◆京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」。◆

心に移りゆくよしなしごと、仏教・親鸞・梵唄聲明・我が故郷京都…、拙き日暮らしに写真を添えて綴る“公開備忘録”

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無縁。

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最近、テレビや新聞で“無縁”という言葉に出会う。
特に「無縁社会」という言葉が巷を駈け巡っているように思える。

そもそも「無縁」という言葉は、紛れもない仏教語である。
即ち、「仏法を聞く縁のない者」という意味で「無縁」という言葉が用いられたが、
それが転じて、「無縁仏」や「無縁墓」といった、
後見が存在しない亡者に関する意味へと変わっていった。

それが今、社会を席巻する言葉となっている。
孤独死、独居老人、社会に順応できない若者…それが「無縁」という社会の実相なのか。

或いは、他人に対する過剰な“無関心”が、そうした現実を生んでいるのかも知れない。
天下の悪法と思しき「個人情報保護法」も、
結果として国家が「無縁社会」の蔓延に拍車をかけているのではないか…。
果たして、こういう社会状況にあって、誰しもが「無縁社会」の中に入り込んでもおかしくない。

名古屋には独居老人の生活をサポートするNPO法人があり、
全国から反響が寄せられているそうで、中にはちゃんと親族が存在する人ですら、
サポートを受けるべく名前を登録しているというのだ。

親子や夫婦関係ならば、まだお互いを見守ることも可能であろう。
(もっとも、そんな間柄であっても希薄な状況は否めないが…)
ところが、親戚関係になってくると、余程の利害関係でもない限りは、最早他人同然のようだ。

拙寺へ葬儀の依頼に来る家庭にも、そういうケースがままある。
荼毘に付した後の遺骨の引き取り手がないとか、
親族がいるにも関わらず、後見がないという理由で墓地を撤去するなど…である。

結局は人間関係を保つのが煩わしく思う時、それが「無縁社会」の出発点なのかも知れない。



ところで、「無縁社会」という言葉の対極が「ムラ社会」であろう。
こと、私が浄土真宗のお育てに与った“真宗地帯”は、典型的な「ムラ社会」である。

稲刈りが一段落すると「御取り越し」という、
在家の仏壇で宗祖親鸞の忌日(報恩講)を勤める習慣が、ほぼ全国の真宗の多い農村では存在する。

滋賀県辺りなどは、いついつ誰それの家で報恩講が勤まるというと、
向こう三軒両隣は言うに及ばず、通り沿いの半径50メートル圏内の家々から人が集まる。
八畳二間ぶち抜きの仏間は、それこそご近所さんで“満堂”ななる訳だ。

そこへ僧侶が来て装束を改めて仏壇の前に座れば、
全員で『正信偈・和讃』を唱和して、引き続いて僧侶の説教を聴聞する。
終わって、全員に供物が配られ解散となるのだが、家によっては参加者に酒の接待もする。
浄土真宗の仏事を通して、地域の繋がりを確かめ合うのが江州辺りの「御取り越し」である。

しかし、こうした繋がりも世代交代を重ねる内に、煩わしさが目立つようになり、
衰退の一途をたどっているのかも知れない。

確かに、現代人からすれば何と前近代的な集いと思われるかも知れない。
付き合いとはいえ、時間を割いてその家へ参詣に行くのも煩わしければ、
特に受け入れる側は物心ともに大変だ。
参詣者に配るお供物も用意しないといけないし、仏間の大掃除も念入りにしないといけない。
「無縁社会」の対極が「ムラ社会」であるならば、「ムラ社会」の人間関係とはそういうものである。


これほどまでに「無縁社会」化が進む中においては、
こうした「ムラ社会」が、一人暮らしの老人を支え、若者を育む理想的な手段も見えなくもない。

しかし「ムラ社会」へと180度転換することなど、今となっては不可能であろう。
結局、伝統は先細りしても継続することが大切であり、
一度途切れたものを元に戻すのは限りなく不可能である…。


今、そうした「無縁社会」の中で、
インターネットの世界が「無縁」からの解放へと繋がっているという。

24時間リアルタイムで自身が住まう部屋をネット中継し、
そのサイトに書き込まれるコメントと音声で遣り取りをするのだという。
サイトにアクセスして実況を見ている人は常時50人ほどはいるそうで、
いうなれば一つのコミュニティーを形成しているようだ。

