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RG500ガンマには国内仕様が存在した。
64psにディチューンされていた。
しかし、非常に乗りやすいかった。
スロットルを開けるとすぐに
リアタイヤにトラクションがかかり
2ストと思えないようなトルクを
発生した。
しかし、これは牙を抜かれた狼だ。
昔々、ライダースクラブに
一度だけガンマ500のフルパワー
(95ps?)のインプレが掲載されたことがある。
そのあまりにも強烈なパワーに大仰天。
こんなバイクを販売(海外)していいのか?
とまで言わしめた。

わたしはガンマ400を10年に
わたりは走らせていたが、
その強烈なパワーに酔いしれていた。
しかし意外と低速からトルクがあった。
おそらく同爆だったからだろう。
エンジンの完成度は非常に高かったと思う。
さすがにGP500で大活躍したグランプリレーサー
直系のスクエア4エンジンだと思う。
ガンマは思い出に残るバイクだった。


ところで、
牙をを抜かれた国内仕様のガンマ500.
そう思っていたのは最近までで、
トルクフルな性格に調教された
スクエア4は、、ワインディングでは
面白い走りうをするかもしれれない。
振り帰ってみれば思い当たることがある。

コーナーでの扱いやすさ、
いかにトラクションを路面にかけるかが
速さにつながるからだ。

低速から中速にかけてトルクフルで
しかも2ストなので瞬時に吹け上がる。
ガンマ400のときに感じていた
フラストレーションを払拭することが
できるかもしれない。
また。細いバイアスタイヤでも
リアステアで軽快に走れるに違いない。
フロント16インチタイヤは切り返しの
きっかけにすぎない。
スキーのストックのようなものだ。








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Epoca: Suzuki RG 500, il Mito nelle Corse 1974-1980 – Corsedimoto

www.corsedimoto.com/.../epoca-suzuki-rg-500-il-mito-nelle-corse-...
このページを訳す
4 日前 - Suzuki RG 500 L'opera dell'imolese Massimo Cuffiani racconta una delle GP più affascinanti e vincenti mai viste in 500GP.

時代:
Imolese Massimo Cuffianiの作品は、500GPで見られた最も魅力的で優勝したGPの1つ

 マッシミリアーノ・ガラヴィーニ、 2018年2月10日11時04分

私たちはイモラ(彼が生まれ育った街 - Massimo Cuffiani、スズキRG 500に全面的に捧げられた本を出版しました)を見ました。
オートバイの世界での経験の堅実な作家、デザイナー、グラフィックデザイナー(Bimota、その後Cagivaグループの1995年から2000年にかけてItaljetとEngines Engineeringで)、彼は4年間の研究の結果、本当に完全な仕事を書いた。

PRESENTATION 
- この本は、22日午後8時45分、
イマラのConfartigianato本部で正式に発表される予定です。
バージニオ・フェラーリ、マルコ・ルッキネリ、グラツィアーノ・ロッシ、フランコ・ウンチーニ、ロベルト・ガリーナ、ロリスレジアーニ、レアンドロBecheroni:ジャーナリストルイジRivola、ダリオBallardiniとアンジェロダルポッツォによって実施されるイベントは、作者の参加と、いくつかの著名なゲストが表示されますGianni Rolando。
公式ポスターが「スズキRG 500 NIGHT」としての地位を提示し何のためにチャンピオンの真のパレード:
静的な表示でも、イモラクラシックレーシングチームのコレクションからRG 500が存在します。
妙 - - 夜はチャンピオンシップの全体の歴史の中で最も象徴的な2ストローク4気筒の1へのオマージュもしますが、彼は、専用の出版物の名誉を持っていたことがありませんでした。
私たちはマリモとインタビューをして、なぜこのレースの主人公のために完全に予約されたボリュームをプリントに与えることにしたのかを教えてください:
Barry Sheene(バリーシーン)と一緒になった世代のバイクは、だから、私たちはロマーニャの素晴らしいデザイナーがすべてのファンになっていることを知り、本当にたくさんあります! 
- この特別なスズキのうち、綿密な研究を通して神話を祝いたいと思っていました。
モノクロ「スズキRG 500 - Il Mito nelle Corse 1974 - 1980」(出版社マッシモ・カッファーニ、260ページ、カラー写真165枚、白黒46枚、著者37名)は、
場所 バリー・シーネが全世代を恋に落としたバイク。だから私たちはRomagnaの素晴らしいデザイナーが、すべてのファンに対処していることを知っています。
本当にたくさんあります! 
- この特別なスズキのうち、綿密な研究を通して神話を祝いたいと思っていました。モノクロ「スズキRG 500 - Il Mito nelle Corse 1974 - 1980」(出版社マッシモ・カッファーニ、260ページ、カラー写真165枚、白黒46枚、著者37名)は、場所 バリー・シーネが全世代を恋に落としたバイク。
だから私たちはRomagnaの素晴らしいデザイナーが、すべてのファンに対処していることを知っています。
本当にたくさんあります! - この特別なスズキのうち、綿密な研究を通して神話を祝いたいと思っていました。モノクロ「スズキRG 500 - Il Mito nelle Corse 1974 - 1980」(出版社マッシモ・カッファーニ、260ページ、カラー写真165枚、白黒46枚、著者37名)は、場所 www.suzukirg500.it

