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軍国主義・天皇の戦争責任

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※忘れまい、沖縄戦を!
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シリーズ沖縄戦
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地獄の予兆  
艦砲射撃
米軍上陸
嘉数高地の戦闘 (4月5日〜4月24日)
津堅島の戦闘 (4月10日〜4月25日)
伊江島の戦闘(4月16日〜4月21日)
小波津の戦闘(4月22日〜5月2日) 
前田高地の戦闘 (4月25日〜5月3日) 
宮城・仲西の戦闘 (4月30日〜5月6日)
運玉森の戦闘 (5月5日〜5月22日)
シュガーローフの戦闘 (5月12日〜19日)
首里の戦闘 (5月20日〜5月31日) 
那覇と与那原の戦闘 (5月22日〜5月31日)
津嘉山収容陣地の戦闘 (5月31日〜6月4日)
南部の戦闘 (6月6日〜6月23日)
国吉台地の戦闘 (6月10日〜8月22日)
第32軍の終焉
久米島の住民虐殺
アイスバーグ作戦終了
収容所と沖縄人
惨敗兵
アメリカ世の収容所生活
玉音放送(8月15日)
終わらない戦い
朝鮮半島から沖縄に連れてこられた人々
戦争とは国家とは
雁屋哲さまのブログより

氏はイソップ社より「日本人と天皇・増補版」を出版された由、脚色された裕仁の化けの皮を暴く!是非読んでみようと思います。1割引きで購入できるそうですよ。
イソップ社担当、首籐知哉宛て。

2019-06-09

昭和天皇の戦後責任

前々回書いた、「奇怪なこと」に対して、多くの方がメールを下さいました。
小学館にも反響があり、前回鼻血問題の時とは180度変わって、私を応援して下さる意見ばかりだったそうです
皆さんに私のことを心配して頂いて、大変申し訳なく思うと同時に、そのご親切身にしみて有り難く、厚くお礼を申しあげます。
私は鈍感なのか、闘争精神が旺盛なのか、こんな状態に少しもへこたれることなく、これからも今まで通りに私自身が正しいと思うことを発言していくつもりです。
これからもよろしくお願いします。
 
新刊のお知らせです。私は2000年に、イソップ社から「マンガ 日本人と天皇」という本を出版しました。
この本はその後、講談社のα文庫に収録されました。
今回、天皇が平成から令和に変わるというこの時点で、もう一度天皇制について考えようと言うことで、初版に一章付け加えて増補版としてイソップ社から発行しました。
 
初版の本の内容は、本の帯に編集者がまとめて書いたものによると、
  • 天皇とは何か。
天皇は現人神という神話を日本人にすり込んだ教育勅語。
その内容はいかに荒唐無稽で、事実とかけ離れたものだったのか。
  • 近代天皇制の毒
恐怖と民俗的ナルシシズムを喚起する近代天皇制。
その正体は明治になって作られた「新興宗教」だった。
  • 天皇の軍隊。
日本の社会に根をはる上下関係の締め付け。その源に奴隷の服従を下のものに強いた天皇の軍隊がある。
  • 臣と民。
「君が代」の「君」は天皇を指すものではなかった。民衆の祝い歌に過ぎなかった「君が代」を国歌に据えた。その真意は何処にあるのか。
  • 象徴天皇制
一見無害に見える現代の天皇制。だが、本当にそうなのか。成立のいきさつと共に、天皇を上に載く危険性を考える。
  • 昭和天皇の戦争責任。
昭和天皇は、ヒトラーやムッソリーニと同罪か。
はたまた軍部の暴走に引きずられた犠牲者だったのか。「独白録」などから、昭和天皇の真実に迫る。
  • 天皇制の未来。
天皇制とはやんわりと空気のように充満している権力。
どうすれば我々は天皇制から自由になれるのか。
となっています。
 
以上の内容に、今回は増補として、昭和天皇の「戦後責任」について付け加えました。
初版で、昭和天皇の戦争責任は追及しましたが、戦後責任まで書くことが出来ませんでした。
しかし、昭和天皇については戦争責任だけではなく、敗戦後今日まで続く私達を苦しめているアメリカに対する隷属体制を作り上げた責任があります。
辺野古の問題、アメリカからの大量の武器購入問題、原発再稼働の問題、この全ては日本がアメリカに隷属していることに原因があります。
日本は確かに太平洋戦争でアメリカに負けた。
しかし、敗戦後74年も経っているのに、どうして日本はいまだにアメリカの占領下にあるのか。
日本は独立したことになっていますが、実質はアメリカに全てを支配されています。どこをどう見ても、日本はアメリカの占領下にあり、アメリカの属国です。
どうして日本はこんな惨めな国になったのか。
それは、昭和天皇が日本をアメリカに売り渡したからです。
詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、簡単に、要点だけをまとめます。(引用した資料などについては、本書をお読み下さい)
 
