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◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆ 別館。 【ランダム更新】

2011 【月のことば】

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12月のことば。

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■写真■ 琵琶湖畔の雪…。大津市堅田の琵琶湖大橋付近にて、2005年12月18日撮影。


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11月に入った頃はまだ暖かな日があったりして、異常気象を思わせたが、
中頃から一気に寒くなってすっかり冬の様相を呈するようになった。

また今年も極まりつつある。
なんと月日の移ろいの早いことよ…。

さてしも、まだまだ先かと思っていた我が宗祖・親鸞の七百五十回大遠忌も、
4月から始まってより、残すところ1月の「大遠忌法要御正当」を残すのみとなった。

思えばかれこれ13年前の平成10(1998)年は、
本願寺第8世・蓮如の五百回遠忌法要の年だった。
30歳を出たばかりの私は、将来を思いあぐねながら、
3月から11月まで100日間にわたって勤められた遠忌法要の雑役に従事する、
所謂、アルバイトで時間を過ごしていたのだった。

主に全国津々浦々からやって来る団体参拝客を乗せた、
貸切バスの入れ込みと交通整理をやっていた。
夏の盛りなんかはポロシャツでの姿だったので、誰がどう見ても僧侶とは思われなかった。

そうかと思えば、京都市の東に位置する、蓮如の廟所がある山科別院へも出張し、
やはりバスの交通整理をさせられた。
そこでは別院職員の代わりに蓮如の廟所に関する解説も請け負い、
蓮如の往生からこの地へ埋葬された経緯なんかを、
ガイドよろしく団体の前で講釈を垂れたものである。

或いは…、期間中本山で厳修される法要にも何度か出勤したものだ。
さすがに法要出勤する時は、装束をただして臨む訳だから、
「あ、自分は坊主なのだった…」と、自身のありようを実感したりしたものである…。

多分、この度の宗祖七百五十回大遠忌も、多くの臨時勤務員を雇用して、
全国から訪れる門徒衆の対応をしていることと思う。

そう…あの時の私は、自身の13年後など想像も付かなかった。
いろいろありすぎての今、蓮如の遠忌法要も追憶の彼方にある出来事である。

そんな蓮如は弟子たちに対して、

  「仏法に明日はあるまじき候」

と誡めている。

つまり、仏法の理を明日に聞こうと思っても、
必ず明日生きている保障を誰がしてくれようか。
今、思い立ったこの瞬間に聞かねばならないのが仏法だ…と、蓮如は誡めるのである。

しかし頭では理解していても、そのことを念頭に置いて仏法を聞くことは至難である。
つい今夜は遅いし明日にしよう…と、
低いところへ水が流れていくが如き思考に駆られるのである。

今年も残り僅かとなった。
明日はないと心得て、残された2011年を過ごしていきたいものである…。


11月のことば。

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■写真■ 晩秋の色に染まる洛北の山々…。京都市上京区堀川通今出川付近にて、2008年11月20日撮影。


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11月ともなれば、今年の先もそろそろ見えてきた感がある。
しかし朝夕は寒いくらいであるにもかかわらず、日中はともすれば汗ばむような陽気だったりする。
全くおかしな気候である…。



最近、辻井伸行が奏でるピアノ曲を聴いた。
もっともコンサートとかへ行って聴いたのではなく、家人が図書館で借りてきたCDでである。

彼は生まれた時から視力に自由がなかったが、素晴らしい音感に恵まれていたようだ。
両親は我が子が持ちうるその才能をいち早く見出し、ピアノを与えたのである。

彼がピアノを通じて紡ぎ出す音は、とても繊細である。
例えば私が好んで聴く、フランスのパスカル・ロジェが奏でる音色は、所謂“優美”である。

同じ楽曲でも、弾く人によってそれは全く趣が異なる。
それは弾く人の人となりが自然に表現されるからなのだろう。

今、“優美”を引き合いに出しているが、
“繊細”は時として“優美”を超えると思わせるのが辻井が奏でる音色である。
彼の線の細さが、見事に楽曲となって表れている好例だと思った。

それにしても、音楽とは不思議な芸術だと思う。
絵画や彫刻にはない不思議さがある。
それは多分、形のない可視的ではない芸術だからなのだろう。

奏でられている時間だけが、そこに立ち会う者と共有することが許される。
そう言う意味では、予め録音されたものは邪道なのかも知れない…。


同じ楽譜でも、それを表現する人によって全く趣がことなる。
そして何よりも、奏でる人の傍らに立ち会うべきものが音楽なのだろう。


これは法要儀式においても言及できることである。
私の手許には師僧の声を音源とする、
梵唄声明(ぼんばいしょうみょう)の音声データやCDが沢山ある。
それは私にとっては記録でもあるし、自らが自習するためのツールである。