あなたは70年代の最も美しいレーシングバイク、スズキRG 500に捧げた本を書いた、編集した、出版した。
このコミットメントは4年間の仕事と研究を要した。このプロジェクトは何から生まれたのですか?

"私は70年代からオートバイのレースに従ってきました。
私はイモラ出身で、父はいつも私を200マイルまたは世界選手権に連れて行きました。
だから、何年もの間、私の情熱は、モーターレーシング、特にスズキとそのドライバーに関する私の資料収集と同様に成長しました。
結局のところ、私は本のアイデアが私の中に飛び散っていくほど多くの資料を蓄積していました。
決定的な要因は、しかし、その文化や可用性が私のプロジェクトを開始キックするキーだった500スズキRGを収集フランシスMerzari dell'Imolaクラシックレーシングチーム、との出会いでした。」

人生では、デザインとイラストを扱います。
スズキRG 500についてあなたを襲ったことは、当時のレーシングバイクの「最先端技術」としての美しさでした。

«バイモタでオートバイのデザイナーとして、そしてカジバで初めてコンクールを開催し、ドゥカティがグループの一員であった90年代にキャリアをスタートさせることができたことは幸運でした。
スズキRG 500に戻るためには、技術的な美しさはあなたに当たって失敗することはできません。 。
たとえば、「スクエア:四角形」のエンジンは、特に高背のビューから、真の傑作です。実
際には、このビューの写真をImola Classicコレクションの各バイクに挿入しました。
そして、これらの2ビットの「モンスター」を扱っているサイレンサーは、私が何を話しているかを知っています。

あなたは勇気がありました。
「私は、その件に関して十分な文書化がなされていないことに気付きました。だから私はそれを自分で書くと思っていました。 "
あなたは何がどこにあるのか、どこでソースを見つけましたか教えてください。

"私が完全なモノグラフを見つけることを期待していると言えば、私はそれを意味します...
つまり、"妄想的 "レベル...可能な限りすべて。
Ray BattersbyのTEAM SUZUKIやRUSERS VOLUME12
(残念ながら日本語で書かれています)など非常に興味深い音源を購入しました。
しかし私はもっと欲しかったので、私は1975年から1976年までのLA MOTOのすべての巻を読み直しました。
すべてのMotosprintは1980年まで、LEGEND BIKE、MOTO STORICHE D'EPOCAでした。多くの不確実で相反するニュースが危険な場合でも、インターネット相談は基本的なものです。実際、調査を終了するには、私が収集したさまざまなデータを確認またはクロスするために4年間の大部分を専念してきました。
非常に重要なのは、最終的に誰がそこにいるのか、誰がそれを導いているのかを話していたことです。»

レースに参加し、RG 500で優勝したパイロットや技術者と数多くのインタビューを受けています。
これらはオートバイの歴史の貴重な証です。あなたは何かを予感できますか?