1946年に公布された日本国憲法では、天皇は主権者ではなく、象徴となっています。政治権力は持っていません。
ところが、昭和天皇はそうは考えていなかったのです。
敗戦後直ぐに昭和天皇は活動を開始します。
昭和天皇は近衛文麿首相に憲法改正作業を命じました。
しかし、近衛文麿は戦犯に指定されて出頭を命ぜられ、出頭前日に服毒自殺してしまいました。そこで、松本烝治が代わって委員長を務める幣原内閣の憲法問題調査委員会が憲法改正作業を行うことになりました。
敗戦の翌年1946年1月に松本は「憲法改正私案」を昭和天皇に提出しました。
しかし、これは、昭和天皇が命じた憲法改正なので、私案では「天皇が統治権を総攬する」という明治憲法の基本をそのまま残していました。それを見たマッカーサーは、自分の部下に命じてGHQ案を作りそれを受け入れるように政府に迫りました。
ここで注意して頂きたいのは、憲法改正を命じたのは昭和天皇であることです。
昭和天皇は「昭和天皇独白録」の中で「自分は専制君主ではなく、立憲君主なのだから開戦の際東条内閣の決定を裁可したのはやむを得ないことである」と言い、実際の政治には関わらないと言っていますが、憲法改正という重大な政治問題を自分から命令して始めたのです。「立憲君主なのだから政治的に自分の意思を通せない」という弁明とは大いに違います。
 
昭和天皇は1945年敗戦後直ぐに、9月27日にマッカーサーに会うためにGHQの総司令部に行きました。
これは、極めて異例なことです。天皇が相手を訪ねるということはあり得ないことでした。もし会いたいと思ったら、その人物に拝謁を命じて、宮中に来させるのが普通でした。(私的に、遊びで訪問することはあったようですが、このような正式の会見の場合自分から相手のところに行くことはあり得ませんでした)
しかも、直前まで敵として戦っていた相手の指揮官を訪問するとは考えられないことです。
人によると、「命乞いに行った」と言いますが、果たしてどうだったのでしょうか。
またその時撮影された写真が、私達日本人(少なくともこの私)を苦しめ続ける物です
本書に掲載されている写真は不鮮明なのでよく分かりませんが、もっと大きく鮮明な写真で見ると、天皇の目の表情と口元の様子がよく分かります。途方に暮れたような目つきで、いわゆる「まなこちから」は一切ありません。口は半開きになっている。直立不動の姿勢を取っていますが、体中の力が抜けているようで、その情けない顔つきと合わせると、無残なまでに哀れっぽい。
それに対してマッカーサーは、腰に手を当ててカメラのレンズを睨み付けるようにして立っています。その目の「まなこちから」は強烈で、日本人にとって現人神である天皇の横で傍若無人、傲岸不遜、なんという勝ち誇りようであることか。
大きくて体格の良い体、気迫に満ちた表情のマッカーサー=勝者アメリカ、一方、貧弱な体格、情けない顔つきの天皇=敗者日本。
私はこの写真を見るたびに、激しい敗北感と、屈辱感に打ちひしがれる思いがするのです。
日本人にとっては神と崇められていた天皇を、単に自分たちに降伏し命乞いをしてきた人間のようにマッカーサーは扱っている。
これほど日本人にとって屈辱的な写真があるでしょうか。
本当に口惜しい。
私は、マッカーサーがこの写真を故意に撮らせて世界中にばらまいたのだと思います。
この写真があれば、天皇制を我々の頂点に置く今の体制を廃止しない限り、日本人は未来永劫アメリカに頭が上がりません。
この弱々しい姿とは裏腹に昭和天皇はその後10回にわたりマッカーサーと会見して自分の意見を述べ、政治的にかなり高度な問題を話し合っています。
第四回目の会談で昭和天皇はマッカーサーに、「日本の安全保障を図るためにはアングロサクソンの代表者である米国がイニシアチブを取ることを要するのでありまして、そのために元帥のご支援を期待しております」と言いました。
それに対して、マッカーサーは、「日本を守る最も良い武器は平和に対する世界の輿論である。日本が国際連合の一員になって平和の声を上げて世界の平和に対する心を導いて行くべきである(そうすれば、日本が攻撃を受けた場合には世界の輿論が日本の味方をして、国際連合が日本を守るために動くだろう)」と答えました。
マッカーサーの国連主義は昭和天皇にとって不満だったに違いありません。
昭和天皇はより具体的で、更に露骨に安全保障上の問題に介入していきました。
この4回目の会見から4ヶ月ほど経った1947年9月1日に昭和天皇は御用掛の寺崎英成を使って、対日理事会議長兼連合国軍最高司令部外交局長ウィリアム・シーボルトに「沖縄メッセージ」を送り、シーボルトはそれを連合国軍最高司令官及び米国国務長官に送りました。
その「沖縄メッセージ」は現在、沖縄県公文書館がインターネットで公開しています。シーボルトが国務長官に送った書類のコピーです。
 
寺崎英成が伝えた昭和天皇のメッセージの肝は、次の点です。
  • 主権は日本が維持しているというフィクションの元に、25年から50年またはそれ以上の年月、米軍の沖縄とその他の琉球諸島の占領を続けて貰いたい。
  • 現在日本の国民は占領が終わった後に国内で左翼と右翼の衝突が起きて、その騒動に乗じてソ連が内政干渉をしてくることをおそれている。したがって、アメリカが沖縄の占領を続けることは広範囲の日本国民に受け入れられるであろう。
  • この軍事基地獲得の権利はアメリカと日本との2国間の条約とするべきで、連合国軍と日本の平和条約の一部とはしない。
 
