弊院の理念

新しい予防医学をめざして

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治療方法

弊院は弁証論治を行う鍼灸院です。
 
   夢分流打鍼術      刺さない鍼の治療    刺鍼による治療       灸治療
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   東洋医学(伝統中国医学)の診断治療方式は、「弁証論治」と呼ばれ、鍼灸と漢方薬から成り立っています。まず、四診(望診・聞診・問診・切診)による多面的診察を行います。望診には舌診・気色診など、切診には脈診・腹診・原穴診・背候診などがあり、問診から得られる情報と重ね合わせ、東洋医学独自の視点から問題点を見つけ出します。
 
  この問題点を、八綱弁証・気血津液弁証・六経弁証・臓腑経絡弁証・衛気営血弁証など、さまざまな角度から分析を進め、(病状や体質から割り出す治療指針)を導き出します。証が確定すれば、はじめてそれに対応する経穴(ツボ)や、漢方薬を用い治療を行います。この一連の過程を、弁証論治と言います。
 
   弊院は、東洋医学学会「北辰会」に学び、切診(触診)の中で最も重要な「脈診」を、専門に、鍼灸治療を行っております。東洋医学の原典「黄帝内経」に次のような記載があります。「善用鍼者、察色按脈、而知病所生。以治則無過」(善く鍼を用いる者は、色を察し脈を按じて、病の生ずる所を知る。もって治すれば過ち無し)。脈診には、六部定位診・脈状診などがありますが、弊院ではこれらに加えて、脈型診を体系化し、弁証論治の裏付けを行っております。
 
   このような弁証論治を行う鍼灸治療は、打つ鍼の本数が少ないのが大きな特徴です。これには、ツボの効果を一か所に集めることで、肩こり・腰痛だけでなく、内科疾患・うつ・膠原病・アレルギー疾患・ホルモン異常など、あらゆる病気に対して鍼灸の効果を最大に発揮できるという利点があります。この利点を生かすためにツボを絞り込むには、正確な弁証が欠かせません。
 
   体質は人により異なります。それと密接にかかわる病気もまた十人十色です。東洋の英知は、そこに早くから着目し、弁証論治という実を上げました。それは洋の東西を超えて、連綿と受け継がれているのです。
 
●刺入にもちいる鍼は、使い捨てディスポーザル鍼のみです。
●打つ鍼の本数は1〜3本です。
●初診は、1時間ほど問診に時間をかけることがあります。治療もふくめ、2時間程度の時間を見込んでおいてください。
●2診目以降は、1時間弱を見込んでおいてください。
●予約に空きがない場合、初診の診察は午後1:30からとなります。
●鍼や灸による不快な痛みや熱さがあれば、ご遠慮なくお申し出ください。
●もちいる鍼には以下のものがあります。
毫鍼‥‥刺す鍼。髪の毛ほどの太さ。小児には用いない。
鍉鍼‥‥刺さない鍼。金製と銀製がある。大人から小児までもちいる。
擦過鍼…摩擦するヘラ状の鍼。乳幼児用。
●もちいる灸には以下のものがあります。
知熱灸…ゴマ粒〜米粒大のモグサ。途中で消して熱さを調整する。
温灸‥‥ゆっくりと温める。
 
 
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イメージ 1大自然の循環、健康に生かせ         上雅也
 
 漢方では、体を養ううえで大切な要素があるとする。それは季節である。季節とは、春夏秋冬のことだか、それに対応して「生・長・収・蔵」という言葉がある。春に生まれたエネルギーが、夏に拡大・成長し、それが秋には縮小・収束され、冬は蔵して静かに春の生を待つのである。これは、植物・動物を問わず、この世に生きとし生けるものすべてにに共通することであるという。
 
 ここから推測できるのは、活動期は春と夏、ということである。私はこのことを知ってから、春夏は積極的に体を動かすようにし、秋冬はそれを上回らないように心がけている。
 
 私は家庭菜園をやっている。自然農法というのは、春と夏いそがしく、秋冬は仕事が少ない。自然と漢方理論にかなっているのだ。自分で体を動かして得た旬の食材が美味しくないはずはなく、食事が美味しければ気分もさわやかになるのは自然の成り行きである。そして、汗を流そう!という意欲につながる。
 
 私の3人の子供たちは、こうした季節の野菜ばかりを食べているが、みな驚くほど野菜好きである。秋冬春と我慢して夏に食べるキュウリやトマトのうまさに大騒ぎし、秋になればホウレンソウのおひたしの取り合いになるなど、旬のものしか食卓に出さない我が家では毎年のことだ。メタボリック症候群などとは縁の遠い大人になるのではないかと期待している。
 