「これは最もエキサイティングで楽しい部分でした。
私はこれらの人々、すなわちバージニオ・フェラーリのドライバー、マルコ・ルッキネリ、グラツィアーノ・ロッシとフランコ・ウンチーニ(厳密にアルファベット順)ロベルト・ガリーナとチーフメカニックのフック、マリオCiamberliniに感謝し、再びたいと思います。

これらのパイロットは子供の私の "ヒーロー"、私がそれらを呼んだ "素晴らしい4人"でした。
彼らは走ったときに私を少しのファンとして失望させず、今は "古い"ファンに失望していませんでした。
すばらしい、非常に利用可能な人々。だから、多くの今日の「ほとんど」のサンプルは、彼らから学ぶ必要があります...
私は、ルッキネリとロッシ、ヴァージニオ・フェラーリのバイクが出は私に彼が走っていると、様々なバイクに非常に詳細な技術情報を与えた公道テストしたか私に言っていることを予期できました

あなたは本のイメージを大切にし、ウェブサイトとFacebookページを開発しました。1つのバイクのすべてのバリエーションに特化した完全なモノラルの操作は賭けです。あなたはスズキRG 500の周りに登録した関心が、それは特別なバイクだった、またはその非常に素晴らしいライダーがquadricilindrica(4気筒?)浜松と競合しているという事実から来ていることを信じますか? 

«本を書くことは私の仕事ではないと仮定すると、この「プロジェクト」は私の個人的な満足と文化のために、商業的側面を心に留めずに行われました。私はそれを簡単に取った、本は私が決めたときにだけ印刷の準備ができていただろう。
尊重したり、出版社が会う日程はありません。誰かが私にそれがあまりにもニッチで商業的ではないと警告していました...
それは問題ではないでしょうし、そうではありません、私の満足は誠実に私から取り去られました。
あなたのインタビューのように、この興味は少し驚きです!私の意見では、興味は一連のもの、バイクのスポーツ的重要性、特定のチャンピオンがまだ送信することができる情熱、エンジンのこの土地では、

あなたは有名な写真のアーカイブからの素晴らしい一連の写真に加えて、あなたが描いたカラープレートまで、そのボリュームに加えました。コレクターのための本、またはRG 500のスポーツ叙事詩全体を集めた作品について考えましたか?

シリアル「私は以来、まあ、」一緒に壮大なスポーツRG 500上の全体をもたらすために、あなたの言葉を引用し、コレクターのための仕事を作成し、私のような」病気「コレクター(も病的な)、私はとも思いました」 4人のイタリアチャンピオンとそのバイクを代表する4つの図面と、偉大なバリーシーンに捧げられた印刷物を限定版で販売することを提案します。»

バリー・シーネとスズキ・ヘロン7番の関係について、どのような印象をお持ちですか?

「Sheene(バリーシーン)は私の最初のチャンピオンだったので、分析はちょっとしたことかもしれません。
彼は神話でした。Sheeneのイメージが強すぎて、おそらくそれがバイクのメリットを部分的にぼかすとしましょう。
そして、我々は、ドライバーズチャンピオンシップよりもコンストラクターズチャンピオンシップに日本人が関心があることを知っています。RGのスズキの強さは、7番の伝説を超えて、他のライダーと勝ち、他のチャンピオンを生み出すことでした。»

あなたはDario Ballardini、Luigi Rivola、Angelo Dal Pozzoの演説でImolaの本を発表します。
本書に含まれる貴重な証言を提供した過去の多くの偉大なチャンピオンが出席します。
あなたの仕事の質の認識と反復することのできない味のオートバイに対する愛情の兆し?

