産後ケアを@名古屋
★9月より「産後のバランスボール教室」の体験会が始まります。9/16(土)、9/23(土・祝)@名古屋・平針です★

祝1歳、祝産後1年。

こんばんは!
NPO法人マドレボニータ 准認定ボールエクササイズ指導士 養成コース2期生の長野奈美です。


けさ、三女の泣く声で目が覚めました。
なんとベッドの端にしがみついて立っているではありませんか
「ようやく!」と思ったけれど、ただベッドからずり落ちて、
必死に腕の力で耐えているだけだったというw

脚はプルプルしていてかわいかった

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そう、きょうは三女の1歳の誕生日です

産後1年たったんだなあ。
今回の産後、あんまりにもあっという間過ぎて、三女は勝手に育った感ばかりでw

もろん養成コースのただなかにいるっていうのも大きいですが、
私がやらなきゃいけない部分が本当に減っているのだと。

夫は、これまで決して手を出さなかった食事の支度ができるようになり、
赤ちゃんのお世話コンプリート!という感じです。

さすがに離乳食を支度するところまではできなかったけれど、
おかゆとか軟飯はつくれるようになったし(誰でも作れると思うけど)、
何をどれだけ食べさせるかという判断はできるようになった。

長女は、寝かしつけが最高にうまくて、
膝の上にのせてゆらゆら揺らして寝かしつけ、着地までできるという。

次女は…
ま、楽しく遊んでくれる係ということでw

でも、洗濯物を畳んだり、保育園の支度とかを手伝ってくれますね。

だから、母じゃないとできない、ということがひとつもなくて
何だったら母泊まりの出張行っても(ないけどw)
夫と上2人で三女の面倒見られるよね、というところまで家族の育児スキルが上がっています。

そんなお姉ちゃんと、父と母に育てられて、
三女はマイペースに育っています

まだ立つ気配もなく、ずりばいで高速に動き回っているんだけど、
ずりばい姿勢から、マーメイドのような姿勢になり、腕で上体を支えながらお座りまでできるようになりました。つい昨日のこと。

言葉の発達が目覚ましくて、「どうぞ」とか「ありがとう」とか
やりとりする言葉も出てきています。

「まんま」「パパ」「バイバイ」はずいぶん前から言っていたなあ。
「ママ」はまだ言わないの

自己主張が本当にすごくて、保育園では「さすが三女」と言われているのだとかw


三女が生まれてきてくれたことで、私は産後ケアのインストラクターという道を目指し始めて、家族のあり方も、夫との関係も少しずつ変わり始めている。

三女の存在が、私の人生や家族にとっても大きな影響を与えてくれています。

これから、動き回って目の離せない時期に突入するけれど、
私一人で育てているわけじゃない、という心強さと安心感があって、
不安に思うことはなーんにもない。

スクスク、彼女らしく、育っていってくれたらいい。

ちょうど1週間後に控えている長女のお誕生日と合同でお祝いということで、
きょうは特別なお祝いはなーんにもしていないのだけど。

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「1歳のお誕生日のひと!」
「はーい!」
というやりとりで、家族みんなで和みました。

ささやかな幸せをどうもありがとう。

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鎧を着た大人たち

こんばんは!
NPO法人マドレボニータ 准認定ボールエクササイズ指導士 養成コース2期生の長野奈美です。



世間はきょうあたりから日常を取り戻しているのでしょうか??
わが家の娘たちもきょうから、保育園に行っています(長女はお友達のおうちに預かってもらっています)。
 
お盆の間に読んだ本が、今まで私が読んだ「子育て」と分類されたエッセイの中で、もっともエッジが効いていたので紹介します〜


「女たちの武装解除」
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筆者は小島慶子さんw
そりゃ、エッジ効いてますでしょ
 
 
 
人はみな鎧を着て生きている、たぶん。
子どもから大人になる過程で、どんどん分厚い鎧で身を固めていくんだろうな。
 
人からよく見られたいとか、「プライド」を築き上げて自分の自尊心を満たすような、そんな飾り方。
男だからとか、女だからとか、母だからとか、そんな「こうあるべき」という社会的価値観も鎧の類なんだと思う。
 