この昭和天皇のメッセージを読んで、私は絶望的な思いにとらわれました。昭和天皇は沖縄をアメリカに売ったのです。昭和天皇は沖縄を捨てたのです。
今沖縄では辺野古基地問題で揺れている。沖縄の県民投票では、投票した人間の70パーセント以上が辺野古基地の建設に反対している。投票率が50パーセントを超えたので、全有権者の35パーセント以上が反対していることになります。普通なら、これだけの反対があれば政府は辺野古基地建設を中止するべきだが、安倍晋三内閣はその投票結果を無視して辺野古基地建設を続けています。
考えてみれば、今、幾ら反対してもアメリカは70年前に天皇の要請で決めたことに今更何を文句を言っているんだ、と居直れます。
この昭和天皇の沖縄メッセージは、日米安保条約に反映しています。
一旦国家間で結んだ条約は簡単に解消できません。
今、どんなに沖縄の人達が反対しても、昭和天皇が自分から進んで沖縄をアメリカに売ってしまっていては手も足も出ないのです。
 
更に昭和天皇は沖縄だけでなく日本全土をアメリカに差し出しました。
1945年以後の世界は大きく変動しました。
1949年には毛沢東による中華人民共和国が成立し、同じ年にソ連も原爆実験に成功し、核兵器はアメリカの独占ではなくなりました。ソ連と中国という二つの共産主義国家の存在はアメリカの緊張感を高めました。
1950年に対日講和条約を担当するジョン・フォスター・ダレスが日本にやってきて、吉田茂首相と会談しました。ダレスは講和問題や講和後の日本の安全保障問題について吉田茂首相の明確な意思の表明を期待していましたが、吉田茂は曖昧な発言に終始したのでダレスは激怒しました。
ダレスは「日本に、我々が望むだけの軍隊を、我々が望む如何なる場所にも、我々が望む期間だけ維持する権利」を獲得することが重要であると考えるような人物だったのです。
そのような緊迫した情勢であることを摑んだ昭和天皇は「ニューズウィーク」誌の東京支局長であるパケナムを介して口頭メッセージをダレスに伝えました。それは、
「講和条約、とりわけその詳細な取り決めに関する最終的な行動が取られる前に、日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和問題の決着に向けて真の援助をもたらすことの出来る、そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう」
というものでした。
この「日本の国民を真に代表する」人間とは、軍国主義的経歴を持っているという理由で追放処分を受けた人達のことです。
昭和天皇はその人たちは見識があり、経験豊かで、日米両国の将来の関係について極めて価値ある助言と支援を米側に与えることが出来るであろうと強調しました。
ダレスはこのメッセージを受けとって、「今回の旅行に於ける最も重要な成果」と評し、提案にある「諮問会議は価値が有るであろう」と同意しました。
更にダレスは「宮中がマッカーサーをバイパスするところまで来た」ことを事態の核心として挙げました。
昭和天皇はこのメッセージを送ることでマッカーサーをバイパスするだけでなく、講和問題や日本の安全保障の問題を首相である吉田茂に任せておくことは出来ないという立場を明らかにしたことになります。昭和天皇はマッカーサーと吉田茂の頭越しにアメリカ政府と直接交渉を持つことにしたのです。
この昭和天皇の政治的行動には驚かざるを得ません。
「自分は立憲君主であるから、政治的決断はしない」と戦争責任について弁明したのは一体誰だったのか。選挙で選ばれた吉田茂を押しのけて、自分が日本の最高責任者としてアメリカに対しています。
この時、すでに日本国憲法が公布されており、天皇は統治権の総覧者ではなく、象徴です。政治的な権限は何もありません。
昭和天皇のこの行為は憲法違反も甚だしい物です。
更にパケナムはこの昭和天皇の「口頭メッセージ」を文書化することになりました。
文書の内容は「口頭メッセージ」と基本的には同じですが、それより一歩進んだ表現があります。
それはこの一文です。
「基地問題を巡る最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることが出来るであろう」
この誤った論争というのは、吉田茂首相が参議院外務委員会で「私は軍事基地は貸したくないと考えております」と明言したことでしょう。
昭和天皇はこの吉田茂の言葉を誤っていると判断して、米軍が日本に基地を持つことを日本側からの「自発的なオファ」とすることで解決しようというのです。
要するに、日本側からアメリカに、日本に基地を作ることを自発的に依頼する、と言うことです。
どうして、ここまでして、昭和天皇は日本に米軍基地を置いて貰いたかったのか。
それは、朝鮮戦争の推移を昭和天皇が深刻に考えていたからです。
1950年6月に韓国に攻め込んで来た北朝鮮はソウルを陥落させると破竹の勢いで朝鮮半島を南下して、昭和天皇の「口頭メッセージ」を文書化しているときには、釜山まで攻め込んでいたのです。
続きはこちらから→http://kariyatetsu.com/blog/2466.php


「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…


「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…の画像1 NHK NEWS WEB「昭和天皇『拝謁記』戦争への悔恨」より


