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本館はこちらです… クリック→ ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ この身は今はとしきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、 浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。 あなかしこ、あなかしこ。 年々、毎日の早きことを実感している。 気が付けば今年も極まりつつある。 なんと1年の早いことよ…と、感慨に耽るいとまもなく、毎日が過ぎて行く…。 ここに挙げた一節は、宗祖親鸞が「有阿弥陀仏」なる念仏聖に寄せた手紙の結文である。 「有阿弥陀仏」は、親鸞に対して念仏往生に関する疑義について訊ねようだ。 その疑義に対する親鸞の返事である。 念仏申して浄土へ往生すると信じている人は、 浄土の外れである辺地へしか往生できないと解く者があったのであろう、 「有阿弥陀仏」はそういう説に翻弄されたのかも知れない。 親鸞は仏の名を称える者を極楽浄土へ迎え入れようとお誓い下さっているのだから、 そうした疑義を立てる人のことを理解できない…と言っている。 何よりも、信心がなければ往生はできないと諭す。 親鸞は念仏して往生できるのだと信じるならば、浄土往生は疑いないという。 そして、親鸞は手紙の結びに、 自分はすっかり歳を重ねてしまった今、 定めて私はあなたよりも先に往生するでしょうから、 浄土にて必ず必ず、あなたがおいでになるのをお待ちしております。 謹言 このようにしたためて、筆を置いている。 齢を重ねるということはどういうことなのか…。 煩悩の旧里は極めて離れ難い我が身であるが(決して謙遜して言っている訳ではない)、 今まで生きてきた年数をこれから先も生きたならば、 その先のことをあれこれと想像を巡らすが、全く想像が付かない。 我が身辺で老齢の人々と日常的に出会う訳であるが、 それはその人その人によって違いがあるのだから、 自身に置き換えて考えることなど、やはりナンセンスなことなのかも知れない。 それにしても、今この一節を読み返してみると、親鸞の慈愛に満ちた心持ちが見て取れる。 この世には色々な執着が自身に取り巻いているものの、 親鸞は先に往って待っていると「有阿弥陀仏」に告げている。 何か、この先が明るく感じられるようになる言葉だと思う…。 年極まりつつある師走、ふと思い出してみた…。 |
2010 【月のことば】
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本館はこちらです… クリック→ ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ 真宗大谷派(東本願寺)の第23世法主である大谷光演は、 俳号を「句仏」と号して多くの俳句を詠んだことで知られる。 世人には親しみを込めて、“句仏上人”と呼ばれている。 最もよく知られる句といえば、 「勿体なや 祖師は紙衣(かみこ)の九十年」 であろう。 宗祖親鸞のことを詠んだ句で、 祖師親鸞は粗末な柿渋を塗った紙の衣を着ての、 苦労の中に九十年の生涯を全うした…という意味合いの俳句である。 或いは、こういう俳句がある。 「口あいて 落ち花ながむる子は仏」 秋の風が吹く中、ひらひらと舞う花びらを幼子は無心に眺めている…。 我が子のことを詠んだとも伝えられる句であるが、 無心な幼児の姿というのは、煩悩に苛まれている訳でもなく“無邪気”そのものである。 そんな子供心を、穢れなき仏の姿に重ね合わせた句である。 思えば、1歳にも満たないような子どもがする悪戯に悪意はない。 3歳頃から自我に目覚めるそうだが、至って邪心は見当たらない。 私の幼少時の記憶は、2歳を過ぎた頃から断片的にあるのだが、 私はよく母親の目を盗んでは家を飛び出していた。 目を盗んで…というと、悪意が内在してしまいそうだが、 便宜上そう表現しただけで、当時の私には母親を困らせてやろうとか、 そんなよこしまな心根があろう道理もない。 ただ、出たいままに飛び出しただけのことである。 私は西本願寺前にある寓居から、凡そ2歳そこそこの子どもにしてはかなり遠い、 京都駅辺りまで出掛けて行っていた。 私が“出奔”するたびに母親は七条堀川の交番所に捜索願を出し、 警察官は決まっていつも私を京都駅前の市電のりば辺りで確保してくれた。 私にしてみれば、ひとしきり出入りする市電を堪能し、 「そろそろ帰ろうか…」と考えたかどうかはともかくとして、 市電を見飽きた頃合いにちょうど警察官に捕まる…という具合なのだった。 そして警察官は自転車の荷台に私を乗せ、西本願寺前の寓居へと送り届けてくれるのだった。 後ろから警察官の腰を掴みながら乗っていた私に「勝手に出て行ったらあかんやろ…」と、 前に乗る警察官から優しく言われたのを何となく記憶している。 