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智弁各園で長年続いていた韓国への修学旅行が大揉めに揉め、とうとう中止になったようだ。 北朝鮮のリスクがあるこの時期に、日本政府が渡航自粛を呼びかけているこの時期に、なんでわざわざ行くのかと……… 私が父兄だったら、やっぱり中止賛成派に回りますよね。 それとは逆に、韓国忠清南道の高校生が、日本へ百済文化の見学に来たという。
尤も、桓武天皇から始まる平安時代は、藤原氏をはじめ百済人の政権が続いたわけだから、平安時代に作ったものは、その殆どが消滅した百済の文化の影響を受けているものと思われる。 半島での百済は消滅したが、その王統の一部や貴族、官僚、それに夥しい数の職工が日本に逃げ延びてきているから、百済の建築様式になるのは当然のことかもしれない。 −−−−− ヤフーニュースから転載 −−−−−
故・盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領は、金海のポンハ村の出身だそうです。この金海(キメ)は伽耶の中核都市で、卑弥呼の時代には 狗邪韓国(クヤカンコク)と呼ばれ、倭国の北限だった。 なあ〜んだ、盧武鉉さんは倭国の末裔だったんじゃあないですか。それにしては日本には冷たい態度で終始したね。 普通に考えれば、差別を受け続けた旧百済、旧伽耶地域は、韓国保守政権に反感を感じると同時に、同じ血脈の日本に対して、もっとシンパシーを感じてもいいはずなのに、それはないね。
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邪馬台国〜聖徳太子
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その昔、 馬韓(百済)・辰韓(新羅)・弁韓(伽耶)に分かれていた朝鮮半島を新羅(辰韓)が統一して、百済を滅亡させた。 滅亡させたはずの百済王朝が日本へ逃げて生き残り、日本で王権を奪取した。それが、
その後豊臣秀吉に侵略され、明治時代には韓国併合をされ、滅亡させたはずの百済王統を継ぐ日本に(日本が無条件降伏をするまで)蹂躙され続けたことは、韓国人からすれば決して許容できることではない。 滅亡させた百済と伽耶(倭人)に、今度は逆に植民地化され、プライドがズタズタに切り裂かれてしまった。
だから新羅が半島を統一し、後世の朝鮮王朝になっても特に[全羅道]は敵国人(伽耶・倭人)の地として差別を受け続けた。 大統領になる前の金大中が日本から拉致された事件で、日本中大騒ぎになったが、彼は[全羅道]の出身で差別との戦いの人生だったようだ。
上記の2つの事件は、韓国内の地域差別が起因となっているようだ。
[朴]前大統領は慶尚道の出身で、ここは韓国の保守基盤。この辺りの出身の政治家が新羅王統の流れを引き継いでいるのだろうか。 [文]新大統領は、巨済島の出身。この島は朝鮮王朝時代の政治犯の流刑地だった。流刑者が子孫を残すのは多分許されないと思うので、政治流刑者の子孫ではないと思われるが、どちらにしても済州島が忘れ去られた地、若しくは忘れたい地であった歴史を持っていることは確かだろう。 反体制的な気質を持って育つのは当然といえば当然で、韓国も地域と地域の戦いを今でもしているのが、良く解る。
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日本の古代史に興味を覚えてから、20年以上になる。 読破する書籍、チェックしたネットのブログの数が増えるほど、違和感を感じるようになった。 知識の点が線になり、一部が面になっていくに連れて、教えられてきたものとの間に、素直に飲み込めない違和感がでてくるのだ。 結論から言ってしまうと、 奈良の地では、[伽耶]の王系が続いていた。