 昭和天皇の「肉声」を伝える新史料が話題となっている。アジア・太平洋戦争での敗戦後、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との面会の際のやり取りを記録した「拝謁記」だ。

 長年、田島の遺族の間で極秘に保管されていたものをNHKが入手、『NHKスペシャル』でスクープしたのだが、そのNHKと新聞各紙が、拝謁記の内容としてこぞって大きく取り上げているのが、昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたというくだりだ。
 1952年5月3日のサンフランシスコ講和条約発効を祝う式典での「おことば」を巡って、田島長官に「ともすると昔の軍にかえる様な気持をもつとも思えるから、私は例の声明メッセージには反省するという文句は入れたほうがよいと思う」「私は反省というのは私にも沢山あるといえばある」と、繰り返し戦争への反省を自らの口で語りたいとの希望を伝えていた(引用者の判断で旧字体等を改め句読点を付した。以下同)。
 しかし、田島が天皇からの聞き取りをもとに草案を作ったところ、時の首相・吉田茂から、「反省」の一節全体を削除するよう要請されたのだという。
 周知のように、昭和天皇は公の場で自らの戦争責任について一切言及してこなかった。1975年の昭和天皇訪米後の記者会見(10月31日)で、ロンドン・タイムズの日本人記者から「戦争責任について、どのようにお考えになっておられるか」と予定にない質問を受けたときも、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」とはぐらかした。
 昭和天皇が側近らに「戦争への悔恨」を度々口にしていたということはこれまでの研究でも明らかになっていたが、いま、マスコミは拝謁記報道でわざとらしく「やはり昭和天皇は戦争責任を感じていた」「反省の意を国民に表そうとしていた」と驚いて見せているのだ。
 だが、この拝謁記で明らかになった事実は、そこまで評価すべき話なのだろうか。そもそも、声明に「反省の意」を込めようとして削除されたというが、天皇の意向を踏まえて田島が作成し、吉田茂から削除を要請されたくだりは以下のようなものだ。
〈勢の赴くところ兵を列強と交へて破れ、人命を失い、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて悔恨悲痛、寝食為めに安からぬものがあります〉
 ようするに、列強に無謀な戦いを挑んで、敗戦し、自国の国民の命と領土を失ったことに悔恨の念を述べているだけで、アジア諸国への侵略や虐殺への加害責任、反省を述べているわけではない。
 そして、吉田茂からの削除要請に対して、昭和天皇は当初、「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う」と抵抗していたものの、田島から「国政の重大事 政府の意思尊重の要」「祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし」「遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ」という3点を説得された結果、「長官がいろいろそうやって考えた末だからそれでよろしい」「いや、大局から見て私はこの方がよいと思う」と、削除を了承しているのだ。

宮内庁内部で削除を進言されていた天皇の「事志と違い」という戦争責任回避の言葉

 しかも、「拝謁記」によれば、昭和天皇は戦争責任を背負うどころか、自らの責任を否定するような発言もしていた。
 実は草案の作成過程では、吉田茂に見せる前に、宮内庁に反対された箇所があった。それは「事志と違い」、つまり、開戦が「私の意志ではなかった」という天皇のエクスキューズの文言だった。
 報じられている拝謁記の内容からは、これが天皇の強い希望で入れられたものであることがわかる。それは、田島がその削除を昭和天皇に進言した際のことだ。田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。
 拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。
 他にも、拝謁記には、昭和天皇の責任転嫁や保身としか思えないような発言が出てくる。
「私の届かぬところであるが、軍も政府も国民もすべて下克上とか軍分の専横を見逃すとか、皆反省すればわるいところがあるから」
「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうする事も出来ぬという事になっていた」
「事の実際としては下克上でとても出来るものではなかった」