ところが帰宅後、何故か母親にこっぴどく叱られたという記憶はない。 今も母親はあの頃のことを思い出して語るのであるが、 とにかく生きた心地がしなかったというのである。 寓居の玄関は堀川通に面していて、自動車がひっきりなしに走っている。 救急車のサイレンを耳にすると心臓が凍り付いたものだ…と、いまだに言う。 私はしょっちゅう泣きわめくような手のかかる子どもではなかったそうだが、 唯一、奇妙なこの“放浪癖”に悩まされたのだという。 結局、私は兄弟がないこともあって、2歳半で幼稚園に入れられることとなった。 私が入った幼稚園は祖母の実家が経営していたこともあって、何かと融通が利いた訳である。 母親と過ごしていた2歳半までの私は、 それなりに母親を悩ませてはいたが、“落ち葉ながむる子は仏”とばかりに、 邪心もなくただ心の赴くままに生きていた。 思うに、煩悩というのはまさしく“垢”と同じである。 長年生きている内に付着するものなのかも知れない…。 |
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本館はこちらです… クリック→ ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ 今夏の酷暑は9月までずれ込み、結局、秋の清涼感は彼岸を待たねばならなかった。 そして彼岸中日を境に急転直下、一気に秋がやってきた。 長期予報では、10月になっても夏物の衣類をしまい込むのはまだ早い…とは言っていたが、 朝夕が急に寒くなった感が否めないでいる。 いよいよ秋が深まろうとする昨今である。 ここ数日、雨が降ったり止んだりが続いているが、 先月までの暑さに辟易したせいか、全く苦にならない。 この、どんよりとした空をして、却って今まで感じたことのない“快感”に浸っている。 かれこれ5年前の10月、私は西陣から山科の南へと寓居を移した。 あの年の秋も彼岸が明けた頃から、雨が降ったり止んだりが続いていたような気がする。 西陣での生活は私にとって住環境など全てにおいて快適なのだったが、 “一身上の都合”(…ということにしておこう)で山科の椥辻辺りのマンションに引っ越した。 両親が住まう実家に近い浜大津辺りの物件も探したりしたが、 地下鉄の駅に近かった利便性からそこに落ち着いた。 山科といえば、幼稚園から大学4回生に上がる春までを駅前に過ごした土地だったから、 大変親しみがあったのは言うまでもないが、椥辻という場所そのものは全く初めてなのだった。 だから何となく気分的に落ち着かない日暮らしが、しばらく続いていたりした。 人間が居を移すということは、それなりに決断のいることなのだろうが、 5年前の秋を思い出す時、当時の言葉にならない気持ちが色々とリアリティをもって去来する。 いや…、あの年の秋ほど“生きる”という行為そのものに疲労感を覚えたことはなかった。 生きていると、時として想像を遙かに絶する出来事に遭遇することがある。 それは良しにつけ悪しきにつけ、事情はまちまちなのだが、 私の場合、あの時ほど“生死(しょうじ)一如”ということを意識したことはない…。 爾来、私の脳裏にはその意識が今も連綿と残存し続けている。 「逆縁」という仏教語がある。 全く予期しなかった出来事をして、それが因となって縁が深まることをいう。 親鸞がもし流罪になっていなかったら、 今頃、北陸や関東に浄土真宗は根付かなかったことは想像に難くない。 それが「逆縁」というものである。 どんよりとした秋の雲を眺めながら、思いつくままに書き付けた…。 |
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去る8月30・31の両日、地元の本山別院を会場に、僧侶と門徒を対象とした講習会が行われた。 今回の御講師は、宗門立大学と仏教学院で教鞭を執る人で、仏教考古学を専攻されている。 年に数回、旧ソ連タジキスタンの仏教遺跡の発掘調査に出張されていて、 去る8月9日まで1ヶ月にわたる調査を終えて帰国されたばかりだという。 真っ黒に日焼けした顔は、炎天下の砂漠地帯での調査だったことを容易に想像でき、 そんな御講師が法衣を着ておられる姿がなんとも印象的だった…。 御講師は大学の先輩でもあり、恩師の筋も私と同じである。 講義の合間、控え室にお邪魔して、私が専攻した分野のその後の進展をお聞きするのが楽しかった。 そして今、御講師のライフワークでもある仏教遺跡発掘をして、 我々の信仰の拠りどころである、阿弥陀如来の起源を明らかにしょうとされている。 古代イラン地域から中央アジアにかけて流布した、ゾロアスター教のミトラ神こそが、 阿弥陀如来という仏格の起源であるという仮説を立てておられる。 現地で発掘されたという、 仏教とゾロアスター教が習合した小さな神像のレプリカも持参されての講義は、 久しく学生時代に戻って、大学で講義を聴いているようでワクワクしたものである…。 