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◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ 別館。 【ランダム更新】

2007 【月のことば】

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12月のことば。

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【再掲載】 滋賀県大津市堅田・琵琶湖大橋上にて、堅田の旧市街を望む。2005年12月撮影■

1年とはあっという間である・・・。
いつもこの季節を迎えると、自動的に出てくる言葉ではあるが・・・。

拙ブログの“別館”を開設してからも、
早いもので1月から始めて12月を数えることとなった。

■巻頭言■などと称して“本館”に、
その月毎に日常に浮かぶことどもを、少しばかり書き付けていたが、
ヤブログの字数制限の壁に阻まれ(笑)、
やむなくこんなコーナーを新設した次第であるが、
ひところ字数制限から解放されるとなると、いよいよ好き放題書くことはできるが、
今度はネタが詰まると文章が少ないことに苛立ちを覚えたりもする・・・。
誠に我ながら、人間の煩悩とは、自分の都合だけで感情が揺れ動くものである・・・。

今年も色んな出来事があった。
思い付くだけでも枚挙に暇がないけれども、
私は何よりも「格差社会」という言葉が脳裏から離れない。

一見この国は、戦乱もないし平和で人生を謳歌できているように見える。
しかしその一方で、「格差社会」という言葉が象徴するように、
見えない部分での歪みは目に余るものがある・・・。

私は一連の食品会社の消費期限偽装事件をして、
一様に「格差社会」が生んだ副産物だと考えている。
あのような“偽装”は絶対にバレる筈のない事件である。
なのに、世間に露呈してしまうというのは、
微妙に保たれていたバランスが、
音を立てて崩れ出していることに他ならないではないか・・・。

消費期限の偽装は、確かに由々しきことではあるけれども、
“勿体ない”という発想からすれば、使用できる食材、
食べて問題なさそうな物は再利用して然りである。

しかし、そうしたソフトな判断を食品衛生法というハードが立ちはだかり、
数字が合わなければ、即“違法”となって処分の対象となる。
これも“御法度”なるが故に致し方ないことではあるが、
私はこうした事件が発覚するメカニズムに、
非常に“社会の歪み”という、とても胡散臭いものを感ずるのである。

即ち、今時の企業の実体は正社員以上に、
アルバイト社員や契約社員、派遣社員といったポジションの人々が、
企業の屋台骨を支えているのである。
そうした人々は、正社員と変わらない仕事をこなしながらも、
正社員のような待遇は受けられない。
同じ仕事をしながら給与は半額レベルである。
会社に忠誠を誓う必要もない中で、
期限が来れば自動的に解雇となる。

安い給与で“使い捨て”の如く人を使うのは、
会社にすれば結構なことなのかも知れないが、
それが結局は会社の首を絞めているということに、
もっと経営者は心して再考すべきではあるまいか・・・。

大阪の老舗料亭の偽装事件で、何よりも頼りなく思ったのは、
経営者たちの記者会見である。
全て現場の人間たちが悪いような言い方をして、
経営者側は寝耳に水と言わんばかりの答弁をしていたが、
ああいうレベルの人々が日本の経済を支えているのか・・・と思うと、
この国は政治も経済も、全て組織指導力のない、
素人が牛耳っているような気がしてならない・・・。




いささか、愚痴ばかりになってしまった・・・。
僧侶の私が是く言うのは、厳にはばかるべきことなのであろうが、
宗教が決して必要とはされない現代社会に於いて、
ならば宗教に代わる人々の心を癒やし、
或いは、人々の心を律するツールは他にあるのだろうか・・・。

況や、仏教に代わる教えはあろうか・・・。
私はまだ、今のところ仏教以外には見つけられないでいる・・・。




師走の慌ただしき時節、くれぐれも御無理のないよう・・・。
素晴らしい新年をお迎え下さい♪♪

11月のことば。

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旧暦11月28日は、宗祖親鸞の祥月命日である。

真宗大谷派の本山である東本願寺では、
28日を親鸞の祥月命日として、11月21日より7日間にわたって、
親鸞の遺徳を偲んで、「御正忌(ごしょうき)報恩講」という法要が、
厳かに勤められるのである・・・。
そして、御満座の前日である11月27日の大逮夜(おおたいや)法要には、
時間が許す限り私は、毎年参詣するのを楽しみにしている。