天皇の開戦の責任、そして、無条件降伏の決断を引き延ばした責任

 改めて指摘しておくが、昭和天皇がいくら戦争は本意ではなかったと主張しても、その責任を免れることはできない。戦後保守派は「天皇は戦争を避けたがっていたが、軍部が暴走した」などというロジックで、天皇の戦争責任を回避しようとしてきたが、これは戦中日本の加害性を矮小化するためのまやかしにすぎない。
 なぜなら、天皇は大日本帝国憲法において〈国の元首にして、統治権を総覧〉し〈陸海軍を統帥〉する存在であり、最終的に天皇の承認なしには開戦も終戦もできなかったからだ。実際、対米英戦争は1941年12月8日の昭和天皇による「米国及び英国に対する宣戦の詔書」で始まり、1945年8月15日の「大東亜戦争終結の詔書」で終わっている。
 天皇を擁護する人たちは、昭和天皇が立憲君主制に則って、ただ天皇を輔弼する内閣の決定を追認しただけのように言うが、その追認こそが問題なのだ。しかも、天皇は内奏を通じ、政策決定の過程に自らの主体的な意見を反映させることができた。関東軍による張作霖爆殺事件に激怒し、田中義一首相に辞任を勧告した(田中内閣の総辞職)ことは、国政における天皇の影響力発揮の最たる例だろう。しかし、開戦時も戦争中も、そうした大権を行使することなく、戦争遂行を「追認」したのである。
 また、巷間では昭和天皇の“超立憲主義的行為”のうち無条件降伏の決断(いわゆる「聖断」)ばかりが着目されがちだが、その「聖断」を引き延ばしたことによって、本土空襲の激化や広島・長崎への原爆投下など大被害を招いたことも忘れてはならない。
 1945年2月、すでに敗戦濃厚のなか、時の首相近衛文麿は昭和天皇に早期の講和実現を訴えた(近衛上奏文)。が、その進言を昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」として否定した。局地的であれ戦闘に勝利をおさめることで、皇統維持などの「条件付き講和」へ持っていこうという「一撃講和論」であり、同年の無謀な沖縄戦はその結果として行われたと言っていい。「無条件やむを得ず」の早期講和論へようやく舵を切ったのは5〜6月頃とみられている。要するに、どこをどうとっても、天皇の戦争責任は明らかなのだ。
 しかし、昭和天皇は在位中、こうした戦争責任を公の場で認めることはなかった。そして、今回、明らかになった拝謁記のなかでも、天皇はけっして自らの戦争責任を認めてはいない。
 それどころか、逆に、戦争は自分の本意ではなかったことを強調し、止めることができなかったのは、東條英機や軍部が暴走し、どうすることもできなかったのだと繰り返し弁明している。
 マスコミは今回の拝謁記報道で「天皇が戦争の反省にこだわったことがうかがえる」と評していたが、その戦争への言及を見ると、昭和天皇が本当に「反省」していたとはとても思えない。

改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」

 その印象は拝謁記の戦後体制をめぐる天皇の発言を知ると、ますます強くなる。拝謁記には、天皇が日本国憲法に不満を抱いている発言がいくつも出てくる。サンフランシスコ講和条約祝賀式典での「おことば」をめぐって、「憲法の総ての条項に賛成ととれぬように書いて貰はないと困る。それかといって憲法自体わるいという事ではないから」と注文をつけていたことが記録されている上、以下のような改憲による再軍備も主張していた。
「私は憲法改正に便乗して、外のいろいろの事が出ると思って否定的に考えていたが、今となっては他の改正は一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様に思う」
「軍備といっても国として独立する以上必要である。軍閥がわるいのだ。それをアメリカは何でも軍人は全部軍閥だという様な考えで ああいう憲法を作らせるようにするし」
 そして、1951年3月には「侵略者のない世の中になれば武備は入らぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得已(やむをえず)必要だといふ事は残念ながら道理がある」と発言し、田島から「その通りでありまするが憲法の手前そんな事はいえませぬし、最近の戦争で日本が侵略者といわれた計りの事ではあり、それは禁句であります」と諌められている。
 これは、天皇には戦後も相変わらず自分たちが「侵略」をはたらいていたという意識が希薄だったことの表れ、というしかない。
 さらに決定的なのは、沖縄米軍基地について語った発言だ。「拝謁記」によれば、サンフランシスコ講和条約発効後の1953年11月24日、昭和天皇は田島に対し、こう述べている。
「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一応もっともと思う理由もあろうが、全体の為に之がいいと分れば一部の犠牲はやむを得ぬと考える事、その代りは一部の犠牲となる人には全体から補償するという事にしなければ国として存立して行く以上やりようない話」
 戦前・戦中は本土を守るための捨て石にされ、本土の「主権」が回復してもなお、米軍の占領下に置かれる沖縄を「一部の犠牲はやむを得ぬ」と斬って捨てる昭和天皇。ここからわかるのは、結局、昭和天皇は戦前と何も変わっていないということだろう。
 そこにあるのは、「豈、朕が志ならんや」と言いながら開戦の詔勅に署名をしたのと同じ、「やむを得ぬ」と大勢に従い、現状を追認し続けている姿だ。
 作家の保阪正康は昭和天皇の行動原理について、〈よく、天皇は平和主義者か好戦主義者か、といった質問が発せられるが、それは質問自体が間違っている。天皇はそのどちらでもなく、皇統を守ることが第一の責務であり、戦争か平和かというのはそのための「手段」と考えていたのである〉(『昭和史のかたち』岩波書店)と書いていたが、これは正しい分析と言えるだろう。

