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せっかく南京に在住しているのだから、少しは「南京語」を覚えてみたいものですね。
この南京語ですが、ものの本によると北京語では消えてしまった「入声」が残っているのだそうです。 漢詩をやる方ならご存知でしょうが、入声は-p, -t, -k,などの韻尾で終わる声調で、日本語に取り入れられた時にはこの語尾が「フ、ク、ツ、チ、キ」に転化したと言われています。 つまり南京語には古代・中世の音声(中古語)が色濃く残っているのでしょう。 漢詩の平仄を合わせるには南京語の方が具合が良さそうですね。
さて、十七世紀にヨーロッパのキリスト教宣教師たちが中国にやって来た時、彼らは地方ごとに異なる方言の習得に非常に苦労しました。 後に「教会ローマ字表記」(今でも台湾語の学習に使われています)の考案につながったりするのですが、同時に宮廷や官僚たちの間では一種の共通語が話されていることに気が付くのでした。
彼らはそれを官僚言語を意味する「マンダリン」(Mandarin)と名付けましたが、実はこれは『南京官話』(又は江淮官話)でした。 つまり当時の中国の標準語は北京語ではなく南京語だったのです。
首都が北京に固定されてしまい、何よりも皇族が北方民族だったのですから無理もありませんが、南京官話に慣れた役人たちにとっては北京語に発音を矯正するのに随分途惑ったことでしょうね。
さてさて、辛亥革命によって中華民国が成立しますと全国的な教育の普及が叫ばれて、言文一致(白話文運動)と音韻の標準化を目的とする「国語運動」に発展するのですが、何をもって標準語とするべきかについてはいろいろと議論がありました。
その時は南京語を標準とすべしという意見も少なからずあったのですが、結局は北京官話が標準語として再確認されてしまうのです。
もっともらしい理由は、北京官話は通じるエリアが広いというもので、南方は山や河川で区切られて、地域ごとに言語が固まりやすいのですが、北方は平原で隔てるものが少なく、広い範囲で音韻の共通化が進んでいるからというものでした。
ただ、民国初期に国語運動を主導していたのは、袁世凱から張作霖までの北洋軍閥が実権を握っていた北京政府であったことを考えると、南京語は政治的にも目が無かったのかなと思わざるを得ません。
まあこうして、今日では北方民族言語の影響を色濃くもつ北京語が「漢語」とされて、元々漢人官話であったはずの南京語が「土話」に甘んじている次第です。 また英語のマンダリンも今では北京語を意味していますね。
でも小生はあえて言いたいと思います。 南京語こそ本当は正統な漢語ではないのかと・・・・・・・・。
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南京昔話
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『戒律』とは僧侶になるための「心構え」と「決まり事」で、『授戒式』(得度式)はこの戒律を生涯守ることを誓い、それを「正式の僧侶10人以上」の立ち会いの下に認定してもらう儀式です。
唐朝期においては、この授戒式を正式な『戒壇』で行われた後に、お坊さんの国家ライセンス証『度牒』が交付さるシステムでした。 律宗は度牒発行の国家事業に密接に関係していて、政治的な影響を受けやすい立場にあったようです。
鑑真自身も「伝戒師」として、四万人もの僧侶を授戒(得度)させたと言われていますが、逆に玄宗皇帝が「度牒の見直し」で二万人の僧侶を還俗させており、つまりは当時の仏教リストラ政策の大波をモロに被っていたのではないかと推測されます。
鑑真の願いが仏教の隆盛にあるとすれば、こうした政治的な影響を受ける事に内心忸怩たる思いがあったのかも知れません。
