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日本陸軍の100式司令部偵察機がフライアブルとなって久しいが、先日この機体に搭乗する機会があった。 何故かコクピットは正確忠実に再現されておらず、アメリカ機のP−38の物だったりもしたが、まあ仕方あるまい。(労力を掛けてないね。開発者の方。次回のアップデートでは、この辺りもお願いしたいな。) まあそれはともかく、なかなか高速上昇性能もいいな。 B−29迎撃用の37ミリ機関砲で射撃を試みたが、B−29は高高度を飛行しているので、全く届かなかった。 もっと高度を上げて近距離から射撃しよう。 一〇〇式司令部偵察機(ひゃくしきしれいぶていさつき)は大日本帝国陸軍の戦略偵察機。設計・製造共に三菱重工業が担当した。設計主務者は久保富夫技師。略称は一〇〇式司偵、百式司偵で、また「新司偵」とも呼ばれた。機体計画番号(キ番号)は46(キ46)。連合国軍のコードネームは「Dinah(ダイナ)」。九七式司令部偵察機の後継機として昭和15年(1940年)から使用された。
特に三型・四型(キ46-III/IV)に代表される、日本軍機中最高とも称されるその究極に洗練されたスマートな機体形状、優美なラインを描くエンジンナセル(カウル)といった機体の美しさ。日本機最高速を誇った高速性、長大な航続距離、優秀な上昇力といった折り紙つきの高性能。登場以降、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦から敗戦に至るまで色褪せず、全線戦の第一線で活躍し続けた、日本軍を代表する屈指の名機たる傑作機として名高い。 本機は北はアリューシャン列島、南はポートダーウィン、西はインドに、東アジア、東南アジア一帯と、太平洋戦争・日中戦争(支那事変・日華事変)の全戦線における陸軍の主要な偵察機であり、戦略偵察機たる司令部偵察機の使命として、連合軍勢力圏の敵地奥深くまで数々の偵察飛行を敢行した。 また、本機のあまりの高性能に、満足な戦略偵察機や偵察部隊を有しない海軍も太平洋戦争中に、陸軍の司偵独飛中隊を一時借用して偵察任務に使用した。
性能向上を狙った改良(後述)も幾度と重ねられ、また大戦末期には一部の機体の機首に大口径砲や機体上部に上向き砲といった重武装を施し、対B-29迎撃戦闘機としての役割も担った他、最末期には一部が特攻機に転用され特別攻撃隊(司偵特攻隊)として散華した。試作機を除く全製造数は計1,742機(一型34機、二型1,093機、三型613機、四型4機)である。 連合軍は本機を“ビルマの通り魔”・“写真屋のジョー”とも呼び、“ジョー”がやって来た数日後には必ず日本軍の攻撃があるとして、その飛来を恐れたという。主な戦果としては、ダーウィン偵察、対米戦中盤の数次に亘るマーシャル諸島強行偵察、インパール作戦開始直前、連合軍制空権の空域を隠密飛行、ビルマ侵攻・レド公路打通を企図した英印軍の大船団の集結を詳細に捉えたチッタゴン港強行偵察、陸海軍航空部隊のほぼ全てが引き上げた後のラバウルにて、たった1機で敵地偵察飛行や医薬品輸送に活躍従事し終戦まで生き残った飛行第10戦隊第2中隊(飛行隊)機がある。 一〇〇式司令部偵察機の世界で唯一の現存機としては、現在イギリス・コスフォード空軍基地航空宇宙博物館に収蔵展示されている三型がある。当機は終戦後にイギリス軍に引き渡されたマレーの第一野戦補充飛行隊偵察隊所属機であり、戦後に当時の設計製造元である三菱重工業の寄付金も送られ、飛行可能状態に近い状態までレストアされた。 一〇〇式司令部偵察機は、試作機と一〜四型までが存在し、第二次世界大戦で主力となったのは二型と三型である。本機開発の際、陸軍は三菱重工業に対し最大速度時速600km/hという、当時の水準としては無茶と言える極めて高い数値を要求した[1]。試作機(キ46)はハ26-I型エンジン(出力875HP)を搭載し、昭和14年(1939年)11月に初飛行し、最高速度は時速540km/hを出した。この速度は太平洋戦争前期に於ける陸軍主力の一式戦闘機「隼」一型、海軍主力の零式艦上戦闘機二一型、両機の最高速度を共に凌駕していた。しかし陸軍は当初、要求速度を満たさないこの試作型を見て制式採用を渋ったものの、三菱重工業が引き続き性能向上に尽力する条件で昭和15年(皇紀2600年)に一〇〇式司令部偵察機一型(キ46-I)として仮制式採用され、34機が生産された。