東本願寺の御正忌大逮夜に勤まる「正信偈・和讃』」は、
同派が伝承する『正信偈』では最も長い旋律が付された、
「句濁(くゆり)」という作法で勤められるのだ・・・。
そんな大谷派の『正信偈』には、
真宗門徒の苦難の歴史が旋律の中に伝えられていると思って止まない。

それは、本願寺が東西に分立してからも、
西本願寺に対して東本願寺は、
石山本願寺の時代からの法儀を守ってきたからである。

以て、浄土真宗の教義では、先祖に対する追善回向と現世利益は説かれないが、
大谷派が伝える旋律を聴いていると、
この世で言葉すら交わしたことのない祖先の声が、
『正信偈』という言葉と旋律となって聞こえてくるように思えたりもする。
これを成仏たらしめた祖先の「還相回向(げんそうえこう)」と考えるは、
なかなか愚かなりしか・・・。

“稲刈り”のシーズンが終わり、晩秋の様相を呈する頃から、
いよいよ真宗門徒の間では、「報恩講」シーズンの到来となる。
近郷近在の寺院では、本山の御正忌の日程をずらせて、報恩講が勤められる。

こうして勤められる報恩講のことを、
「お引き上げ」とか「お取り越し」と呼び習わしている。
即ち、親鸞の祥月命日よりも早めに勤めるということを「お引き上げ」といい、
祥月命日よりも後に勤めることを「お取り越し」という訳である・・・。
その呼び方の相違は、地方によってまちまちなのであるが、
真宗門徒にとっては、総じて「報恩講」を意味する言葉なのである。

浄土真宗の門徒は全国津々浦々に広がっているが、
さし当たって農村地域に門徒が多い。
農繁期を越して農閑期に入る頃、
真宗門徒は心静かに親鸞の生涯を偲びつつ、
往生浄土を思慕するのである・・・。




何かにつけて慌ただしく多忙な現代社会、
僧侶もそうでない人も、もう少し自らの宗教について、
立ち止まって考えてみる時間をつくりたいものである・・・。





本当の“ゆとり”とは何を指すのだろう・・・。

10月のことば。

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【再掲載】 滋賀県近江八幡市長命寺にて、「湖国残照」。2004年秋撮影■



   五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に        なんまんだぶ
   兆載永劫(ちょうさいようごう)の代をなし    なんまんだぶ
   一念帰命の種をまき              なんまんだぶ
   自力雑行(ぞうぎょう)の草をとり        なんまんだぶ
   念念相続のみず流し              なんまんだぶ
   往生の秋になりぬれば             なんまんだぶ
   黄金の身とはうれしけれ            なんまんだぶ

   ああもったいなや  ありがたや

   なむあみだぶつ  なむあみだぶつ



実りの季節である・・・。
先月に入った頃から稲刈りが始まり、
いよいよ10月になれば、収穫の農作業もピークを迎える。

この田植え歌は、滋賀県野洲市木部にある、
真宗木辺派の本山錦織寺周辺の農家に伝わる歌である。
木辺の天安堂(現在の錦織寺)に親鸞が逗留した時に、
村人たちに教えた歌なのだという・・・。

錦織寺の寺伝では、親鸞は東国からの帰途、
京都とは目と鼻の先である木辺に3年間滞在し、
かねてより執筆していた主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を、
ここで完成させたとも伝えている。

それらの伝説の真偽の程はともかくとして、
この田植え歌には、浄土真宗の安心(あんじん・教えの肝要)が平易にして、
的確に歌い込まれていると思う・・・。
もっとも、和讃を詠むなど、
「声明業(しょうみょうごう)」にも通じていた親鸞であるから、
民衆を教化(きょうけ)するのに、
即興で歌を作ったという想像もできなくはない・・・。