そんな時に、仏教が敬われていながら、授戒の処女地である日本の様子を耳にし、日本の留学僧たち(栄叡、普照)の伝戒師招請の熱い願いを聞いたのです。 鑑真の心は日本へと大きく動かされました。
では、日本に渡海してからの鑑真はどのような境遇だったのでしょうか。
篤く仏教を信仰する聖武上皇や孝謙天皇は鑑真の来日をことのほか喜び、東大寺に戒壇を設けて先ずは自らが授戒をします。 そして、鑑真を全国の僧侶を統括する『僧綱』という地位に就かせ、授戒式の普及を行いました。
しかし、授戒によって正式な僧侶を認定するという国家事業は、同時にこれまでの非正式な僧侶たち、所謂『私度僧』の大量リストラに直結します。実はこれが朝廷の「裏」の目的でした。
当時は律令制度の根幹の一つである公地公民制(班田収授法)が崩壊しつつあったのですが、原因の一つが税収・課役逃れのための出家をする私度僧の増加でした。
国家制度として受戒式を導入し、実態のない僧侶をフルイにかけて還俗させ、しいては税収の安定を図るというのは、当時の朝廷の急務でした。 結局、鑑真和上は日本においても仏教のリストラに関与せざるを得なかったのです。(なんだか鑑真さんのため息が聞こえてきそうですネ。)
晩年、鑑真は僧綱の地位を退いた後、唐招提寺に戒壇を設けて独自に授戒式を執り行う一方で、興福寺に『悲田院』を設けて貧民や孤児の救済に尽力しました。
利他のために不惜身命の生き方を貫いた鑑真ですが、本当にやりたかったのはこうした大衆への慈善事業だったのではないかと小生には思えてなりません。
尚、揚州での所縁のお寺は、市内の痩西湖北側にある『大明寺』です。 ここには唐招提寺のオリジナルの塑像を模した鑑真和上像も安置されています。
春節の休暇を近場の旅行で済ませようとお考えの方は、揚州・大明寺に足を延ばしてみては如何でしょうか?
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新年最初の昔話は鑑真和上の時代について書いてみようと思います。
鑑真は揚州出身で、南京との繋がりはあまりないのですが、まあお近くということでご寛容下さい。
最盛期の唐から、奈良時代の日本に戒律を伝えるために、5回の失敗や自身の失明を乗り越えて渡海してこられた鑑真和上は、日本の仏教にとっては大恩人と言っても良いと思います。 そしてこの日本への渡航は唐朝廷の許可を得たものではなく、いわば『密航』でした。 むしろ時の玄宗皇帝からは行くなと禁じられていたようです。
そうまでして日本に戒律を伝えようとした情熱と恩情に、日本人(特に仏教徒)であれば深い感謝の念を抱かざるを得ないのですが、玄宗皇帝の治世を見ると、この頃の唐は仏教にとっては甚だ居心地の悪い時代だったのではないかと思い当たるのです。
そもそも唐王朝は歴代道教を重んじていました。
唐代皇帝の姓は『李』ですが、老子の本名も「李耳」なので、自分たちは老子の後裔で道教は先祖の宗教であるという意識が強かったのです。 唐ではすべからく「道先仏後」でした。 なにしろ科挙試験の科目においても、「老子道徳経」が採用されていたほどです。
ところが則天武后が権力を持ち、自らがスポット的な武周王朝の女性皇帝(武則天)となったとき、道教を抑制して仏教を盛んにする政策をとり行います。
理由は道教と一体化していた旧唐王朝の勢力を削ぐことに他なりませんが、即位する時に仏教側から自分は弥勒仏の生まれ変わりなので帝位に就くべきと宣揚してもらった「義理返し」もあったろうと思います。
鑑真が生まれて、出家・得度した時代というのは、まさにこの則天武后と仏教が蜜月の関係にあり、政治的に仏教が強力に後押しされていた時期でありました。
さて、則天武后が逝去すると玄宗皇帝が即位し、王朝は再度唐へとまい戻ります。
玄宗皇帝は晩年には楊貴妃と出会ってフヌケになったなんて言われますが、若いころは精力的に国の安定に努めて、唐王朝を最盛期へと導きます。