戦争責任を問わなかったことが歴史修正主義と戦前回帰思想を温存させた

 昭和天皇はおそらく、大元帥だった戦前・戦中も、自らが開戦に詔勅をあたえた戦争で日本国民に未曾有の戦渦をもたらし、他国に多大なる被害を与えた後も、変わらず「万世一系の皇統の存続」を最大目的として行動し続けてきた。
「戦争への反省」の意を表そうとしたのも、その「反省」削除に応じたのも、当時、国内にあった退位論を抑えるためだったと思われるし、「改憲による軍隊保持の希望」も「沖縄米軍基地容認」も共産勢力の日本進出で皇統が保障されない事態を恐れていたからこそのものだろう(実際、拝謁記からも共産主義への強い警戒心が見て取れる)。
 そう考えると、昭和天皇個人に「反省」を期待することも自体が、そもそも無意味なのだ。
 それよりも、私たちが考えなければならないのは、私たち自身の姿勢のことだろう。日本国民は天皇が戦争責任を自ら表明するか否かに関わらず、自分たちの手で、天皇の戦争責任を検証し、追及すべきだったのだ。しかし、国民もメディアもそのことから逃げたばかりか、一緒に自分たちの戦争責任にも蓋をしてしまった。
 その結果、安倍首相の祖父である岸信介をはじめ戦争に加担した政治家がなし崩し的に復権し、戦前回帰を目指し、大日本帝国と戦争を肯定する思想が温存されたのだ。
 もし、あの時にきちんと天皇の戦争責任を検証し、自分たちの戦争責任に向き合っていたら、1990年代の歴史修正主義の台頭や安倍政権の露骨な戦前回帰を許すことはなかったはずだ。
 昭和史と天皇制研究で知られる吉田裕は、日本の戦争責任に対する姿勢を「ダブル・スタンダード」と評して、こう分析している。
〈具体的に言えば、対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で最小限の戦争責任を国家として認める、しかし、国内的には、日本の戦争責任を事実上、否定する、あるいはこの問題を棚上げにする、という形での対外的対応と国内的な処理の仕方とを使いわけるようなやり方である。
 当然のことながら、このようなダブル・スタンダードの成立は、日本人の戦争観や戦争責任観のあり方をも大きく規定することになった。一つには、国内的に戦争責任の問題が不問に付されたことの結果として、日本国家と日本人の対外的な戦争責任・加害責任の問題が曖昧にされただけではなく、国家あるいは国家指導者の自国民に対する責任の問題まで、事実上、封印されてしまったことである。〉(『現代歴史学と戦争責任』青木書店)
 しかし、今からでも遅くはない。戦争をめぐる天皇の「肉声」が明らかになったこの機会に、「天皇の言葉」に頼るのでなく、国民が自分たちの手で戦争責任の問題を検証し、追及する作業を開始すべきではないのか。

 NHKが16日以来再三取り上げている「拝謁記」(田島道治初代宮内庁長官の記録)は、天皇裕仁の戦争責任・戦後責任についての“弁解記”と言っても過言ではないでしょう。これまで放送された主な内容は次の通りです。

① 自分(裕仁)は戦争を意図していなかったが、軍部が「下剋上」で勝手に動いた。

② 戦後、国民の前で「反省」「後悔」という言葉を述べたかったが、首相の吉田茂が反対したため叶わなかった。

③ 戦後、憲法が変わり天皇は「君主」から「象徴」になったので、自分もそう変わろうと努めた。

④ 戦後の日本の政治の実情を見るにつけ、言いたい事がたくさんあったが、憲法上の制約から発言を抑えた。

⑤ 「侵略者(ソ連)」がいる以上、「改憲」して「再軍備」する必要があるが、「旧軍閥」の台頭はいやだ。そのことを首相・吉田に言いたかったが、憲法上言わなかった。

 このNHK報道に貫かれているのは、自分は一貫した平和主義者で、戦争責任は軍部・軍閥にあり、戦後も日本のことを考え続けたが、憲法上「象徴」としての制約を守って発言を自重してきた、という裕仁の弁明です。それにNHKアナウンサーと「識者」らのコメントを付けて裕仁美化を増幅しています。

 これが歴史的事実に反していることは明白です。 
 戦争開始・遂行の最高責任が、国の統治者であり統帥権を持つ大元帥だった裕仁にあることは明白です。戦後の主権在民の憲法の下でも、裕仁は政府の頭越しにマッカーサーと11回も会談するなどアメリカと直接交渉を続け、天皇制維持と引き換えに沖縄を売り渡し(1947年9月「沖縄メッセージ」)、日米安保体制のレールを敷くなど、政治活動に狂奔してきました。軍事増強についても防衛庁長官(当時)に直接忠告する(1973年5月「増原防衛庁長官内奏事件」)など、公然と憲法を蹂躙してきたのが裕仁の実像です。

 ところが、4日目の19日になると、NHKにとってのネタ切れになったのか、興味深いことが紹介されました。それは裕仁が皇太子明仁の軍隊への「任官」を拒否し続けてきたということです(当時皇族は10歳になると任官する規則になっていたが、裕仁が反対し、明仁は任官しないまま11歳で敗戦を迎えた)。

 「国民」は徴兵して死地へ送り、植民地・朝鮮の人々を強制動員しておきながら、自分の息子は規則に反して「軍人」にすることを避け続けた。なんという身勝手な人間性でしょうか。NHKはそれを「親心」と美化して流しました。

 この報道では図らずも露呈したように、「拝謁記」には裕仁のさまざまな発言があるはずです。なにしろ「約5年間(1949年2月〜53年12月)、613回、330時間以上」にわたる「拝謁」の記録です。NHKの報道は、その中からNHKが自社の視点(価値判断)で取捨選択・編集したごく一部であり、一面的・恣意的な裕仁像であることは明らかです。

 NHKは「拝謁記」の全文を公開すべきです。

 「拝謁記」は宮内庁長官(当時)と天皇の会話の記録であり、れっきとした公文書です。NHKが誰からどのような経緯でそれを手にしたかは問いませんが、入手しているなら自社の判断で直ちに全文公開すべきです。もし他者が所有しているのであれば、NHKはその所有者(取材源)に対し全文公開を進言すべきです(NHKには見せているのですからまさか拒否はしないでしょう)。それが報道機関、しかも「公共放送」を自認している者の責任・義務ではないでしょうか。

 「拝謁記」はその全体が公開され、裕仁の発言が全面的に明らかになってはじめて、「歴史的資料」といえるのではないでしょうか。

 ◆ NHK特集:昭和天皇の呆れた「反省」
   &日本国憲法下で「統治権の総覧者&統帥権の保持者」気分?