PCを通しての遣り取りも進展していく内に、リアルな人間関係が構築されていくのだという。
ネット上で自身の日常生活を公開しているというある若者は、
自らのサイトへアクセスしてくる人々は、親身に自身のことを気遣ってくれるのだという。

その若者は目下休職中とのことであるが、過酷な企業戦士としての日常を過ごしていた。
会社の同僚たちに心を開ける道理などなく、お互いが足を引っ張り合うライバルでしかなかった。
いつしか鬱病と診断され、会社へ行けなくなったのだという。

都会のマンションで一人暮らしする彼は、郷里へ帰れば両親も健在のようだが、
年に1度会うか会わないかという“人間関係”である。
隣人と言葉を交わすことはなくとも、PCの中で人間関係を築いている。

それはバーチャルリアリアリティな空間ではあるが、ある意味、虚構を越えた現実でもある。
人と人との直接的なコミュニケーションが希薄になった分、人々はPCの画面に向かう。

是くいう私も、その中の一人かも知れない。
もっとも、人間関係が希薄になった訳でも何でもないのだが、
ブログがいつの間にか、新たな人間関係を築くツールになっているのは確かなようだ。

拙ブログが6年目を迎えた今もこれだけ続けていられるのは、
バーチャルでは無くなってきているのかも知れない。

もっとも、拙ブログはあくまで「公開備忘録」を決め込んでいるに過ぎないのであるが…。










 駄文を書き終えて、ふと、『無量壽経』の一節を想起したので、書き添え置く…。



   独り来たり独り去りて、ひとりも随(したが)う者なし。
   善悪(の業果たる)禍福のみ、命を追ひて生ずるところなり。
   或ひは楽処に在り、或ひは苦毒に入る。
   しかるのちに、いまし悔ゆともまさにまた何ぞ及ぶべき。

                          『仏説無量壽経』巻下より




   人間とは、独りでやって来て、独りで去らねばならない。
   誰ひとりとして、一緒に付いて行ってくれる者は存在しない。
   善と悪、災禍と幸福とは、その人の命を追って生じて来るものである。
   或る者は幸福な所に生まれることもあるが、或る者は苦痛と毒に染まった所に入るようになる。
   そうなった後に、後悔をしたところで、どうして間に合うだろうか…。



■写真■
JR大阪駅環状線ホームにて、2008年3月28日撮影。

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ブログスイミングからたどり着きました。中々興味あるお話でした。お坊さんだけに世界観が違うようです。「般若心経」です。

2011/2/12(土) 午前 9:06 anjoohenro 返信する

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まずこうなったのは、第一に戦後の占領軍の日本弱体化政策と日教組による自虐史観による反日教育の成果だと思います。自分の家庭を馬鹿にして両親を嫌っている人間が明るく幸せになれないように、自分の国を愛する事が出来ない国歌、国旗を敬う事ができない人が幸せにはなれないでしょう。愛深い人は孤独とは無縁でしょう。貧しい心、(不平、不満、他人の責任にする。)菅や仙石ですね。国民から嫌われましたね。笑

2011/2/12(土) 午前 10:56 [ サイタニ ] 返信する

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「自分の世界の保持」 と 「他人や社会との係わり」 との節調と在り方は 歴史や習俗から醸成され継承される文化じゃないでしょうか。
突然、外から強制的に与えられた文化(誤れる民主主義)から生じた現状・・・・
個人の意思と自由の過大な偏重、 「自己のみ」 とする価値観の蔓延。
そして至った、人と人・人と社会 の関係の希薄化(情とモラル・集団的アイデンティテイの喪失)。

しかし、本来 人は 情・意ともに人を求め また社会と繋がらねば生きられない。
その相克が不幸に思えます。

2011/2/12(土) 午後 0:50 [ walker ] 返信する

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クレパスさん、こんにちは。こちらこそコメント頂き、どうも有難うございます♪♪。
確かに本質は何も見えてこないと思いますね。そして、極端化もしますね。しかし、そうしたツールにしか頼れない現代人は、本当に哀れなのかも知れません。ほどほど…というのがありませんから。