阿弥陀仏は法蔵菩薩という菩薩だった頃、
5カルパ(五劫)という天文学的な長い時間を掛けて、
衆生済度の願いという苗代をしき、
「南無阿弥陀仏」の名号一つで救われる種をまいた。
自力作善や雑毒(ぞうどく)に染まった凡夫の善業という雑草を刈り取り、
念仏を相続させる法義の水を常に注ぎ、
いよいよ往生という実りの季節を迎える頃、
凡夫の我が身は信心を円満させて黄金色に輝いた・・・。

自然に頭(こうべ)が下がる稲穂の如く、
お陰様ともったいなく思うのである・・・。

信心は“信仰心”ではない。
如来から賜る、必ず救うとの心である。

小さな苗が、たわわに実った稲穂に成長するまで、
いろいろな苦難が待ち受けている。
自分一人で大きくなった訳ではない。

農家の苦悩を阿弥陀仏の苦悩になぞらえてみると、
いまだ成長過程のただ中ではあるが、
阿弥陀仏という“農家”のお陰で、いずれは“黄金の身”となるのである・・・。

9月のことば。

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8月は殆ど雨らしい雨も降らず、猛暑続きだった。
この暑さももうしばらく続くのかと思うとうんざりであるが、
夏から秋への移ろいというのは、何となくうら淋しいものを感ずるのである・・・。

先日のことである。
門徒さんの中には故人となった身内の月忌参りを、
寺へこられる家族がいくつかある。

その中の一軒が来られたので、私が月命日の読経を行った。
月忌参りに唱える聖教(しょうぎょう)は、親鸞が著した『正信偈・和讃』である。
いうなれば浄土真宗の最もポピュラーな“スタンダードナンバー”である。

拙ブログでもいつぞや記事にしたことと通底するのであるが、
故人の“追善供養”に経典を読誦(どくじゅ)することは、
日本仏教ではごく当たり前に行われることである。

経典を読誦することは絶大な功徳善根を積むことであるので、
おおよそどの経典も、
最後の部分である「流通分(るづうぶん)」には、
経典を読誦せよと奨めている。
その経典読誦の功徳が“冥界の死者”たちに至り届いて、
追善の供養になるという考え方が、
恐らくは月忌参りのメカニズムなのであろう。

しかし、浄土真宗では一切そうしたことは言及しない。
親鸞が『歎異抄(たんにしょう)』という語録の中で、
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」
と言及している所以である。
亡き両親の追善供養と思って念仏を称えたことなど、一度たりともない、
そのように親鸞は言い切っているのである。

そんな親鸞が著した『正信偈・和讃』を、
月忌参りの聖教として用いていることは、
現象面では全く矛盾していることなのである。

あくまで仏恩報謝の意味を込めて『正信偈・和讃』を月忌参りに用いているとは言っても、
それは僧侶側の理論であって、依頼主にはなかなかその真意は届かないものである・・・。

ふとそんな思いがよぎったので、
この日、寺へ来られた門徒さんに、
せっかく毎月寺へ足を運んで下さっているのだから・・・と思い、
本堂の余間(よま・内陣横のスペース)に安置している七高僧の絵像を指して、
今、皆さんと読んだ聖教は真宗の教えがインドから中国を経て、
日本へと届けられたことを親鸞聖人が顕彰されているのだ・・・と、
大体そういう意味の話を少しだけしておいた。

その日のその時間、寺の本堂はその家族のためだけに開かれているのだから、
この機会を無駄にはして欲しくないと、私なりに愚案した次第である・・・。

くれぐれも、亡き人を偲ぶことは大切なことである。
しかし、その亡き人を縁として今を生きる我々が仏法を聞かなければ、
その亡き人の死は全く以て無駄になってしまうのである・・・。



