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熊本日日新聞社 検証・ハンセン病史
藤野豊氏の『「いのち」の近代史』に書かれている内容をさらに詳しく書かれていて疑問に思ったことの理由をいくつか知ることができました。宗教について取り上げられていたので抜粋します。
「もしそれ、らい絶滅の重要性に国民が自覚促進するところ無くば、われら何時らいに侵されるるか測れないのである。(中略)如何に血統の清浄を誇るものも、皆らいの前に破滅を見るときが来るのである。」
1921(昭和6)年6月、大谷派光明会の発会式が、京都・本願寺であった。患者の強制隔離を盛り込んだ予防法(旧法)公布の2ヵ月後のことだ。
光明会設立には、内務大臣だった安達謙蔵の働きかけがあった。これに呼応して尽力したのが、大谷派の社会活動で一つの時代を画したとされる竹内了温だ。
「一人出家すれば九族天に生まれると言うが、一人らいに感染すれば九族地獄に墜する」
設立趣旨や活動方針などを収めた冊子『らい絶滅と大谷派光明会』の文章表現は激しい。
活動方針は二つ。一般に対しては「伝染病たることを理解させることによって患者・家族に対する同情心を喚起し、絶滅と予防目的に協力させる」こと。患者に対しては「慰安して進んで療養所に入らしめ、すでに入所せる人々を慰安教化する」ことを挙げる。
竹内は同年から翌32年かけ、ハンセン病に関する記事を同派機関紙『真宗』に集中して掲載。「国民総動員」を訴える。
「あきらかに世論をあおるキャンペーン。国がやろうとしている隔離政策をよく理解している」
厚生労働省のハンセン病問題検証会議検討委員会で、同派同和推進本部委員の訓覇浩さんは指摘する。
光明会の名称は奈良時代に患者を救済したという光明皇后の伝説に由来する。そして光明会の総裁は、昭和皇后の妹で大谷門主の妻(御裏方)
「皇室と一体化して光明会が設立されている。仏の名、皇室の名で救済を説けば、患者もすがる。しかし、救済を説けば説くほど、それは隔離政策への協力でしかなかった」
1931年の予防法(旧法)制定と同時に設立された大谷派光明会は、活動方針に沿って全国の療養所に慰問団を派遣。一般信者むけには、全国の末寺にカラー刷りの「らい絶滅」ポスターを配布して協力を呼びかけた。
32年の同派機関紙『真宗』には。大島青松園患者一同から「患者の慰安と絶滅に多大の努力と犠牲」を払う光明会への礼状が掲載されている。
その中で「私たちの心理を理解しない人は『運命とあきらめろ』と教えてくれるが、そう容易にあきらめ切れぬ悩みがある。凡夫の悲しみです」と心情を吐露している。
これに対して、慰問教化する側は何と説いたか。同派同和推進本部委員の訓覇浩さんは「療養所に居ることが即、救われているという、仏教的な言説を用いた見事なすり替えが説かれた」という。
同派僧侶で仏教界の重鎮・暁烏敏は34年、絶対隔離を称えていた光田健輔が園長を努める長島愛生園でこう講演している。
「皆さんが病気と戦ってそれを超越してゆかれることは、兵隊さんが戦場で働いているのと変わぬ報国尽忠の努めを果すことになるのです」
その愛生園を同年、光明会総裁が訪問し、納骨堂の竣工式が開かれる。翌年には多摩全生園にも納骨堂が完成。これと前後して、各療養所に説教所や真宗崇信会などの門徒組織が結成される。
「90年も隔離政策が続いたのは、予防法が存在したこと、世論が問題としてこなかったことに加え、入所者が受容したことがある。人権を無視した政策を受容するよう、患者たちに説いてきた宗教者の責任は重い」
と訓覇浩さんは自戒を込めて話す。
(中略)
光明会も戦後すぐ消滅する。検証会義検討委員会の訓覇浩さんは言う。
「国策の一端を担ったという反省をしないまま、戦後は個人の救済を説くだけの癒しの布教に終始した。戦前同様、誤解を恐れず言うなら『隔離の受容』の押し付けに変わりなく、入所者たちが不当な隔離から解放されていこうとする力をかすめ取ろうとするものだった。」
仏教・キリスト教の各宗派が、隔離政策に協力した責任を認め、謝罪するのは96年の予防法廃止後だ。
以前本願寺の戦争協力の反省の記事を読みましたが、同じことがここにも行われていたのです。宗教とは何か。考えさせられます。
もう一つ驚いたことは本願寺の門主の妻が皇室関係者であることです。親鸞の末裔と言うだけで継承していくことの不思議に,皇室との縁組が加わり、ますます本願寺の意味を不明にさせます。関係者はどう思っているのでしょう。何も言わないことが間違いを繰り返したのではないですか。
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