皆様 こんばんは。増田です。これは、BCCでお知らせしています。重複・超々長文、ご容赦を!以下、見逃した方も多いかと思い、お知らせします。

 NHKは8月17日(土)、8月18日(日)2夜にわたり、初代宮内庁長官・田島道治(たじま・みちじ)の「5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』を入手しました。」として「昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対でその一節が削られていたことがわかりました。」という趣旨のことを放映しました。


 たぶん、この報道を見ていないで、NHKの見出しだけを見ると「裕仁さんは本当に反省してたんで、それを表明させまいとした吉田茂は悪いやっちゃ」(笑)みたいに見えるかもしれませんが、それが全く逆だってことが、このアーカイブを見ると、よく理解できると思います。

 NHK担当者やコメントした「専門家」さんは、裕仁さんは「戦争への後悔を繰り返し語り」とか「国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望した」などと言ってます。しかし、この田島の記録を見ると、昭和天皇は、あのアジア太平洋・侵略戦争に対して全く無反省であることが明瞭です。

 「東京裁判で被告訴追を免れるための言い訳」集(笑)である『昭和天皇独白録』(文芸春秋 1995年)と全く同じ…当然と言えば当然ですけど…で、戦争の原因は全部他人のせい(軍部、近衛、アメリカ)のせいにし、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すれば」!? なんて言っているのが「深い悔恨と、反省の気持ち」という言葉に値しましょうかねぇ?

 しかも、18日のアーカイブによると、彼は日本国憲法下で、自分が「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」(第4条)、即ち国事行為しかやってはいけない「象徴」になった、という事は全く理解できず、ず〜〜っと「日本国の統治権の総覧者にして大元帥」のつもりでいて「日本国憲法尊重擁護義務」なんて、一度も考えたことは無かった、ってことが、この上なく、明瞭になりました!

 以下、アーカイブから、抜き出します。

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 ◆ 繰り返し戦争を回顧 後悔語る|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB

 ※ 8月17日 NHKスペシャル放映分
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-01.html
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-02.html
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-03.html
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-04.html

 ●昭和27※年4月5日の拝謁では、間接的な原因を結果に結びつけて厳しく批判する意味の「春秋の筆法からすれば」という言い回しを使って、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」とも述べ、日米開戦を防げなかった責任は開戦時の総理大臣だった東條英機の前任の近衛文麿にあるという認識を示した(※1952年)

 ●昭和25※年12月1日「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ妥協してあとの事ハ絶対駄目と出てくれゝばよかつた」(※1950年)

 ●大正10年のワシントン海軍軍縮条約に触れ、「五五三の海軍比率が海軍を刺戟(しげき)して平和的の海軍が兎に角く(とにかく)あゝいふ風ニ仕舞ひニ戦争ニ賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」と述べたと記されていて、アメリカとイギリスが中心となって日本を抑え込んだ「ワシントン体制」が太平洋戦争の遠因だという認識を示していたことがわかりました。

 そのうえで、軍縮条約締結時のアメリカの国務長官の名前を挙げ、「春秋の筆法なればHuphes(ヒューズ)国務長官がパールハーバーの奇襲をしたともいへる」と述べると、田島長官が「これは此(この)御部屋の中だけの御話でございます」と決して他言しないよう釘を刺したことが記されています。

 ●昭和27※年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」(※1952年)
――――――――――――――――――――――
↑ ↑ ↑
 これが、全くの真っ赤なウソだってことは、1945年2月14日に近衛が「敗戦は必至で、共産革命が心配だから、講和しよう」と内奏したのに「もう一度戦果を挙げてから」と拒否したことから明らかで、この事実は有名です。
 で、以下は真実を語っているので、NHK担当者は、この裕仁さんのウソぐらいは注釈してもいいと思うのですけど…
――――――――――――――――――――――
 ●昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されていて、いわゆる「一撃講和論」にあたる考えを持っていた

 ●最初に昭和天皇が国民へのメッセージに言及したのは講和をめぐる日米交渉が本格化していた昭和26※年1月24日の拝謁でした。(※1951年)
 この中で昭和天皇は「媾和となれば私が演説といふか放送といふか何かしなければならぬかと思ふがその事を考へてくれ」