«実際に、私がグラフィカルにプレゼンテーションイベントのポスターを作ったとき、私はそれを信じていない、それは真実ではないと思った。
この年、私はレースにも携わってきました。
多くの人と多くのパイロット、「他の人に情熱と敬意を払って、ほとんどすべての非常に良い人たち」に出会ったのです。
私はそれはもはやの日のように思われ、私は周りにいた人に、これらの値を送信すると思うん、その後、何とか彼は仕事を両方受賞した、だけでなく、この素晴らしい環境にindissolubly私を結合し、本物の情熱RG 500.ジャーナリストのBallardini、Rivola、Dal Pozzoを例に取ってみましょう。
彼らはこのモーターサイクリングの期間について話をすることを啓発し、常に彼らの話を聞くのが楽しいです。
この4年間に私を助け、支援してくださった皆さんに感謝したいと思います。»

マッシミリアーノ・ガラヴィーニ

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1974年の事故で負傷しF1を引退した後、1978年に2輪のマン島TTレースに復帰。30代末という年齢だったが若手現役ライダーに混じってレースし、ドゥカティでコースレコードを樹立して優勝。単なるエキジビション的な出場だと考えていた関係者を驚かせ、世界中で大きな話題となった。
1979年もスズキRG500に乗ってマン島TTで優勝したが、
イナーレースで転倒骨折したのを期にレースを完全に引退した。
978年のマン島TTでの勝利を記念して、ドゥカティはマイク・ヘイルウッド・レプリカというモデルを発売し人気を博した。

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1980年代 のクイーンの可能性を共有しよう。
伝説的なモトGP レプリカ、今日でもユニーク。
シエナ州にて我々と共にエキサイティングなシチュエーションを
発見しましょう
我々 はミーティングを主催する
 
あなたのバイクで直接参加することができますし、
その敷地内交通機関では、
ご希望の場合。
様々 なツアーを提供し、
あなたの「"2 ストローク」の冒険の本を開いて見ましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
RGガンマの想い出をビデオにしてみたくなった。
そして、その後に出会ったNSR(88)といまの奥多摩と続けてみた、
人は変わるものなんだね。
自分の体型のこと、.........
 
 
 
ではでは//
 
 
 

リメンバーRGガンマ

 
 
 
 
 
 
  
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この峠は奥多摩周遊道路ではない。
1986年の夏、
東北ツーリングに出かけた先で、
たしか岩手県のとある峠/ワインディングロードだったと思う。

そこで、みなが走る姿を撮ろうということなった。
35mmフィルム・カメラだった。
デジカメとパソコンが一般家庭に普及する以前の
はるに昔のことだ。
使い捨てカメラ(写るんです)も登場していなかった。
それもいまはない。
フィルムとカメラ用の単3乾電池をたくさん用意して
いろんな絶景ポイントでバイクと仲間を撮影した。
その場で撮影内容を見ることはできないので、
現像してプリントしてみないとわからない。
それはそれで楽しみだった。
 
私は勝手がわからずにノロノロと走っていたのが幸いして、
ばっちりと写ったわけだ。
 
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下の写真は、これも1986年夏の東北ツーリング。
青森県十和田湖のキャンプ場から出発する前のヒトコマ。
前日の夕方、十和田湖が真っ赤に染まる夕暮れを目の当たりにして
大感動したものだ。
 
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下の写真は1986年の初冬。
仲間と3人の箱根ツーリングから青梅に戻ってきたときの
ヒトコマだった。
悩まされていたブレーキの効きの悪さは、
オートバイタイヤ専門店「馬行」さんで付け替えてもらった
「SBSブレーキパッド」で解決した。

これ以降、1996年頃までガンマ400を走らせ続けた。
その間、5台?のガンマを売っては買うことを繰り返した。
もういいだろうと思うと、また走らせたくなることの繰り返し。
最後のガンマが手元に残った。
いまも秘密の地下格納庫で復活のときを待っている??

その間、カワサキZXR400→bimota YB7→ホンダNSR250SP(MC21)
などのオートバイを並行して走らせていた。
その後、いまも乗り続けているNSR(88)との縁が始まることになる。 
 
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ここからが本題になる。
最近忘れられない一台が再浮上した。
少し前にRGガンマのレーサーを特集した専門誌を購入した。
そこにスチールフレームのXR35(1981GP500チャピオン)、
はじめてのアルミフレームのXR40(1982 GP500チャンピオン)、
究極の軽量化を実現したXR40の開発記事を書かれてた。
 
この本の後半にRGガンマ(XR35、XR40)の開発ライダーだった、
河崎裕之さんのインタビュー記事があった。
私はフロントホイールを意のままに操れる
ハンドリングに優れたレーサー開発を行ってきた。
ヤマハに戻ってからもYZR−500(OW81)で同じことを
目指していた。両車とも印象に残るマシンとなった。