 季節に合わせるだけで、不思議と良い循環ができることを、私は数多く経験してきた。
 
 季節が体に及ぼす影響は未知の部分が多いが、気温が低いと血流が変化することがある。そんな時は血圧が高めらな無理をしないことも大切だろう。それでなくても、寒い冬は何となく気ぜわしいものである。身も心もゆっくり、ゆったりと保つことが、休息期の冬に応じた過ごし方だ。季節は変えられないので、生活を少し変える。二千年前からの知恵である。
 
 漢方の理論は、科学的裏付けのないものが非常に多い。しかし、根拠が確認できていないことでも、それに関心さえ持てば、見逃していたものが見えてくるかもしれない。
 
 例えは、「脈診」という手法が漢方にはある。脈診とは、手首の動脈を触診し、体全体が正常か異常かを判別する漢方独自の診察方法であるが、正常と診断される脈の状態は、季節ごとに異なる特徴を持つ。春には春の脈、夏には夏の脈があるのだ。私は臨床の中で常にこれを用いている。春夏は元気はつらつ、秋冬はおだやかに、という大自然の循環にうまく乗せるためだ。四季それぞれの「健康」である。
 
  国家の命題である医療費削減をスムーズにするためにも、もっと漢方理論を積極的に参考にし、体と季節について関連性がないか議論があってもよい。根本的な病気の解決方法のヒントが「季節」に隠されていると思う。
                                (2007.4.10.朝日新聞)
 
 
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新しい予防医学、漢方の歴史に学べ  上雅也
 
  「黄帝内経」という中国漢代の書物に、「未病を治す」という言葉が見られる。未(いま)だ病気ではないものを治療する、つまり予防医学のことである。病気になる前に、早期に原因を解決することの重要性は、時代と場所を問わない。
 
  予防医学での最も大きな成功は、いわゆる伝染病をはじめとする感染症の減少だろう。天然痘は世界から消えた。危険性の高いこれらの病の多くは、もはや我が国の医療での筆頭課題ではなくなった。これが予防の威力だ。ウィルスや細菌などの病原微生物という原因を発見し、除去を可能にしたのである。
 
  今日、問題にされることが多いのは、除去可能な外因によらない病気、つまり、生物学的に除去が難しいガン・成人病・遺伝子疾患・精神病などである。
 
  これらの中に生活習慣病と呼ばれるものがある。生活習慣という原因を「除去」することで予防できる病気のことだ。感染症をほぼ払拭した科学の芽は、残った病気に照準を合わせ、新たな予防医学の成功に向けられている。
 
  この予防医学を、実は漢方は2000年以上前から実践してきた。
 
  たとえば漢方では、「飲食不節」という生活習慣は「脾を傷(やぶ)る」とする。「脾」は漢方の独自概念のひとつで、飲食や運動機能を健全に保つ能力を持ち、これが病むと「嗜臥」や「体重節痛」という症状があらわれる。横になるのを好む・体や関節の重さ痛みで運動能力が低下する、という状態になるのだ。つまり、脾の病の本質は、飲食の不節制と運動不足であることが分かる。これはメタボリック症候群の本質と同じである。古代の経験はすでにそれを捉えていたのだ。
 
  飲食・運動のほかにも漢方の養生法は豊富にある。これらノウハウの蓄積を研究して現代に生かすべきだ。
 
  病気の原因として生活習慣を取り上げるとき、ひとつ気をつけるべきことがある。病因を、病原微生物に求めるのと、生活習慣の乱れに求めるのとでは、大きな違いがあるということである。前者は純粋な外因なので、患者が治療を望みさえすれば、医者はこれを強制的に除くことができる。だが、生活習慣はそうはいかない。生活をする本人が自らの意思で、管理・制御する必要が出てて来る。医者はすべてをコントロールできず、主導権はむしろ患者自身の「気持ち」にある。
 
  漢方医学では、この問題に早くから直面していたと思われる。そのため「心身一如」という考え方を用いた。心と体を別次元のものとしない治療方法の追求である。漢方が生んだ「五臓六腑」という考え方は、身体の生理活動だけでなく、意識による精神活動もその概念の中に含む。心と体どちらを抜きにしても語ることのできない生活習慣というものを、「治療」の対象にしようとした古人の強い意図が感じられる。
 
  こうした発想を現代風にいえば「脳科学」があてはまるだろう。心は農が生み出すものであり、体は間違いなくその脳とつながっている。古代にあっても、思考は同じものを捉えていたのかもしれない。
 