【お断り・・・】
本日より9月上旬まで記事の更新をお休みさせて頂きます。
また、9月10日前後から再開させて頂きたく、
どうぞよろしく御理解賜りますよう御願い申し上げますm(_ _)m。

しばし、遅まきながらの夏休みをば・・・(^^)♪

拙ブログ庵主 Ren'oh 稽首 


8月のことば。

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暑中御見舞申し上げます・・・m(_ _)m。


遅い梅雨明け宣言が出たかと思うと、
長期予報も若干訂正されて、今夏はそれほど猛暑ではないという・・・。
とはいわれつつも、やはり体温に近い気温が続いている。

真宗僧侶の私がこう言うのもどうかとは思うが、
8月は遠い先祖と再会する季節なのだろう・・・。

ことに京都での盂蘭盆会は、
東山の六波羅蜜寺周辺で繰り広げられる「六道さん」の迎え鐘と迎え火に始まり、
「五山送り火」に終わる。

日本の仏教はインドから中央アジア・中国を経て、
いろんな要素を吸収しながら日本に伝えられて、
ここで、より日本人の民族性にマッチした宗教として昇華されていった。
その典型的な宗教儀礼が、盂蘭盆会(うらぼんえ)だと私は考えている。

そもそも、盂蘭盆会とは『盂蘭盆経』という経典の所説によって行われる法会であるが、
「盂蘭盆」とはサンスクリット語の“ullambana(ウランバナ)”の音写語ともいわれ、
漢訳では「倒懸(とうけん)」と訳される。
即ち、“逆さ吊り”という意味で、例えようのない苦悩を意味する。

件(くだん)の経典の所説によれば、
釈尊の十大弟子の一人、目連尊者(もくれんそんじゃ)の母親は我が子可愛さの余り、
他の子供に慈悲の心を注がなかったために餓鬼道に墜ちていた。

目連尊者は実母のそんな姿を辛く思い、釈尊に相談したところ、
雨季の期間中に出家者たちが集まる夏安居(げあんご)の最終日である7月15日に、
僧供養(出家者に飲食などの施しをすること)をしたならば、
その功徳によって母親は餓鬼道から救われるとのアドバイスを受け、
目連尊者は早速行動に移したところ、母親は餓鬼道から救われたという・・・。

現在行われている盂蘭盆会は、そうした故事に因んだものであるが、
それが転じて、祖先への追善供養となり、
或いは、陰暦7月15日を中国の暦では「中元」といい、
暦の名称と習合して日頃世話になっている人々に贈り物(布施)をする習慣を、
「御中元」と呼ぶようになったといわれている。

そんな日本人の民族性に多大な影響を及ぼした『盂蘭盆経』ではあるが、
漢訳本は存在するものの、サンスクリット語の原典もなければ、チベット語訳も存在しない。
中国撰述の「偽経(ぎきょう)」と呼ばれる所以でもある・・・。

果たして、経題である「盂蘭盆」という言葉に関しても、
サンスクリット語の音写ではなくて、
古代イラン語の“urvan(ウルヴァン)”の音写であるという学説も出されている。
即ち、“霊魂”という意味の言葉である。

考えてみれば、京都で行われる「迎え火」に始まって「五山送り火」という、
“火”にまつわる行事もまた、古代イランの拝火教を想像させるものがある・・・。

何やら、思うままに「盂蘭盆」について書き綴ってみたが、
日本仏教各宗派の教学はひとまず置くも、
この私自身でさえ“盆”という言葉に抱くイメージといえば、
この世で出会ったことのない祖父母や先祖を想起するのである・・・。

以て、そんな祖父母たちも阿弥陀仏の本願力回向によって、
往生浄土を果たし、いろいろな仏事を通して、
私を教化する諸仏の仲間たらしめているのである・・・。

我が宗門で「盂蘭盆会」のことを、
特に「歓喜会(かんぎえ)」と呼ぶ所以か・・・。


【「特集・お盆」 8月に想う・・・】










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