2011/2/12(土) 午後 4:04 Rev.Ren'oh 返信する

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anjoohenroさん、初めまして。コメント&ファン登録有難うございます♪♪。駄文をお読み頂き、恐縮です。世の中を斜に構えて見る私であります…(苦笑)。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます…。

2011/2/12(土) 午後 4:06 Rev.Ren'oh 返信する

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サイタニさん、初めまして、コメント有難うございます。確かに、戦後教育の歪みによるものとも思えますね…。文化よりも文明を最優先させたことが、こういう結果へと繋がったのかも知れません。
薬も使い方を誤ると毒にもなります。そのさじ加減が、現代人には欠落しているのかも知れません。
自虐史観、何とかならないものでしょうか…。

2011/2/12(土) 午後 4:10 Rev.Ren'oh 返信する

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walkerさん、こんにちは。日本は明治維新と戦後復興を急いだがために、世界的にもハイレベルな文明を獲得しましたが、先人から引き継いだ文化の大半を破棄してしまいました。
個人の意思と自由の過大な偏重…仰せの通りですね。
今日、中日新聞の宗教欄を見ていたら、法然と親鸞に関する、京都法然院貫主の原稿が載っていました。「愛で地球は救えない…と仏教は説く」とのくだりで、自己愛、家族愛…全て他者に目を向けないことと書かれてあり、言い得て妙と感じ入ったものです。個人としての自身、家族の中にある自身と、周囲の人間関係の中の自身とは、同時進行の存在でありますね…。

2011/2/12(土) 午後 4:15 Rev.Ren'oh 返信する

無縁もムラ社会での生活もどちらもいやなわがままものです。
ずっと京都は大きな「ムラ社会」だと思っていますが、
最近はそうでもなくなってきていますね。
特に市内中心部の学区では全国でも初めて(?)の単身者用マンション建設を全面禁止にする条例が作られたそうです。
シェアハウスをより一層促進するための策だそうですが、
なんだか極端すぎる条例で驚きました。
一人暮らしをする社会人や学生のその地域での居住を認めないとは・・・。
人は誰とも関わらずにひとりぼっちでは生きていけませんが、
地域でプライバシーもないようなべったりの日常もどうなのかと思います。
なにごともほどほどがいいですね。
それにしましても、こうしたバーチャルな空間からいろいろな「超・おもろい」会話ができるようになれるこの時代、なかなか捨てたものではないですね(´艸`o)

2011/2/12(土) 午後 5:10 ぴあの♪ 返信する

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所詮、人間は1人ぽっち。他人の心がわからないように自分の心もわかってもらえない。だけど、それでも人と繋がっていたい。
繋がっていると感じられるから、一瞬でも孤独感から解放されますもの。
独居老人にしろ無縁社会にしろ、問題だ!って騒ぐだけでは何も解決しませんから、それこそ近所の人に「おはよう」って挨拶するだけでも随分と人間関係は変わってくるように思います。
繋がりのきっかけなんて何でもいいんじゃないかと思うんです。
ネットでも職場でも、繋がってしまえば人と人の関係になるんですから。重要なのは一人じゃないと、繋がっていると感じられることじゃないかとおもいます。
ひとりで生まれてひとりで死んでいくのが人間ですが、ひとりじゃ生きられないのが人間ですもんね。

2011/2/12(土) 午後 5:36 [ ひとつ目 ] 返信する

ムラでも、無縁でもないのでしょうけれどねぇ。
黒か白か、デジタルな選択肢ではなく、つかずはなれずの、ほどよいよりそい方、家族や、職域、地方自治の単位を超えた、ある意味、自主性と、良い意味での無責任で回るつながりが、今こそ必要な時代であるように思います。
ぽちっ!