所謂『開元の治』がそれですが、重要政策の一つに「仏教僧たちの『度牒』の見直し」というのがありました。 度牒とは、国家公認で得度した僧侶に交付される身分証で、つまりお坊さんの国家ライセンス証のことですね。 これが無いと出家したと見なされなかったのです。
そして、この度牒を見直すことで、二万人以上の僧侶と尼僧が還俗させられました。 実は玄宗が行いたかったのは、先の則天武后の時代に肥大化した仏教のリストラだったのですね。
逆に道教については全国的に迅速な発展を遂げるよう積極的に援助したので、この頃は最盛期を迎えるに至ります。
玄宗は特に「ご先祖様」の老子には丁重で、毎晩礼拝を欠かさず、たえず爵位や号を加えて敬っていました。
則天武后の時には老子はただの「老君」でしたが、それが「玄元皇帝」⇒「大聖祖玄元皇帝」⇒「聖祖大道玄元皇帝」となって、最後には「大聖祖高上金闕玄元天皇大帝」なんてすごい名前を玄宗からつけてもらったのです。 (なんだか落語の「寿限無」みたいな話ですね。)
(続く・・・)
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往年の名女優マレーネ・ディートリッヒが主演した『上海特急(Shanghai Express)』というアメリカ映画があります。
これは1932年(昭和7年)に製作・公開されたもので、舞台は民国時代の中国です。 内容は、北京から上海へ向かう特急列車が途中で叛乱軍に止められて、西欧人の乗客等が人質になり、叛乱軍は収監された仲間の釈放を求めて政府側と対峙します。 やがで叛乱軍のボスは殺害され乗客は救出。 事件は解決されて列車はまた上海に向けて走りだすという粗筋です。 マレーネ・ディートリッヒ演じる上海リリーはこの特急列車に乗り合わせていたのですが、乗客の中には昔の恋人の軍医もいて、事件の苦難を乗り越えてまたよりを戻すという、ラブストーリーの味付けがなされています。 この映画はアメリカで作られたのですが、街中を走る汽車に追いかけられてニワトリが逃げてゆくなど、当時の中国の雰囲気がよく再現されています。 (まあ、叛乱軍ボスのチャンがどうみても西洋人なのと、エキストラの中国人の発音に南方訛りがあるのは御愛嬌でしょう。) 今では廉価盤のDVDとして街かどで売られていることもあるので、興味のある方は購入してご覧になってみて下さい。
南京長江大橋が開通する1968年以前は、浦口駅(現・南京北駅)と下関駅(現・南京西駅)の間を、長江を渡る鉄道連絡船が繋いでいたのですね。 現在の南京北駅では、既に客車の運行が終わっており、一部の貨物のみ取り扱っている様子です。 往時の風景がそのまま残されているので、レトロが好きな方は中山埠頭から船で渡って、是非付近を散策してみて下さい。 ノスタルジックな雰囲気がありますよ。 尚、日本ではあまり知られていませんが、この上海特急という映画は実際に起こったある事件がもとになって作製されたものです。 1923年の5月6日未明、北京から浦口に向けて出発した急行列車が、山東省南部の臨城で匪賊に襲撃されて、外国人多数を含む乗客は山寨へ拉致され、一ヶ月以上に渡り監禁されたという、所謂『臨城事件』がそれであります。 拉致監禁された乗客の中には大富豪ロックフェラー家所縁の人までいたそうで、当時は大変センセーショナルな事件でした。 なので上海特急が上映された時は、恐らく観客たちはこの映画をフィクションというよりも半分ドキュメンタリーだと思って観たのだろう思います。 ただ、この事件の顛末は映画のスト―リーよりも更に奇奇怪怪です。 興味のある方はネットで調べてみて下さい。
以上、映画『上海特急』に関するお話でした。