その話を読んで想い出したことがある、
RGガンマ400/500。
GP500レーサーRGガンマのフィロソフィーを受け継いだ
レーサーレプリカバイクだった。

このガンマ400は、
強烈なエキゾーストノートとパワーフィーリングが
印象的だったが、
もう一つハンドリングに優れたバイクだったことを想い出した。

ライダーを高い位置(分厚いシート)に座らせて、
タンクが短かったこともあり、
両手を伸ばすとハンドルまで近い。
その2つの特徴によりライディングの自由度が高かった。
また、そのスクエア4エンジンの重心は低い。
それを高い位置に座ったライダーがコトトロールすることで、
ほんのわずかのアクションでガンマは反応してくれた。

あるときのことだ。
そこは埼玉県飯能市と秩父市の境にある山の中、
顔振峠から刈場坂峠に抜ける山道だった。
かろうじて舗装されていた。
 
私はツーリングする3人のライダーの先頭をきっていた。
右に左にツイステーでアップダウンのきついコーナーを
駆け抜けていた。
最後に刈場坂峠から国道299に降りたところで休憩した。
いや、正丸トンネルの出口付近だったか?

そこでカワサキGPX750Rに乗る友人から、
こんなことを言われた。

ナンちゃんのRGガンマは、
良く曲がるね。
後ろから見ていたけど、
ほんのわずかしかバンクさせていないのにクルクルと良く曲がる。

正直驚いたよ。
 
えっ、そうだったの?
当時はそれが普通だと思っていた。

後から考えると、
そのフィーリングは、RGガンマ400特有なものだった
ことがわかった。

16インチフロントタイヤから、
くるくると良く曲がるバイクだった。
また、リアステアをはじめて体感させてくれたバイクでもある。
 
しかし、当時は低速トルクがないガンマのパワーフィーリングが
悩みのタネだった。
そのため空冷Lツインのドゥカティに憧れていた。
だが、いまは過剰な低速トルク(+エンブレ)があるバイクが嫌いになった。
ドゥカティのことではない。
いまなら当時の頃よりも楽しくガンマを奥多摩で走らせることができる
かもしれない。
 
RGガンマ400とはそういうバイクだった。
たしかに装着されているブレーキ、タイヤ、前後サスペンションなどの
パーツはけしてグレードが高いといえないものだった。

しかし、RGガンマ400のハンドリング/バランスは素晴らしいものだった。
このバランスの妙は、バイクが新しい、古いではないと思う。

クラシックバイクでも、
その装備がドラムブレーキ、リジットサスだったとしても、
バランスに優れたモーターサイクルは数多ある。
最新型が最上のモーターサイクルではないと思う。
 
ガンマ400はグランプリレースで磨かれた貴重な財産が盛り込まれた、
最後のひとしずくだったに違いない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それは1960年代のグランプリレーサー(1963 RZ63)を基とする
スクエア4エンジンレイアウトと伝統のダブルクレードルフレーム
それを長い期間をかけて磨きあげてきた。

ライバルはMV Agusta 、ヤマハYZR500だった。
グランプリはパワーだけで勝てるほど生易しい世界ではない。
優れたライダー、優れたハンドリング、パワー、タイヤなど
総合性能に優れていないと勝てる世界ではなない。 
 
その栄光の歴史を体現したのが、
ロードバイクRGガンマ400/500だったと思う。
まっ、スピードが高いととたんに手に汗握ることになる。
これも真実だった。

ガンマ400には、1885年から96年頃までの約10年間
乗りついできたが、
その理由はハンドリング/バランスの良さがあったからだと思う。

いや、馬が合った。
ガンマと私の呼吸がぴったり合っていた。
というべきか。
 
それとスクエア4エンジンから吐き出される、
刺激的なエキゾーストノートがあったからだ。

また、ガンマ400に乗りたくなってしまったね。
 
 
Ps,
私のガンマ400ではないが、
素晴らしいスクエア4エンジンサウンドを聞くことができる。
下記のアドレスをクリックする。
 
 
 
 
 

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