その正当性のある王系(蘇我氏は正統の王系だった)を簒奪した[百済系の天智・持統王朝]が自らの王朝を正当化するために、外戚の藤原一族が創作した言葉だと思われる、[万世一系]という途方もない横着な概念が桓武天皇を祖とする藤原王朝に引き継がれ、 その後、明治政府により増強され、昭和の軍国主義により更に確固たるものにすべく、国内の[古代史]と [考古学]の学者が、その概念を補強するために動員された。 そして、それを阻害する証拠、学説は排除され、戦後、革新的な学説もでたが、核の部分は揺るぎもしないで、存続している。 今、[古田武彦]氏の全集を読み始めている。10巻ほどのものだが、3巻から始めて5巻の途中まで来た。 この方はもう2年ほど前にお亡くなりになったが有名な方で、以前から名前だけは存じ上げていた。 日本古代史の中核の学者からすれば、異端児で頭の痛い存在だったと思われる。自分たちが築き上げてきた学説を根本からひっくり返してしまうのだから、既存の学会からすれば、権威の崩壊にもつながり、歯ぎしりする存在だっただろう。 日本古代史は、その学会が[万世一系]の概念のために営々と築き上げてきた防波堤だった。考古学と共謀して、異説が侵食してこないよう懸命だが、桓武天皇を初代とする百済系王朝は1300年の長きにわたっている。 例え、桓武天皇の前に、幾つもの王系が交代したことがあったと受容しても、それが現天皇制を脅かすことにはならないと思うのだが、そうもいかないらしい。 平成天皇は、皇太子時代に[ガーディアン紙]のインタビューに「桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫で、韓国とはゆかりがある」と答えていらっしゃいましたけど、その議論は深まらなかった。 明確にするのを許さないのは周りの人たちの様だ。 逆に天皇家の方が、ルーツに明確な認識があるようで隠そうとしていない。不思議な話だ。
400ページ程の本だが、自論への批判に対する再反論で、自説の正しさを再提示するという内容なので、あまり楽しい内容ではない。ストレートに理解するのが困難で、睡眠導入剤になってしまっている。
それでも、[古田武彦]氏の説は、立場と都合を持たない古代史好きの素人が疑問に思うことを、「そうだよなあ〜」と、無理の無い論理で、実像が明確になる方向へ導いてくれる。 これだけ文明が発達した現代、ゲノムやIPS細胞、宇宙開発、ネットなどなど他の分野は画期的な進化を遂げているのに、古代日本史だけは、何の進展もない堕落した学会のようだ。
個人的にも様々な異説を読んで、日本古代史に対するイメージが朧気ながらに固まってきている。 結論は、「嘘ばっかり教えられてきたなあ〜」が率直な感想。考えてみてください。最先端の文化が中国にあった時代。太平洋側からは何の文化も渡来しない時代。
当時から交易こそが繁栄の礎だし最新文化の取入れ方法。中国大陸、そして朝鮮半島に近い、北九州の方が近畿より最先端文化を先に享受できていたのは、素人でもわかる。 邪馬台国が九州にあり、卑弥呼も九州にいた。のでは困る人たちが寄ってたかって、私達が教えられた[万世一系]の日本古代史を綺麗に整えたということだろう。 日本に対し「歴史を直視しろ!」という、中国や韓国の発言を聞いていると、歪曲され限定された知識だけで生きていると、真実を見失ってしまう危険性を痛感せざるを得ない。 「歴史を直視していないのは貴方達ですよ!」と、忠告してあげたいのだが……… 日本の古代史にも同様なことが言えるだろう。国を統治するには、余分な猥雑な知識は民衆の耳目から遠退け、統治者を正当化し、体制に歯向かわない方向に教育する。それが統治の大前提。 話のピントがズレてしまったが、 [古田武彦]氏の全集を読破しながら、少しづつブログに書き留めていきたい。