それが自分を苦しめ、自分の目も心も曇らせ、ときに家族関係や子育てまで息苦しくする。


この本は雑誌「VERY」に2010年秋から12年夏にかけて連載されたもので、筆者の小島慶子さんが同世代の女性に「鎧を脱ごうよ!」呼びかけた、コミカルで皮肉たっぷりな子育てエッセイです。(←ざっくり書きすぎたけどw)
 
小島さんは、1972年生まれ、団塊ジュニア世代。
ご存じ元TBSの女子アナ。そして、現在タレント・エッセイスト。
あれ? 最近あんまり姿見ない? って私があまりメディアに触れていないからかw
 
その育ってきた環境は、
「誰から見てもよくわかるようなシアワセを手にいれなくちゃいけない」
という幸福感に縛られてきたのだと。

ご自身は中流階級だったのだけど、
中学から伝統一貫校に通い(学習院)、
母が敷いたレールの上を、
母が考える「幸せ」を目指して歩まされた少女時代があった。

出産後、母との距離を置いて、母との関係を再構築して、
「鎧を脱いだ」今があるのだと。
 

掲載されているコラムで一番好きなのが

(どれもすごく心に響くんですけどね。
ここまで研ぎ澄まされたコラムを書くって、本当にご自身に日々向き合い、
日々いろんな情報をインプットしてアウトプットされているんだろうなあ、
と思わずにはいられない。

プロなんだから、あたりまえ?? 

でもイチ母として、ここまで自分の子育てを客観視できるってすごいことだと尊敬する。あ、( )内長くなりすぎた、失礼)



「私と息子たちの関係はみんなに○をもらうためにあるのではない」というタイトルのもの。
 
内容はこんな感じ。


食の細い2人の息子が食事をするのにとっても時間がかかる。

毎日褒めたり励ましたりしながら、1時間とかかけながら、
試行錯誤しながら「感謝して行儀よく時間内に食べ終えることがどれほど大切か」を伝えてきたけれど、ある日限界が来た。

「君たちが生まれてからずーーーーーーっと食事の時間が辛くて、もう死にたくなるぐらい本当に辛いんだ!」と机に突っ伏して泣いたんだ、と。

育児書的に見れば、このやり方は○の付くやり方じゃない。

でも、親子の関係ややりとりはそれまでの何年かの経緯と事情があって
他人にはわからないもので、この世にその親子関係はひとつしかないない。

息子さんたちは、一緒に食べている人たちのことも観察するようになったそう。「家族と楽しく食事をしたいという目標をようやく共有することができた」と。
 



自分の子育てに自信が持てないとき、誰かに相談したり育児書を開いたり、それは私も母になりたてのときよくやったことなのだけれど。


結局、やり方は自分で試行錯誤するしかなくて。
きょうだいであっても、子どもの数だけ、子どもとの関係の築き方は違う。


子育てだって、基本的には対人関係なのだから、思い込みとか先入観とか捨てて、お互いどうしていきたいの??ってすり合わせていくしかないんだよなあと思う。

ここに、自分の心を縛る「固定観念」とか「子どもはこうあるべきだ・こうあってほしい」っていうものが強すぎると、子どもの心が見えないんだよなあ。

母になって7年、ようやく私も見えてきたこと。
 
子育ての仕方が育児書的に間違っていたって、ちゃんとホンネが伝えられる健全な親子でいられたら、それでいいんだよね。


と、ひとつ肩の力が抜けたコラムでした。
 


そうそう、小島さん現在ってパース在住なんですってね。
このコラム執筆当時、テレビ制作会社にお勤めだったパートナーが会社を辞めて、一家でパースに移り住み小島さんが月の大部分を日本で仕事をする、という生活なんだとか(ネット情報によると)。
 
最近は小島さん、どこかでコラムを書いているのかしら?
この新しい生活や、パートナーとの関係をどうとらえて言葉にしているのか、読んでみたいなと思っています。

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こんばんは!
NPO法人マドレボニータ 准認定ボールエクササイズ指導士 養成コース2期生の長野奈美です。