やはり我が耳を以て、師僧の声を記憶するのが第一義である。
「面授口訣(めんじゅくけつ)」といわれる所以である。



更けゆく秋、久々に音楽の生演奏を聴きたくなった今日この頃である…。



10月のことば。

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■写真■ 秋の雲、すがすがしい夕景である…。 滋賀県高島市白鬚にて、2006年11月21日撮影。


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台風15号通過のあと、とても過ごしやすい気候となった。
殊更に暑がりの私としては、大変有難いばかりである…。

我が宗門において梵唄声明(ぼんばいしょうみょう)を学ぶ者ならば、
誰もが知っていよう有名な和讃がある。


  清風宝樹をふくときは
     いつつの音声いだしつつ
     宮商和して自然なり
     清浄勲を礼すべし


親鸞が著した『浄土和讃』の中にある1首であるが、私もこの和讃を口ずさむのが好きである。
この和讃は浄土の様子を褒め称えたものであるが、
親鸞の声明に対する思いの一端をうかがい知れるような気がする。


     いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
     宮(きゅう)商(しょう)和して自然(じねん)なり


和楽の基本的な音階は5音階で、
“ドレミ”に相当する音名を、
低い音の巡に「宮」「商」「角(かく)」「徴(ち)」「羽(う)」と表記していく。

どれもが異質の音であるのは言うまでもない。
それ故に、迷いの世界たる娑婆で奏でられると、これは全く不協和音が生ずるばかりである。
しかし異なる音同士が、共に調和していく世界が浄土であるという。

日常生活の中では、とかく相容れない事柄にぶつかることばかりである。
人間関係は言うに及ばず、自身の中で到底受け容れ難いことに直面するものだ。
まさしく「四苦八苦」のただ中に身を置いているのが、凡夫たる我が身である。

全て自身の心から起こる問題なのであろうが、どうしても原因を外に求めてしまう。
そうすることによって、自身の心的負担を軽減しているのだと思われるが、
仏教はあくまで自身の実相を見据えることを説く。

そんな中で、浄土教は阿弥陀仏という「慈悲の覚体」に出会うことによって、
自身の実相が見せられると説く。
自力で見据えることができずとも、
阿弥陀仏の智恵光によって自身のありのままの姿が照らし出されるのである。

そんな我々は、浄土へ参ることができれば、
娑婆ではどんなに敵対していた間柄であったとしても、
煩悩の闇は晴れて、“和すること”ができるのだという。
浄土が浄らかなる仏国土たる所以がそこにある。





秋の涼風に思いを馳せてみる…。


9月のことば。

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■写真■ 彼岸の頃が過ぎても咲いていた昨秋の彼岸花。京都市左京区大原にて、2010年10月5日撮影。


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年々夏は私にとってその猛暑ぶりから辛い季節なのだが、
そんな思いとは裏腹に行く夏には言い知れぬうら淋しさを感じたりする。

かれこれ20年ほど前にリリースされた、
今となっては懐メロの域に達している稲垣潤一の『Self Portrait』というアルバムの中に、
「夏が消えてゆく」というタイトルの曲がある。

私はこの曲の歌詞が大好きで、
暑い季節になるとマイカーのCDカセットにこのアルバムを必ず入れて、
この曲を聴いている。


    夏が消えてゆく
    はかないものだね 
    海岸沿いの海の家も
    今は砂浜

    君はもういない
    愛は悲しいね
    渋滞のない緩いカーブ
    バスが曲がった

    時の流れ
    止められないと
    知ってたのに
    ずっとそばに いられるような
    気がしてた……

   

  ……カーレディオからは
    台風のニュース
    雨が降るまで
    僕はここで 夏を見送ろう



そんな歌詞の曲なのだが、私は行く夏の切なさが絶妙に歌われていて、
この曲を聴いていると、幾重にも過ぎ去った夏のことを思い出す。
懐かしい思い出は、夏に集中している。
この歌詞はそんなゆく夏の常ならぬ状況が、巧みに詠み込まれている。



日が暮れれば、秋の虫が鳴き始めている。
とても心地よく聞こえてくる。

でもその心地よさというのは、単なる涼しげなだけの快感ではないような気がする。
虫の鳴き声に情緒を感じるのは、日本人特有の発想なのだという。
日本人はこうした自然の移ろいに美意識を感じてきた。
秋は寒い季節に移行していく静寂感がある。
うら淋しさに美を感ずるのである。

それはまさしく、日本文化の深層に息づく「無常観」ではないかと思う。
物事が移り変わっていくことの切なさは、単なる切なさだけに終始しない。
受け止める心の何処かに、言葉にならない心地よさがあるのではなかろうか…。

いにしえの日本人は、「無常観」に全ての感情や感覚を託して来たのではないだろうか。
悲喜交々の一切が、「無常観」という言葉なり概念に包含されていく。

秋の涼しさに安堵感を覚える一方、去りゆく夏に一抹の後ろ髪引かれる思いがよぎる。
我ながら人間の感情とは複雑なものである。
その複雑さこそが人間の人間たる所以である。