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私の趣味の一つでもある、[古代史の真実]に関する記事がでたので、紹介します。 その最大の謎。[聖徳太子は存在しなかった] については、そこまでの言及はなかったものの、常識としてとらえられていた部分が修正されていると知り、少し安堵した。 日本の政治を平安時代から独占した藤原氏が、その鎌足の子、不比等が持統天皇の時代以降に、創作したものと確信しているが、教科書の記述では、そこまでの表現はないようだ。 又、桓武天皇が、長岡京から平安京に急いで遷都したのは、天武時代の藤原京同様、長岡京は水はけの悪い都だったので、早々に遺棄された。のが、従来の解釈だったが、 [早良親王]のタタリを恐れて、長岡京を放擲したとあって、藤原一族の悪行が垣間見えて、評価したい。 古墳に関しても、天皇の名を冠するのを止めて、記名表記にしたという。これも評価したい。 藤原一族が、自らの士族をゆるぎない立場に押し上げるために捏造した古代史を、真実のものに取り戻すため、日々精進されている、関係者の方々に敬意を払いたい。 |
送迎バスで八鹿(ヨウカ)駅へ。[竹田城]見学も考えたが効率が悪いので断念。京都に直行することにした。 最初の目的地は[松尾大社]なので、二条で降りる予定を変更。亀山で普通電車に乗り換え嵯峨嵐山で下車。 そこから[松尾大社]を見、そこから東に進み、途中から左折、[上賀茂神社]目掛けて北上し、その後南下し[下賀茂神社]を見学したら、神社巡りが終了。 後は、京都の一番の繁華街の[河原町]で時間つぶしし、京都駅の反対側の[イオンモール]の[ダイソー]で外人観光客用の土産を買い、夕食を済ましたら、バスに乗るだけ。
嵯峨嵐山駅から[松尾大社]迄は20分程度か。WiFiが繋がるようになったが、タダのナビは、具合が悪い。どうもベストルートを表示してくれないようだ。使い方が悪いのか? [松尾大社] ここが[松尾大社]か。この鳥居の形を見ると、そんなに古くはない。奈良時代以降のものだろう。[松尾大社]は[秦氏]の神社で、主祭神は大山咋神(オオヤマグイノカミ)と中津島姫命(ナカツシマヒメノミコト)=市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)で、市杵島姫命は宗像三神の内の一神。 京都の地には、[賀茂氏]の方が先に入植し、[秦氏]の方が後から来たらしい。[秦氏]は渡来し、[豊の国]に大勢住んでいたと言うから、そこからの移住なんだろう。 賀茂川流域に[賀茂氏]が住み着き、桂川流域を[秦氏]が開発し定住したという図式か。 ある本で、松尾大社には、3本の柱を持つ上から見たら三角形の鳥居があると記憶していたが、聞いてみたが当社には存在しないとの返答。他に松尾神社があるので、そちらだったんだろうか。 この神社の祭殿には、千木も鰹木も無い。その事を聞いてみると、ここの祭殿は[箱棟造(ハコムネツクリ)]だという。旅行前半で見た神社とは形式が全く違う。これは時代が違うと言うより、部族の持つ歴史が違うと言うことで、奈良や丹後の古い神社とは部族が違う証拠だろう。 あれ? 狛犬っていたっけ? そこまで注視しなかったが、どうもいなかったぞ? と、自転車をこぎながら疑問が頭の中を一杯にしてしまった。 さあ、適当なところで左折し、北上だ。あれれ?なんとなくキツイぞ。途中、道を聞いて納得した。 「ここから上賀茂神社までは、まだまだ結構ありますよ。それにズ〜ッと登りですよ」
今更、引き返すわけにもいかず、バスの助けも受けたくなかったので、ガンバルしかない! [上賀茂神社] [上賀茂神社]って、[賀茂別雷神社]っていうんだ。主祭神は[賀茂別雷大神] あれれ? 鳥居は色が違うだけで、[松尾大社]と同じだ。屋根の上は[箱棟]だ。 [秦氏]と[賀茂氏]は、同じ部族なの? これは多分創建時からではなく、奈良時代以降、藤原(中臣)氏が祭祀権を強奪独占したので、それからの建物じゃあないのかな? 確かここにも、狛犬は置かれていなかった。 [下賀茂神社] [下賀茂神社]は、[賀茂御祖神社]っていうんだね。どうも上も下も[賀茂神社]は通称で、本来は、[賀茂別雷神社]であり、[賀茂御祖神社]なんだろう。 鳥居は朱色だが、形は前2社と全く同形。屋根の上は同じ[箱棟] 今日見た三社はどうも同じ形式に見える。 