 このとき昭和天皇は、自らのメッセージの内容について「困る事が二つあると思ふ」と、懸念を語った

 ●その1つは領土の問題だとして小笠原諸島と沖縄を返還しないというマッカーサーの方針に言及し、「そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが…」
――――――――――――――――――――――
↑ ↑ ↑
 よ〜〜、まぁ、しゃ〜しゃ〜と、おっしゃいますことよねぇ…裕仁さんが、自分の地位を守るために、マッカーサー宛に送った1947年9月20日の沖縄売渡メッセージが、後でバレルなんて夢にも思ってなかったんでしょうね…
――――――――――――――――――――――
 ●さらに、「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくか ちやんと実状を話すかの問題があると思ふ」
――――――――――――――――――――――
↑ ↑ ↑
 これには笑っちゃいますよね…「私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくか」!? 裕仁天皇には、あのアジア太平洋戦争の「最高責任」が法的にもしっかりある、ってことを「カモフラージュでゆく」ことにしてきたことを正直に告白してます!? もちろん、死ぬまでも死後も現在まで「カモフラージュでゆ」きましたが…
――――――――――――――――――――――
 ●昭和27年1月11日の拝謁では、昭和天皇が「私は例の声明メッセージには反省するという文句ハ入れた方がよいと思ふ/此前(このまえ)長官は反省するといふと政治上の責任が私にあるやうにいいがかれるといけないといつたが私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と述べたと記されています。

 さらに昭和27年2月20日の拝謁では「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めたうえで、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すれば」
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↑ ↑ ↑
 これが「深い反省・悔悟」!? って、理解できますか? 評判の悪かった東久邇の「一億総ざんげ」を当の裕仁さんが言う!? 「反省といふ字をどうしても入れ」たい、ったって、その「反省」の内容ときたら「一億総ざんげせよ」って…
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 8月18日(土)のアーカイブには、ただ、もう、唖然・茫然です!

 ◆ 東西冷戦下 再軍備や改憲にも言及
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1

 ●「(昭和27※年3月14日)では、昭和天皇がおことばを通じて国民向けのメッセージを発する平和条約発効の記念式典が、日本国憲法の施行5周年を記念する式典でもあるため「式辞の中ニ憲法の事ニ 少しもふれぬとふ訳ニはいかぬと思ふ」と述べたうえで、「憲法中 必しも賛成でない条項もあるのだから憲法の総ての条項に賛成ととれぬやうに書いて貰ハないと困る。」!?(※1952年)

 ●「アメリカのダレス特使が来日し、講和をめぐる日米交渉が本格化していた昭和26年2月15日の拝謁では、田島長官が「再軍備の声がありますれば 警察でも軍でも あゝいふ性質のものは中心の人を欲しますが 米国ハ大統領が元首で首相でもありますから司令官ですが 日本では如何なりませうか」と尋ねると、昭和天皇は「それは元首象徴だらうねー」と述べて、その場合は自分が司令官になるのではないかという認識を示したと記されています。
 そして田島長官が「政治ニ天皇は関与されぬ御立場上 如何(いかが)でございませうか」と言うと、昭和天皇は「あれは政治ではないだらう 治安といふ事は政治とハいへぬだらう」と述べ」!?
――――――――――――――――――――――
↑ ↑ ↑
 昭和天皇は、自衛隊の大元帥になるつもりだったんですねぇ!? とにかく、日本国憲法なんぞ、全く頭に入ってなかった…「象徴」=「日本国元首」=「統治権&軍隊統帥権の保持者」と天皇裕仁さんは思い込んでいた!?
――――――――――――――――――――――
 ●「昭和27年3月8日)で、田島長官が「吉田は矢張り憲法と再軍備で陛下の御心配の点で今度はひつかゝりましたようでございます」と言うと、昭和天皇が「改正すればいゝではないか」と述べたと記されています。田島長官が「国会ハ多数でありましても国民投票が十分見通しがつかぬ為ではございませんでせうか」と述べると、昭和天皇は「そんなものが入るか」と驚き、田島長官が「今度の憲法ではそうだと存じます」と説明したと記されています。」!?
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↑ ↑ ↑
 昭和天皇は、全く、日本国憲法を読んだことが無いんでしょうか? つまりは、初めっから日本国憲法を守る気なんぞ全く無かったんですね…吉田首相に対し「再軍備せよ」と政治干渉しようとしたのです。以下の記述も、この上なく、このことを証明してます。
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 ●「昭和27年3月11日の拝謁では、昭和天皇が「…侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが 侵略者が人間社会ニある以上 軍隊ハ不得已(やむをえず)必要だ…」と心情を吐露したと記されていました。 これに対して田島長官は「その通りでありまするが憲法の手間そんな事ハいへませぬし 最近の戦争で日本が侵略者といはれた計(ばか)りの事ではあり、それは禁句であります」と 苦言を呈した」
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↑ ↑ ↑
 昭和天皇は初めっから、日本国憲法を守る気なんぞ全く無く、昭和天皇自身が命じた侵略戦争への「反省」なんて、これっぽっちも無かった!?
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 でも、NHKの、この報道を担当した人たちは、本当に不勉強ですよね。
 山田朗・明治大学教授や吉田裕・一橋大学名誉教授や豊下楢彦・元関西学院大学教授の昭和天皇研究の成果に全く無知なのではないでしょうか。
 せめて豊下氏の『昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) 2008年』ぐらいは、読んでから番組を作ってほしいものだ、とつくづく思いました。


転載元転載元: 今 言論・表現の自由があぶない!

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