2011/2/12(土) 午後 7:11 鈴木藍子 返信する

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こんばんは。NHKの無縁社会の番組はしっかりと見ています。今までは高齢者の無縁と言うものを取り上げてきましたが、昨夜は、若者の無縁社会を取り上げていました。この国の働き方は、終身雇用でした。でも、いまは、若者の半数が非正規社員だそうです。労働と言うものが使い捨てになってしまって、社会が壊れてきています。年間、32000人の自殺者、これは毎日90人ほどの数になります。社会が崩壊しています。「産まれ来るんじゃなかった、さようなら」
昨夜のtvでは、白浜の教会の活動が紹介されていました。せっかく生まれてきたこの大切な命、ぜひ、お寺でも、支えあって暮らすという活動が必要だとしみじみ思っています。

2011/2/12(土) 午後 8:00 あだ〜じお 返信する

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今夜9時、あ、もうすぐ! NHKで無縁社会の特集ですね。 見ようと思っていました!
わたしも1人暮らしですが、距離に関係なく好きな人達とは親しく付き合っているつもりです。
両親健在ですが、帰省は若い頃からずっと1年に1度もしないです。^^;

2011/2/12(土) 午後 8:55 貝 ぬ し 返信する

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独りでやってきて独りで去る!周りには親戚縁者が集うが、誕生と死は独りで為し独りで去る。勿論、母の力を借りそして縁者の手を煩わせて滅する。私達夫婦はどちらが先に逝くのか判らぬけれど、残った者が世話をするのみ。只々耽々と縁者と共に悲しむのみ、それ以上何も出来ない・・・ なにかを成し遂げたい何かを残したい!存在したその証拠を何かの形にしたいと今は考えている。はかないつぶやきとして!

2011/2/12(土) 午後 10:19 丸くまん丸 返信する

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ぴあのさん、こんばんは。京都は「政令指定村」ですね(笑)。それにしても驚くのは、そんなけったいな条例ができたのですか…。なんか、そこまでやるのは行き過ぎのような気がしますね。
何事も極端なところまで突っ走ってしまう…それが現代社会の“患部”のような気がしてなりません。べったりムラ社会も、ある意味、時代に即応していない側面がありますが、不即不離な社会システムは構築する必要があろうかと思います。寺としても改めて何かできないか、秘かに思案しています。

2011/2/13(日) 午前 1:10 Rev.Ren'oh 返信する

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ひとつ目さん、こんばんは。

「重要なのは一人じゃないと、繋がっていると感じられることじゃないかとおもいます。」

発想の転換は重要なテーマだと思います。自殺が多いのも、発想が凝り固まってしまい、悲観へと繋がるからではないかと…。現代人は、自身も含めて不器用になったのでしょうかねェ。

2011/2/13(日) 午前 1:13 Rev.Ren'oh 返信する

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あなろぐさん、こんばんは。
何故、いつも究極の選択、究極の結果まで行き着いてしまうのか…。もっとおおらかな発想へシフトできないのか、考え込んでしまいます。確かに、どん底といいますか、しんどい時には周囲は見えないものですね。しんどさをちょっとでも共有してくれる存在があれば万々歳なのですが。これほどまで個人の存在が固定化してしまうと、、手の着けようがありません。

「良い意味での無責任で回るつながりが、今こそ必要な時代であるように思います。」

言い得て妙な表現、心底私もそのように思いますよ…。

2011/2/13(日) 午前 1:17 Rev.Ren'oh 返信する

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あだ〜じおさん、こんばんは。今夜の分は惜しくも見逃してしまいました…。終身雇用制の崩壊は、グローバリズムの副産物なのでしょうか。労働の使い捨て、本当におぞましいものを感じます。企業は最早公益性を破棄し、ただただ業績を伸ばすことだけに執着しているのでしょう…。
今こそ寺は何ができるでしょうか…?!。

2011/2/13(日) 午前 1:20 Rev.Ren'oh 返信する

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貝ぬしさん、こんばんは。外せない所用で見逃してしまいました…(><)。御覧になって、どのように感じられましたか?
一人暮らしに恐れをなす必要はないですよね…。貴女のような人間関係をしっかり構築してさえいれば。ご両親、盆と正月くらいは帰省されて、元気な姿を見せてあげて下さいませ(^_^)

2011/2/13(日) 午前 1:23 Rev.Ren'oh 返信する

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丸くまん丸さん、こんばんは。自身を肩代わりしてくれる存在はいない…これが経文の意味だと思います。自身がこの世に存在したという痕跡を残す…大切なことだと思います。その手段こそ人間関係なのだと思います。

2011/2/13(日) 午前 1:25 Rev.Ren'oh 返信する

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nazunaさん、こんばんは。ぞろ目333番目のトラバを有難うございます♪♪。早速拝見に上がります…。

2011/2/14(月) 午前 1:10 Rev.Ren'oh 返信する

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