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王陽明(1472-1528)といえば故郷の浙江省余姚や、悟りを得た貴州省龍場が注目されがちですが、 少年から晩年までの人生の半分以上を南京を拠点として過ごしています。 若いころは「五溺」といって、任侠・騎射・詩文・道教・仏教の五つにハマったそうですが、当時副都であった南京にはそのような文化的な背景も豊富にあったのでしょう。 陽明の役人としての最高位は「南京兵部尚書」という陸軍大臣のような要職なのですが、父親の王華もこの役職を務めており、つまり親子二代に渡って「南京兵部尚書」に任命されたのですね。 さて、王陽明が生きたのは明の中期で、日本でいえば室町時代末期から戦国時代初期のころになりますが、陽明の思想は弟子たちとの対話を記録する形で『伝習録』としてまとめられました。 これが革新的な学問解釈として輸入され日本の土壌に根付きだすのは、徳川幕府による統治が安定してきた江戸時代初期からになります。 官学として幕府により導入された林羅山の朱子学とは違って、陽明学を探求したのは中江藤樹や熊沢蕃山などの民間よりの学者でした。 ただ、陽明の思想はよほど当時の侍たちにシックリくるものがあったのでしょう。 こちらも下級士族を中心とした武士の精神文化にシッカリと根を下ろしてゆきました。 現代でも陽明学のキーワード、例えば「心即理」、「知行合一」、「致良知」、「事上磨錬」などの幾つかは、皆さんもご存じではないかと思います。 陽明が語ったという「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」なんていうのもよく知られている言葉ですね。 一方の中国側はというと、丁度その頃には王陽明が仕官した明朝は滅んで、清朝に代わっておりました。 そして日本とは裏腹に陽明学は衰退し、ナントほとんど消えてしまったのです。 別に清朝政府から弾圧を受けた訳ではないのですが、実証的なニューウェーブの学問(考証学)や正学となった朱子学に遠慮しているうちに脇に追いやられて、いつの間にか探求する人がいなくなってしまったようです。 また、貨幣経済の発達や現世利益信仰(福禄寿)の広がりなどで功利主義が普遍化したことも、陽明学が端に追いやられる一因だったのではと小生には思えてなりません。 まあこんな感じで、陽明学の系統が本家本元の中国においては一時期途絶えてしまうことになります。 さてさて、時代は下って清朝末期になると、東アジアではアヘン戦争以来列強の侵略や太平天国の乱で国勢を傾ける清朝とは対照的に、明治維新を契機に西洋文明の導入や富国強兵政策で台頭してくる日本の姿がそこにありました。 清朝の知識階級は当初は無節操に西洋化する日本に批判的でしたが、朝鮮独立を巡って対立した日清戦争に敗北すると、国を憂う多くの逸材が日本に注目しはじめます。 そして、多くの留学生や、または亡命者が日本にやってくる様になるのですが、彼らの一部はそこで中国で絶えていた陽明学に邂逅することになるのです。 最も影響力があったのが、立憲君主制への体制改革(戊戌の政変)に失敗して亡命してきた梁啓超で、彼は吉田松陰の研究などから陽明学の意義を知り、これを清朝へ再輸入して国民精神の改革をしようと企てます。 また、後年南京総統府の主となる蒋介石もそんな一人でした。 彼は軍人として兵学を学ぶべく日本へ留学したのですが、故郷(浙江省)の先輩でもある王陽明の思想が日本の精神に多大な影響を与えたことを知り深く感銘を受けたのです。
それ以来、蒋介石は自らを陽明学の徒となして、終生王陽明を師と仰ぐことになりました。
余談ですが、台湾・台北の奥にある景勝地の陽明山は、そもそも草山という名でしたが、蒋介石によって改称されました。 以上、陽明学に関する小話でした。 追伸: 一昨日南京新街口の新華書店に入ってみると、入口付近の目立つ場所に明治維新を綴った歴史書が置かれていたので少し驚いてしまいました。 南京の青年たちにも、明治維新について興味を持ってもらえると嬉しいですね。 |