心もまた、移ろいゆくものである。
その移ろいは時として、矛盾に満ちていたりするものだ。

何事も白黒をはっきりつけることを好まない、
日本人的発想を季節の変わり目に感じたりする秋のはじめである…。


8月のことば。

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■写真■ 二條大橋より鴨川の眺望。2009年8月21日撮影。

暑中御見舞申し上げます・・・m(_ _)m。

【8月のことば】 は、「リンク特集」の下に表示しております…♪♪

【リンク特集 ・ 盂蘭盆の季節 ―8月に想う…―】

戦争
◆祖父・文徳院釋大圓法師。−戦後60年に想う−
↑↑ (赴任地・中国広東で客死した、忘れまじある真宗僧侶の記憶…)
◆政教分離、ヤスクニ、追悼施設…。
◆ヤスクニをめぐる夏。
◆ヤスクニをめぐる夏。−補遺−
◆『平和の発見』。




【8月のことば】
私にとって8月は炎暑に加えて、1年の大半が過ぎていったことを実感させる時節である。
恐らく1年の内で、最も色んな思い出に彩られているのが8月なのだと思う。
学生時代は夏休みに色んな所へ一人旅をした。

幼少からの変わらぬ夏の風物詩は、何よりも琵琶湖の近江舞子での思い出である。
近江舞子の浜辺にたたずむと、過去の記憶の悲喜交々が思い出される。

悲喜交々…、
今在る私にとって、むしろ8月を表現する場合、一番適切な言葉かも知れない。

拙ブログを立ち上げて間もない頃の8月、
私は人生において取り返しのつかない出来事に遭遇した。
これを身から出た錆と言ってしまえば、それまでのことである。
しかしあの時ほど、やり場のない悔しさと深い空しさに苛まれたことはない。
それに起因する抑鬱状態は、1年以上続いた。
光のない、漆黒の闇の中にいるような感覚の連続だった。

それは本当にある日突然ともいうべき離婚なのだった。
あの瞬間、繕いようのない人生における汚点だと思った。

自身を正常に保つことに苦慮した。
人が突然、この場から消えてなくなりたいと思う感覚はこれか…と感じた。

離婚は、お互いに言い分がある。
しかしそれを主張し出すと、出口のない泥沼にはまると思った。
私は沈黙を守った。
結局、離婚届にも印鑑を捺した。

あの前後の記憶は今、時系列がとても曖昧になっている。
多分自らの脳が、忌まわしい記憶を消し去ろうとしている作用なのかも知れない。
時間を追ってあの前後のことを思い出そうとすると、後頭部を殴られたような感覚に陥る。
時系列を並べることができないでいる。

そんな抑鬱状態の中で、自身に言い聞かせたことがあった。
それは法然が何故出家をしたか…ということについてであった。
法然の生家である漆間氏は、敵対する勢力の夜襲によって滅ぼされた。
父・漆間時国は、幼少の我が子・法然に遺言する。

「敵を怨むな、怨みは連鎖する。だからお前は出家して父母の菩提を弔うべし」

相手を怨むことは容易いし、その方が楽なのである。
自身のやり場のない思いを、相手を怨むことによって感情のはけ口を見出せるからだ。

私が沈黙を守ったのは、離婚を回避させたい思いもあったのは確かなことだったが、
我が身は腐り果てた放下僧であっても、
法然を師匠と仰ぐ親鸞の末弟であるという自負があったからである。
もし、私がただ相手を怨むのであれば、それは法然の出家に泥を塗ることに他ならない…、
ただそれだけを考え貫いたのだった。
それは私にとって、念仏門の僧籍に在る者としての、最後の心の砦だったのだと思う。

私は二人の間に“辛い結末”を導く選択しかできなかった元妻のことを、
とても不憫だと思った。
本当に“不憫”という言葉以外、適当な言葉が見つからない…。

騒動の渦中にあったさなか、私は両親と五山送り火を見に行った。
心は落ち着かなかったが、送り火を眺めれば幾分感情は抑制できるかも知れない…と思った。
父親とともに、賀茂川の河川敷から如意ヶ嶽の頂きにカメラのレンズを向けた。
とてもいいシーンが撮影できたと思っている。

父親は今でも言う。

「ようあんな状況で、淡々と写真を撮り続けるお前の精神力には驚いた」

言わずもがな、褒め言葉である。
送り火にレンズを向ける私の心は、ずたずたに切り裂かれていたのは言うまでもない。
レンズを通して燃えさかる送り火を見ていると、それでも無心にはなれたのだった。

8月が巡ってくると、過去の楽しい思い出とともに、そんな辛い記憶も去来する。
それが生きているということなのだろう。
ずっと言わずにいたことだったが、ようやく普通に話せるようになった…。



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