さらなる最高速度向上のため、搭載エンジンをハ102(出力1080HP)に換装したものが二型(キ46-II)で、最高速度は時速604kmに達し、陸海軍機を通じて日本で最初に時速600km/hを突破した機体となった。(一説では一型の時点で600km/hを超えていたとされる。)カメラの性能も強化され、最も多い1,093機が生産された。また、制式外の現地改造として、翼端を改造して増速、爆撃機の迎撃用に対戦車砲や機関砲を搭載させた機体等が有った。 当初の計画通り時速600kmに達した二型だったが、敵戦闘機の速度性能向上が著しく性能不足となったため、再びエンジンを高出力のハ112(出力1500HP)に換装し、空気抵抗を減らして速度・航続距離・高々度性能を改善する為に風防を機体先端まで伸ばし、段差も無くし、流線型にしたものが三型(キ46-III)である。風防伸長の為、視界の歪み、夜間飛行時の光乱反射、亀裂が入るといった事故が発生する事が有ったものの、二型よりも更にカメラが高性能化され、偵察機として機能がより強化された型となった。 三型の最高速度は時速630km/hとなり、四式戦闘機「疾風」の624km/hを押さえ、実用化された陸海軍機中最速機となった。[2]。最終的に、三型は集合式排気管を単排気管に改めることによって、さらに時速20km程度の速度の向上を得ている。三型は611機が生産されており、後期生産分は機首を二型同様の物に戻している。 終戦間際に実用化された四型(キ46-IV)は、ターボチャージャーを装備しており、高度1万メートルにおいて、時速630kmを発揮する性能を有しており、四型はアメリカの戦闘機に対しても、十分に対抗できる機体として期待されていた。風防も再び三型当初の段差の無い流線形となった。 本機は日本軍機の中では傑出した高々度性能を有しており、一部の機体には37/20ミリ機関砲が取り付けられ、B-29の迎撃に参加し、一定の戦果を挙げている。ただし、本機はもともと偵察機として開発された機体であり、攻撃時の急激な回避運動には適していなかったため、パイロットは苦労したという。 1945年2月27日午前10時、ターボチャージャーを装備した2機の四型が、北京の南苑飛行場を離陸し、東京の福生飛行場まで飛んだ。北京離陸から福生の格納庫前に停止するまでに要した時間は、1番機が3時間35分、2番機が3時間15分であった。実飛行距離は2,250kmで、平均時速700km強という快記録である。冬季の偏西風が追い風となって有利になった反面、離陸時のトラブル(2番機は北京で離陸をやり直した。先に離陸した1番機は、2番機を待って北京上空で旋回を繰り返したため、時間をロスした)や悪天候(当日の北京の天気は粉雪で視界は約2キロにすぎず、朝鮮半島までは完全な雲層中間飛行および雲上飛行であった)など、速度記録を出すには不利な条件もあった。また福生飛行場に着陸した時、燃料の残量は、胴体前タンクはまだ満タンで、その他のタンクにも少量ずつ残っているほどの余裕があり、その気になれば仙台あたりまで飛べたほどであった。もし最初から燃料をぎりぎりに減らして離陸時の重量を軽くしていたら、もっと速く飛べた可能性もある。いずれにせよ、最大瞬間速度ではなく、コンスタントに時速700km強のスピードでこれだけの距離を飛んだことは、当時としては驚異的であった。
全長:11.00m 全幅:14.70m 最高速度:時速604/630km(6,300m) 航続距離:2,474/4,000km 兵装:7.7mm機銃/無し 防空戦闘機型:20mm機関砲×2、37mm機関砲×1 乗員:2名 一部出典:ウィキペディア
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