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(「−前編−」から続く)
ストの長い歴史の中で培われてきた観客による「拍手」「手拍子」「リボン」「タンバリン」「花束渡し」…これらは外形的には「観客による舞台への直接介入」に他なりません。一歩間違えればすべてを壊す恐れを孕むものです。それでも私がこれらを肯定したいのは、こうした行為を通した「演者と観客の相互作用」による感動的な場面を数多く観てきたからです。そしてそれこそが「ストの舞台が持つ魅力」であり、これからも観続けていきたいと考えるからです。
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「花束渡し」が可能だったころの「浅草」では、受け取った舞姫だけでなく、それを渡したファン、そしてそれを見ている観客までが涙するような感動を呼ぶ場面に度々立ち会うことが出来ました。そういった数々の光景は、私の脳裏に今も鮮明に刻まれていて、目をつぶるとありありと思い出すことができます。
当時、中堅どころだったある舞姫は、自景のベッド構成に、それまでにないほど悩みに悩んでいました。楽しさよりも、苦しさが何倍も大きい日々だったようです。そんな日々をくぐり抜けて迎えた楽日の最終回。その舞姫にファンから花束が贈られました。楽日の花束は、渡すファンにとっても受け取る舞姫にとっても特別な意味があるものです。戻りは移動盆でした。移動盆まで戻ったその舞姫は、そこで4回目まで見せていたパフォーマンスを演じようとはしませんでした。ただ立ち尽くし、花束に涙が浮かんだ顔を埋めて抱き締め続けました。その姿に向けて場内から贈られた拍手の大きさ、温かさを私は忘れることが出来ません。
ある公演で「浅草」に初めて乗った新人舞姫がいました。初日の舞台は、観ている側にも緊張が伝わってくるような演じぶりで、心の中で思わず「頑張れ!」と念じてしまうようなものでした。1回目、2回目と過ぎていく初日…。何回目のことだったでしょうか。その新人舞姫に“初めての花束”を渡す観客が現れました。「破顔一笑」という四字熟語は、ああいう時に使うのでしょう。前盆で花束を受け取ると、同じ花道とは思えないほど、行きとは違う表情で戻ってくる様子が目に入りました。もちろん新人舞姫ですので「花束で見得を切る」といった気の利いたことが出来ようはずもありません。普通に花束を抱え、本舞台で振り向くと、笑顔のままペコリとお辞儀をして自景を締めくくりました。その笑顔に私は「これで大丈夫だ」との確信を持ちました。その新人舞姫は、初日には想像も出来なかったような“上げっぷり”で公演を駆け抜けてみせました。その原動力の一つに「初日の花束」があったと、私は今も信じています。
花束渡し禁止後、こうした感動的な「相互作用」は確実に数を減らしました。
このような相互作用は、時に演者のステージを根底から変える、そして観客の舞台への観方、考え方を根こそぎ覆すような力を持っていると信じます。なぜなら、そのような場面を観てきたからです。最近観劇を始めた方が、こうした光景に出会えないのは、とても残念なことだとすら思います。
もちろん賛否両論あることは承知しています。その上で、なおも「浅草での花束渡しの意味」を訴えたいのは、こうした思いがあるからなのです。せめて楽日だけでも「花束渡し」を解禁する回を作るわけにはいかないのでしょうか。楽日に贈られる花束が、記憶に残る数々の感動の名場面を作り出してきた歴史を軽視すべきでないと考えます。そのことを何度でも語り伝え、訴えていきたいと思うのです。
(※なお、考え方には個人差があります)
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2018年10月20日
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