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自分の名前が嫌い。
だって、大切なあの人を連れて行ってしまったから……。
「……ゆ…き…美雪」
開けっ放しのドアから、部屋を覗くように母が自分の娘を呼んだ。美雪は懐かしいベッドに腰をかけ、アルバムを開いていた。集中して見ていたせいか、母の呼ぶ声に遅く反応し、顔を上げた。
「あ、母さん。ごめん、どうしたの?」
美雪はアルバムを閉じると、目線を母のほうへ向けた。久しぶりに見る母の顔はどことなくやつれて見える。三年ぶりに実家に帰ってきたが、母とは電話などで会話はしていたので、今日も「ただいま」と一言挨拶を交わしただけで自分の部屋に来てしまった。母の顔を見て悪い事をしたなと美雪は思った。
「お昼ご飯、食べてく?」
母の問いかけに美雪は部屋の時計を見た。中学の時から掛けていたプーさんの時計。先端がハチの形をした針がふたつとも十二時をさそうとしていた。美雪は少し考え、「うん」と返事をすると、アルバムを本棚へと戻した。
母と共に階段を下りていくと、美味しそうな匂いがする。お昼は何だろうと想像しながらダイニングへ着くと、その匂いは美雪の大好きな肉じゃがだとわかった。その他にもサラダや惣菜など、美雪の好きなものがずらりと並んでいる。久しぶりに帰ってきた娘のために、母が用意してくれたのだ。
「おいしそう」
美雪は昔のように自分の席に座ると、母がご飯をよそってくれた。「いただきます」と手を合わせ、箸を持つ。母は美雪の向かい側に座り、娘が食べている姿をながめていた。
「母さんは?食べないの?」
「私は後でええよ。それより、これから行くんやろ?何時?」
「二時。でも少し早めに出る」
美雪が肉じゃがを口に運び、「おいしい」と独り言のように言うと、母は小さな溜息を漏らした。
「ちゃんと食べとるん?だいぶ、痩せたんやない?」
「大丈夫。母さんが考えてるよりずっとまともな生活してるから。心配しすぎ」
「でもあんた……」
「ほんとに大丈夫よ」
母と娘はそれから会話を止め、静かな沈黙が流れた。しばらくして「ご馳走さま」と美雪は箸を置いた。
「そのままでええよ」
「部屋に行って荷物取ってくる」
ダイニングを出る時、美雪は振り返り「ごめんね、心配掛けて」と母に言った。母は席に着いたまま‘行きなさい’という様に手を振った。
時計が一時を回る頃、美雪は家を出た。正樹の家までは歩いても二十分ほどだが、美雪はゆっくりとした歩調で、かつて慣れ親しんだ道を歩き始めた。
正樹の母親から電話が来たのは一週間前だ。三月に入ってすぐ、東京の職場に直接電話がかかってきた時には驚いたが、すぐに誰だかわかった。正樹の母、道子おばちゃん。その声は懐かしく、そして辛かった。電話で、どうしても美雪に渡したい物があるから、今度帰って来た時に来て欲しいという事だった。美雪は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。あまりにも、あまりにもつらすぎて。それは言い訳にしかならないのもわかっている。だがどうしても、彼の墓前に立つ事ができず、四十九日も、一周忌も、そして去年の三周忌も美雪は滋賀へは帰れなかった。だが今回は美雪の母のほうにも道子から連絡がいったらしく、母からも有休を取ってでも帰ってくるよう電話が来たのだ。
(私に渡したい物?)
美雪は考えた。そんな物、いらない。だって、彼はもう戻ってこないのだから……。
―――三年前
「うそや〜っ」
「ほんま、ほんま」
滋賀大のキャンパスで、それぞれの講義が終った後、待ち合わせた正樹の一言に美雪はショックを受けた。
「ちゃんと約束通り終らしたど〜」
「うう〜っ」
ニヤニヤしながら正樹が口笛を吹く。彼が言っているのは卒論の事だった。まだ十一月だというのに終わらせたというのだ。なぜこんな早い時期に……理由は美雪と賭けをしたからである。大学生活最後だというのに、性懲りもなくまた山登りをするというのだ。正樹が所属している山岳部でも大抵の四年生はこの時期、就職活動や卒論の準備で参加しない。四年生で登るのはよっぽどの山バカか、就職浪人を決め込んだ者だけだ。その山バカが正樹である。小学校からの幼馴染で、高校の時から付き合っている美雪は、四年になってもまだ山登りに夢中になっている正樹にあまり感心しなかった。だから正樹と賭けをしたのだ。“今度の参加の前までに卒論が終れば登っていい”と。その賭けをしたのが九月。まさか今度の登山準備までには到底間に合わないと美雪は思っていた。だがそれがかえって正樹の闘争心に火をつけたのか、見事だと教授を唸らせるまでの卒論を書き上げたのだという。
「これで文句は無いやろ」
「無いけど……」
就職はすでに二人とも東京の会社に内定をもらっている。これでは文句のつけようがない。美雪は渋々OKを出した。
「やった!ほな早速部に顔出してくるわ。今日は先帰っといて」
正樹は美雪に手を振ると、足取り軽く去っていった。美雪はしょうがないなと、喜ぶ正樹の姿に苦笑した。
十二月に入って、登る山が槍ヶ岳に決まったと、正樹は美雪にその内容を話した。いつもの事だが、自分が登る山の標高やらルートなど、事細かに美雪に説明するのだ。そしてひと通り説明し終えると、さあどうだと言わんばかりに美雪の意見を求める。そして毎回決まったセリフを美雪は言うのだ。
「ばっかみたい」
