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SB6物語 Vol.03

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bimota sb6ハイウェイラン

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SB6物語 Vol.03

本内容はあくまでも「私的」なものなので、まったく信頼できるものではありません。
そのため、コメントをいただくことは考えておりません。
しかしながらbimota SB6が誕生した背景、パフーマンス、各部の作り込み、etc
を文章に残したく筆を取りました。
そのことを「あらかじめ」おことわりしておきます。

それではどうしてbimotaは経営不振?になったのだろう。
おそらく革新的なセンターハブステアリング機構を持つTesi1Dの販売不振にあったのだろう。期待されていた日本市場での販売も伸び悩んだ。Ducatiエンジンを搭載したDB1を取り合ったほどの日本だから、フルカバードボデースタイリングのDB1と同様にTesiも成功するに違いと思ったのか?
Tesi1Dは、主任技師だったピエール・ルイジ・マルコーニが学生時代に研究した学位論文からはじまった。それは1983年にHondaVF400Fのエンジンを搭載したTesi1から始まった。その後、TTF1用Honda V4/RS750用エンジン搭載のカーボン/アルミハニカムシャーシのTeis2を開発した。耐久レースでポテンンシャルアップに注力する。1985年?日本の鈴鹿時間耐久レースにエントリした(実際には出走えず:原因は不明)。その後、フレーム構造をアルミ素材に簡素化して量産化を意識したTesi3が開発されてた。そこまでは主任技師のフェデリコ・マルテーニがこだわった油圧制御によるハイドロ・センター・ハブステアを装着して開発を続けられた。しかし、どうしてもリニアなステアリングを実現することができず、ワンテンポ動作が遅かったそうだ。その後、センター・ハブステアリングの発明者であったピエール・ルイジ・マルコーニがbimotaの主任技師に就任した。それは1989年のこととでスーパーバイクレーサーYB4EIRのシャーシを大改造したTesi4を急遽開発して「メカニカル・ハブステア」を搭載して道を切り開くことができた。なんと、1989年のシーズン前半にワールドスーパーバイクで1勝したYB4EIRと遜色のないタイムをミザノ・サーキットで記録したそうだ。この一件で未来への展望が開けた。その後、4気筒よりもVツイン2気筒の細身なエンジンがセンターハブステアに最適との判断で1990年Ducati851水冷Vツインエンジンを搭載するTesi1dが開発された。しかも、量産モデルとして登場して同時1991年からワールドスーパーバイクへの参戦がアナンスされていた。
その革新的なセンター・ハブステアリング機構を持つTesi1Dの不評が経営不振の原因になったものと思われる。これまでのオートバイにない、まったく新規のメカニズムに興味はあっても購入を決断させる、なにかが足りなかったのだろう。そのころの日本はバブル景気に沸き立っている時期だったこともあり500万近いプライスをつけていた。しかし、そんな高額車両はなかなか売れるものではない。いまもその状況は変わらない。
今話題のDucati Desmosediti RRは、800万を超えるプライスをつけているにもかかわらず、全世界から1500台のオーダー(2007年12月時点)が舞い込んでいるという。
それは世界最高峰のMotogpで勝利/チャンピオンを獲得していることが最大の原動力になっていることは間違いない。
2006 Desmosediti GP6をそのままロードモデルにしたレプリカモデルというコンセプトが裕福なお金持ちと熱狂的なドカティストの心をつかんだのだろう。
Ducatiは当初は400台の規模の生産を考えていると表明していた。それでも400台の枠を埋めるほどのオーダーは来ないと考えていた。
しかし、2006年シーズン、ロリス・カピロッシがライディングするDesmosediti GP6はMotogpで3勝した。
その後、800ccにスケールダウンしたGP7が通産11勝するという圧倒的なパフォーマスンが発揮した。
このことが大量オーダーの起爆剤になったのだろう。
Tesi1Dも1991年に参戦したワールドスーパーバイク選手権で勝利していたらその後の状況はかなりかわっていたかもしれない。しかし、Ducatiのワークスエンジンを搭載しているわけでもなく肝心のセンター・ハブステアの完成度が未知数では、いかんともしがたい。また、Tesi1dを一番理解しているbimotaワークスライダーが第1戦で転倒して大怪我を負ったため戦列は離れたことも大きかった。その後、代役を立てて参戦も継続するがTesiのポテンシャルを引き出すにはいたらず、10位前後のリザルトを続けて途中で参戦を休止してしまった。そのため菅生で開催された日本ラウンドには登場していない。1992年はイタリア国内のスーパーバイク選手権に参戦していたらしいが、リザルトは不明だ。そのころ2サイクルVツイン500ccオリジナルエンジンを搭載するTesi500でGP500参戦を目指していた時期でもあった。
そして1993年、bimotaの社長をつとめていたジュゼッペ・モーリは社長から退いた。1983年にマッシモ・タンブリーニと仲たがいしてまでbimotaを存続させることにこだわったモーリ氏だったが自らの経営手腕では、これ以上の発展は望めないと感じたのか、ベルガルダの資本参入を受け入れて自ら身を引いたのだろう。それはbimotaメカニカ創立20周年をミザノサーキットで祝った節目の年だった。
これでbimotaの創立者の3人、ビアンキ(BI)、モーリ(MO)、タンブリーニ(TA)はすべてBIMOTAを去ってしまった。
その後、1994年頃のインタビュー記事を見るとこう述懐していた。
1987年にバージニオ・フェラーリ/YB4EIRがワールドTTF1のタイトルを獲得したあと、1988年に向けて彼がbimotaファクトリーチームに残ってくれていたら、その後のbimotaの歴史は大きく変わっていただろうと語っていた。
それが意味するとことは、1988と89にワールドスーパーバイクのタイトルを連覇すればYB7/8/9シリーズの販売を大きく伸ばすことができたといいたかったのか?
そしてその余勢でTesi1Dの先進性を大いにアピールする。オリジナル直噴2サイクルエンジンを完成させて、もっと大きなオートバイメーカーに脱皮する。そのようなシナリオを思い描いていたのかもしれない。
でも、そんなことは語られていない。
モーリはレースの活躍でbimotaの社業を伸ばそうと考える経営の人だったのかもしれない。しかし、YBシリーズはモーリが期待するほど販売台数を伸ばせなかったのかもしれない。
その後、新たに社長に就任したウォルター・マルテーニとTesiを開発した主任技師ピエール・ルイジ・マルコーニの二人に後を託した。
そういう中でbimotaの特質を生かした売れる商品の開発がスタートした。
そして生み出されたがSB6だ!

写真1/2:Tesi4(YB4EIRのコンポーネンツを流用して急遽開発)
写真3:1990/91 Tesi1D(先進機能のセンター・ハブステアを始めて量産化した)
    水冷VツインDucati851エンジンを搭載


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