お盆・終戦記念日。

日本人にとってこの大事な日が重なったというのは、何だか不思議な感じがしますね。

お盆は、私にとってはこれまで特別な日ではなかったけど、
2年前、祖父が亡くなってからは何だか特別な日のように思えます。



祖父が亡くなる半年前、
それまでしっかり聞いたことがなかった戦争の話を聞く機会がありました。

わが子たちが理解できる年になるまで、元気でいて、ぜひその体験を話してほしかったのだけれど。

親族の中で唯一私だけが聞いた話を(一緒に聞いていた祖母も初めて聞く話だと)、しっかり書き留めておきたいと思います。

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祖父が生きていた最後の終戦記念日。水を向けたら、ひ孫たちを集めて戦争のお話を少ししてくれました。

少年兵へ志願
大正15年生まれの祖父は、旧制中学の仲間と(在学中だったか卒業後だったかははっきりせず)少年兵へ志願して、試験を受けたそうです。
一緒に受けた仲間のうち、唯一祖父だけが不合格。

理由は、生まれつき左脚が少し短く、少しだけ引きずって歩いていたからだろうと。

その後、1945年終戦の年に数え20歳となり、正規の徴兵制の試験を受け、5月に赤紙を受け取りました。「たしか5月17日だったような…」と古い記憶をさかのぼってくれました。

祖父は子どものころ、両親と死別しており、出征を「喜んでくれる人も悲しんでくれる人もだれもいなかった」と。

陸軍鉄道隊へ
期日に名古屋駅の集合場所に行き、指示されるように列車に乗り込み、配属されたのは千葉市にあった陸軍鉄道隊。
当時、房総半島の鉄道の運行は陸軍が担っていたそうです。

名古屋鉄道の運転士だった祖父は即戦力と見込まれての配属だったようだ、と。

戦場じゃない場所への配属も、駐屯地にはひっきりなしに敵機が襲来し、
機銃掃射から逃げ惑っていました。

タコ穴と呼ばれる大人の背丈ほどある穴を垂直に掘っておき、そこに飛び込むのだそうです。機銃掃射の角度は斜めなので、「頭にヘルメットかぶって垂直に地面に隠れておけば安全」だったのだとか。

列車を運行中に、敵機が襲来すると列車をトンネルの中に避難させていたと。
「幸い房総半島は山が多い地形でトンネルが多かった。列車が被害に遭うことはほとんどなかった」

千葉の部隊は東京で空襲があるとその応援に駆り出されていたそうです。
「わしは下っ端だったで行かんかったけれどもが、先輩たちは『悲惨だった』と言っていつも帰ってきよった」

配属から3カ月たらずでの終戦。
敗戦が決まると、あっという間に部隊は解散。
詰所にあるありったけの物資や食糧をみんなで山分けして、「とっとと名古屋へ帰ってきた」と、あっけない幕切れだったようです。

終戦とその後
復員後は、もとの名古屋鉄道の職場に戻って働きました。
でも職場や街では、戦時中の体験を口にする人はいなかったそうです。

同じ職場の人が復員してきても、みなあまり多くを聞かなかった、と。

戦後3年ほどで結婚。
家庭を築いて2男1女に恵まれました。

伊勢湾台風のときには、自身が助役をやっていた駅がもっとも被害が大きかった地域で九死に一生を得るような体験をしたり、新築すぐの家が床下浸水したり、苦労もあったようですが、私が見る限り平和な老後を過ごしていたようです。

戦時中の話をなぜ子どもにも孫にもしてこなかったのか、という質問には、
「わしより大変な思いをした人はいっぱいおる。わしの体験なんて普通のことだから、あえて話すことはしなかった」と。

身内が戦争で死んだわけでもない。
自身の徴兵も幸い国内で済んだ。

機銃掃射に狙われた体験も、ごくごく普通の世の中だった…


きょうの新聞にも、直接戦争を経験している人がどんどんいなくなっていく、という記事がありました。

祖父も2年前、この話を私に聞かせてくれたちょうど半年後、89歳で亡くなりました。
祖父のごくごく「普通の体験」も私たち孫からしてみれば、
少年兵の志願が不合格になったことや、国内への配属など祖父の幸運に恵まれた人生に感謝せずにはいられないのです。

この祖父の体験をわが子たちに伝えていきたいと思います。
子どもたちの記憶にある大好きな「おおじい」のお話は、きっと身に染みるのではないかな、と思ってます。


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