「……きた。きたきた、来たねぇ〜っ!その言葉!!いいねぇ〜っ、美雪ちゃん!待ってたよ君のそのセリフ!いや、実にいいっ!」
バカ正樹。と、また言いたくなるが、そこはぐっと堪える。時々自分でも何でこんなマゾ男と付き合ってるのか不思議になる時がある。だが大体、雪山へ登ろうなどと考える人間は大抵マゾなのかもしれない。でなければ、わざわざ過酷な状況の雪山にすき好んで登ろうなどとは思わないだろう。
「俺ね〜、美雪のその冷めた物言いに、ぞっくぞくしちゃう」
「冷めてるんやない。わかんないだけや」
「え〜っ!貴おじの娘のくせにっ!」
正樹が言う“貴おじ”とは美雪の父の事である。
正樹は小三の時、親の離婚が原因で転校してきた。正樹の母と美雪の母は‘はとこ’同士で、遠い親戚でもあった。転校してきたばかりの正樹は今とは違い、細く病弱なタイプだった。そのせいか、よくいじめの的にされる事が多かった。美雪はその当時から男勝りな性格で、父が柔道の師範でもあったので、自分も柔道をやっており、向かうところ敵無しだった。正樹とは親戚ということもあり、美雪はよく正樹を助けてやっていた。しばらくして正樹も美雪の父から柔道を習うようになり丈夫になると、次第にいじめもなくなった。美雪の父・貴志は男の子が欲しかったせいか、正樹をとても可愛がった。正樹に山を教えたのも貴志である。
正樹が初めて登った山は、高一の時の富士山であった。帰ってきた正樹はしばらく興奮した様子で、美雪に山の事を話した。今もそれは同じだ。それからも年に二、三回は貴志と山へ登り、二人であれやこれやと騒いでは、いつも満足していた。
<続く>
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はなみさん、うまくなったねぇ。。続き続き♪
2008/12/28(日) 午後 8:54
雪山上るのはたいていマゾ(笑)そうかもしれない。
2008/12/28(日) 午後 10:22
うわ、ずっと一緒で、時間をかけて親密になって、それがいきなり居なくなったら。しかもこんなに濃い成り行き。
そりゃつらいでしょうねえ。
2008/12/28(日) 午後 10:24 [ イカダ ]
ストーリーの展開の仕方がうまいなあ。
正樹君がこの先どうなるのがわかっていて、でも、そのお母さんが渡したいものがあるって言うし、それまでの過程がものすごく気になる展開…うーん、今からなんかつらくなってきたぞ。
滋賀は友達が居るので時々行きます、黒壁スクエアとか大好きでよく行くんですよ^^いいところですよね。
2008/12/29(月) 午前 9:27
ばっどさん ほんと?ほんと?やだわ〜、ちょーしに乗っちゃうわよ〜ん(アホ)
2008/12/29(月) 午後 4:21
タヌキさん そうなのね。あ、でも最近タヌキさんもMに・・・。いえいえ、何でもございません。
2008/12/29(月) 午後 4:22
イカダさん 幼馴染の男女って実際はどうなんでしょうね。この二人のようにカップルになるってよっぽど惹かれあってのことだと思います。その分、美雪には辛いのかも。
2008/12/29(月) 午後 4:24
さなさん 今回正樹がなくなってる事はあえて隠しませんでした。正樹の死が大前提にあって、正樹が何を伝えたかったか。それがこのお話の書きたかった部分なんです。
滋賀は琵琶湖のホテルに泊まったぐらいであまり知識が無いんですよ〜。それでも舞台にしちゃう・・・。大胆なんだかいい加減なんだか・・・(多分後者)
2008/12/29(月) 午後 4:27
はなみさん今日は・・(._.)。
山の物語、もう出来ていたのですね、何時の間にやら・・(^_^)。
28日は自宅でパソコン見ていません、年代物のパソコンですから、
年に1〜2回位しか動かしませんね・・(^_^)。
槍ヶ岳ですか、私の山登りとは格が違いますね・・!!。
私も一度はアルプスに登ってみたいですね、なかなか機会がありません。
一人では行けませんしね・・(^_^)。
小説楽しませて頂きます・・(._.)。
2008/12/29(月) 午後 7:56
この続き、どうなるのかしら。私の父も山岳をしていたので、他人事じゃないような気がします。山は危ないです。
2008/12/29(月) 午後 11:08 [ - ]
WJさん 雪山ではありませんが、私の住む所は山に囲まれてます。春には山菜採り、秋になるときのこ狩りの一般の方が多く訪れますが、毎年のように事故で怪我をしたり亡くなったりしています。ベテランの方でもそれは同じ。確かに危ないですよね。
2008/12/30(火) 午後 0:50
トトロさん 山好きのトトロさんにはちょっと申し訳ないお話になってしまったかもしれません。。。
でもいつも読んでいただき、ありがとうございます!
2008/12/30(火) 午後 0:51
山男にゃ、惚れるなよといいますからね。。。
渡したいものって、いったい何なんだろう。。。
2008/12/31(水) 午後 6:26 [ 藤中 ]
藤中殿 私も山に登る男はいやですね。うーん、それでも山に登る人はたくさんいる。。。それだけのものが山にはあるのかな・・・。
2009/1/1(木) 午前 1:11
こんばんは!
やっと感想が書けました。お待たせしてすみません!
この作品の反響がすごくて、3の記事にはコメントが多かったので
こちらにトラックバックさせていただきました☆
2009/1/5(月) 午後 8:00