御講師より配布されたレジュメには、「歴史上の事実と信仰上の真実」と記されてあった。 それが講義中一貫するテーマであるが、何よりも阿弥陀如来の起源を明らかにするというのは、 ある意味において、信仰を揺るがせることになりかねない。 例えば、“実は釈尊とイエス・キリストは同体なのだ…”と言われて、 それをそのま受け容れられる信者など、そうそういないと思う。 阿弥陀如来の起源を明らかにするというのは、まさしくそういう部分に踏み込むことである。 しかし、御講師は宗祖・親鸞が著した『教行信証』証巻、 「十地の階次といふは、これ釈迦如来、閻浮提(えんぶだい)にして一つの応化道ならくのみと。 他方の浄土は、なんぞかならずしもかくのごとくせん。 五種の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。 もし菩薩かならず一地より一地に至りて、超越の理なしといはば、 いまだあへて詳らかならざるなり。」 との一節を引き、 釈尊が現実世界で説かれた一つの具体例にすぎない。 他の世界にあっては必ずしも同じではない(事実の多様性と真実の一貫性)と結ばれた。 御講師の遺跡発掘もまた深い信仰に裏打ちされたものであり、 こと「仏教考古学」というジャンルをして、 自身の信仰のありようを確認する一つの手段なのかも知れない。 夏から秋へとシフトしつつある昨今であるが、まだまだ残暑は厳しいようである。 講義を聴きながらにじみ出る汗をぬぐいつつ、 御講師は遠く中央アジアの砂漠地帯で、 親鸞と対峙する至福の時間を享受されているのかも知れないと、とても羨ましく思った…。 |
【リンク特集 ・ 盂蘭盆の季節 ―8月に想う…―】戦争◆祖父・文徳院釋大圓法師。−戦後60年に想う−↑↑ (赴任地・中国広東で客死した、忘れまじある真宗僧侶の記憶…) ◆政教分離、ヤスクニ、追悼施設…。 ◆ヤスクニをめぐる夏。 ◆ヤスクニをめぐる夏。−補遺− ◆『平和の発見』。 【8月のことば】 今夏の暑さほど尋常ならざるものはない…。 暦通りの梅雨明けが発表されるや、当地三河は連日酷暑が続いている。 日中の気温は、37℃を下がることは皆無に等しい。 日が落ちてようやく30℃前後に落ち着くという毎日が続いている。 この暑さは最早、私の思考回路を停止させ、全てに於いてモチベーションを下げている。 何をするにしても、通常の倍の精神力を導入しないと腰が上がらない。 全く困ったものである。 ところで我が宗門では、毎年7月17日から31日までの2週間、 宗門立大学の本館講堂を会所(えしょ)に、「夏安居(げあんご)」という行事が開催される。 「学階(がっかい)」という、所謂、学僧に与えられる資格を有する僧侶は、 2週間にわたって、毎日早朝から午前中を中心に、 「夏安居」に参加して教学研鑽を積むというものである。 「安居」とは本来、インドにおける雨季の間、 僧侶は野外に出ることなく専ら精舎(しょうじゃ・寺院のこと)にとどまり、 説法を聞いて教えの研鑽に励むことをいう。 これは、雨季になると小さな虫などの生物が活動をし始めるので、 うっかり外出すると小さな虫たちを足で踏みつぶしてしまい、殺生に繋がるということから、 この時期は外出を控えて仏法の研鑽に努めるというのだ。 8月の「盂蘭盆会」も、その意義を糺せば、 僧侶が盆参りに奔走するのは至って主客転倒な話なのであり、 仏弟子・目連尊者の母親が餓鬼道に堕ちたことをして、 旧暦7月15日の安居の最終日に集う出家者たちに飲食(おんじき)の供養を施し、 その功徳によって母親が餓鬼道から解脱したという故事に因むものである。 我が宗門で行われる「夏安居」でも「安居大衆供養」という名目で、 本山出入りの法衣店なんかが協賛して扇子を配ったりタオルをくれたりと、 期間中は参加者に対して色んなグッズを“供養”してくれる。 「夏安居」に参加しなくなって、かれこれ10年近く経過するが、 2週間という長きにわたる日数を学問にだけ没頭できるというのは、 ある意味において大変幸せなことなのだと思う。 2週間も寺を空けられない…、 もし、宗門が全僧侶に招集をかけたら、僧侶の大半からはそんな苦言が返ってくることだろう。 今在る私とて、例外ではない。 しかし…である。 僧侶には本来、世俗で言うところの“学歴”など不問なのである。 僧籍に入った時点で自らが頂く教えを、 一生涯をかけて学ばねばならない義務が生ずると思うのである。 檀家参りで頂戴する“御布施”なり“御法礼”というのは、 檀家の人々からすれば「僧供養」の一環であっても、 我々僧侶の側にあっては、 それは「学仏大悲心」たる学びと研鑽に対する対価と心得ねばならないと思う…。 ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ ←本館はこちらです(クリック)
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