  新薬や手術などの劇的手段を持たない古代人は、限られた中で様々な工夫をこらし治療にあたった。そうした過酷な環境のなかでこそ生み得た、言えるこれらの考え方は、時を超えてなお新鮮である。
 
  「未病」とは、生活習慣の乱れそのものを言ったのだろう。生活習慣は、洋の東西の考え方を一元化し、医学に新しい流れをもたらす可能性を秘めた概念なのだ。現在主流となっている医学の進歩は、脳死移植・遺伝子操作などの難題を、その先端において生み出した。私は、それらを可能にする高度な技術を有しつつも、その「武器」を必要としない世の中を夢見るのである。
 
 
 
 
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プロフィール

上 雅也(かみ・まさなり)イメージ 1
 
1969年 日本に東洋医学を伝えた「呉人」の集落・
           明日香村呉原に宗家嫡男として生れる。
1982年 父が癌で他界
。鍼灸師が父の予後を予
           見、鍼灸研究を決意。
1985年 日本漢法研究会・大久保之皓先生の薫陶
           を受ける。
同年   鍼灸道具を入手し追試開始。
1990年 学生生活のかたわら杏林会鍼灸接骨院に入職。
同年   沢田流鍼灸術の研究開始。
同年   無農薬有機栽培開始。
1991年 近畿鍼灸漢方研究会参加。
1992年 同志社大学卒業。
1993年 
北辰会にて弁証論治・鍼灸穴性学・脈診の研究開始。
1995年 大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)卒業。
同年   明宗堂鍼灸院開院。
1999年 北辰会講師就任。
同年   北辰会退会。以後、脈診研究に没頭。
2007年 あすか医食同源郷の理念を朝日新聞紙上に紹介。
2011年 愛知医科大学に冷たい飲食に関する基礎研究を提言。世界初の試       みとなる研究が同大学にて開始。
同年  
日本東洋医学会・中和症例検討会にて漢方薬研究開始。
2012年  眞鍼堂開院。
 
 
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「体」考・・・人はなぜ葬るのか・・・   上雅也
 
 愛する人が死んでしまった。でも悲しんでばかりはいられない。残された家族には大切な仕事が待っている。とにかく死体を放っておくわけにはいかないのである。現代の技術なら、眠っているのと何ら変わらない状態で永久保存もできるだろう。それが火葬と同じ費用でできるなら、どちらを選択するだろうか。
 
 ぼくなら火葬がよい。待て待て、死んでしまっても、その体だけなりとも大切に保管するのが愛情というものではないのか。無残にも焼き払い、粉々にして小さな壺に詰め込んでしまいたいとは、本当にその人のことを愛していたといえるだろうか。
 
 それもそうだが、でもやはり、ガラスケースの中で何十年も生き生きとしている死体を想像すると、その方がなぜかつらい。だからといって愛する人の体を焼いたり埋めたりしたいと感じるのも変だ。ぼくは死体を邪魔者扱いにしているのだろうか。
 
 愛する人の体とは、その人にとってどんなものだろう。たとえば我が子が病気になる。高熱を出して苦しそうだ。身代わりになってもよいから、この子を助けたい。子だけでなく、親もつらさを感じている。つらさを感じるのは脳である。不思議なのは、子供の体は一つなのに、その体のつらさを感じる脳は二つあることだ。
 
 親は子の体を「共有」しているのである。愛する人と向き合う時、こう考えた方がしっくりくる。こういうケースは赤の他人にはない。ぼくとあなたとは、心も体も別物である。ところが、ぼくとぼくの愛する人とは、心は確かに別にちがいないが、体は一つなのである。
 
 人が、愛する人を葬る理由はここにあると思う。永遠に自分の死体を見ることのない我々にとって、ついさっきまで共有してきた体が死んでしまったら、その体を消し去らずには、この生きた体を一歩たりとも未来に運ぶことができないのかもしれない。自分の死体がここにない限り、愛する人の死体もここには存在できないのだ。
 
 愛する人を失ったことのない人たちは幸運だ。そして彼らは本当の死体をまだ見たことがない。心の通わない死体はモノにすぎない。本当の死体とは、自分の死体か、自分の愛する人のそれ以外ない。モノならば目に触れなければOKだろう。だが隠すことと葬ることとは違う。葬りたいという衝動は、亡くなった人と体を共有できる人にのみ起こるものではないだろうか。
 
 愛する家族を亡くすたび、ぼくは、ぼくの一部が消えたと感じた。そして愛する家族が増えるたび、ぼくの体は大きくなったと感じた。同じように愛する人が世界中に増えるならば、ぼくは地球大に大きくなることも可能なのだろう。「この体」は「ぼくの体」の一部にすぎないからである。
 
 
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