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■写真■ 大津市伊香立にて、2017年9月21日撮影。 ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ ←本館はこちらです(クリック) 彼岸花が美しく咲いている。 稲刈りも始まった。 彼岸中日、京都市内の大谷派寺院で勤まる秋季彼岸会に招かれて、法話をさせて頂いた。 宗祖親鸞が詠んだ、『正信念仏偈』の一節を引いて話させて頂く。 能発一念喜愛心 能(よ)く一念喜愛の心を発すれば 不断煩悩得涅槃 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり 凡聖逆謗斉廻入 凡聖逆謗 斉(ひと)しく廻入すれば 如衆水入海一味 衆水、海に入りて一味なるが如し 凡愚低下の身であっても、阿弥陀仏が何故救うのかといういわれを聞き、 そこに喜びの心を感じ信を得たならば、 煩悩を断たずして涅槃の境地に入ることが可能である。 凡夫も聖者も、重い罪を犯し仏法を誹る悪人であっても、 阿弥陀仏の本願に帰入すれば、 衆生という“水”が本願という“海”へ流入して一味になるようなものである…。 凡夫という“汚れた水”も、本願という広大な海に流れれば、 海に浄化されるが如く1つになることができる。 渋柿の渋がそのまま甘さかな 私がまだ駆け出しの僧侶だった頃、 明治大正生まれの御老僧たちからよく聞かされた俳句である。 甘い干し柿は、渋柿を干して作られる。 何も、人工的に甘く加工されるものではない。 皮をむいて、天日にさらしておくだけである。それは、我々が救われて行くプロセスと似ている。 煩悩という《渋》いっぱいの渋柿は、阿弥陀仏の慈悲という《天日》にさらされて、 やがて甘い干し柿という《仏》につくりかえられて行くのである。 そんな俳句を紹介して、拙き法話を閉じた次第である……。 |
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