ここが他の二社と違うところは、祭殿の前にオミクジ受所が干支毎に小さな建物別に置かれていることだが、これは後年、空きスペースに設置されたのだろう。写真に小さな三角屋根が2個写っているが、確かこれが6棟あったかな。 ここで特に気になったこと。 ここの主祭神は、[玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)]と[賀茂建角身命(カモノタケツノミノミコト)] の2神。 あれっ? [玉依姫]って他にもいたよね? いましたいました、それが下の解説 ここの[玉依姫]は、上賀茂神社の[賀茂別雷大神]を産んだ母なんだって………そうか、 だからここを[御祖神社]っていうのか。 と、とりあえず納得。 それよりも気になっていることは、なんで、ここに[建御名方]と[猿田彦]が祀られているんだろう。
と、なんだかんだと頭の中で思いを巡らせ、遊んでいるうちに、見学予定は全て終了。 後は帰るだけ。ず〜っと下りで快適。 御池通りから先は、歩道の自転車通行禁止と言うことで、そこから自転車から降りて[河原町]に向かう。 京都一番の繁華街だけあって、サラリーマンの帰宅時間でもないのに、にぎやかだ。 小雨が降ってきたがアーケード街なので、問題なし。 そう言えば奈良・京都への中学の修学旅行で、確か[新京極]なんてところにも行ったかな? とか昔を思い出しながら散策したが、有名ブランド店なども軒を連ねているが、出色の繁華街と言う感じでもなかった。 京都駅まで戻ってきた時、急に土砂降りになった。屋根のあるところまで逃げ込んで雨宿り。 受験で来た時は、京都駅前はこんなに開発されてなかった。当然、こんな立派な空間は駅前にはなかったぞ。と、椅子に腰かけながら廻りを観察。 おお〜京都タワーの建物の中に、100円ショップの[ダイソー]があるんだ。あっちにあるのは東京・秋葉原と同じ外観デザインの[ヨドバシカメラ]だ。
受験に失敗したので、良いイメージは当然ないが、ウン十年前の記憶が甦ってきた。そうなんだよ、俺も場合によっては京都に住んでいたかも知れなかったんだ。 辺りはもう真っ暗。予定通り、駅裏の[イオンモール]に向かう。お目当ては[ダイソー]だ。 「京都のダイソーは外人観光者向けに、普通の店では置いて無い様なものがある」との、情報を得、これはチェックしておかねばと、バスに乗るまでの余った時間を利用して覗いてみることにした。のだが、 その類の物は、無かった。観光客が多い京都タワー店のことだったのかと、気付いたがもう遅い。今更そちらに向かうエネルギーは残っていなかった。 それでも今まで見た中で一番広いスペースだったので、暇だったので一回りした。 その後、飲食階に移動して夕食。4階の和蘭芹(パセリ)という店に入ったのだが、鶏のソテーに前菜、それにグラスワインが付いて、2,800円位のセットを頼んだ。 ワインだけは足りず、ビールも頼んでしまったので、酔っ払ってしまいメインディッシュの写真は取り損ねた。前菜が、なかなか立派なもだったので、パチリ! これで全部終了。駅裏の高速バス発着場に向かう。 駅についたら9時頃だった。土産物を買ってしまったら後はバスを待つだけ。その待ち時間の長いこと長いこと。 そこに行ってから判ったことだが、東京方面はもう9時半頃から深夜バスがあったんだ。 当方は11時半の出発。疲れて床に直に座ったのだが、お尻が痛くて痛くて!
最後に貴重な教訓を得て、今回の旅はこれで終了。 そうそう思い出した。まだ終われなかった。 京都の下り坂の件だが、あれはその後もズーッと伏見の方まで、下っていて、[小椋池]まで続いている。 その[小椋池]は現在は埋め立てられ、一部は住宅地になっている。 だから、今年だっけ去年だっけ、嵐山の中州が豪雨で冠水した時、現在は宇治市になっている旧小椋池辺りが、床上浸水になったのは、あの辺りに雨水が集中してくるからだろう。 と、余分な事迄、思い出してしまいつつ、バスの振動に揺られながら眠りに就いていた。 |


