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http://www.youtube.com/embed/XM1CLDTsr_c&hl=ja&fs=1 いつも私達が「ゼロ戦」というのは、正式には「日本海軍零式艦上戦闘機」と言う物である。 皇紀2600年に正式採用されたからである。エンジン出力が連合軍機の2000馬力に対して、終生1000馬力程で、対抗したにもかかわらず、先の大戦のほとんどに於いて活躍した日本軍の代表格の戦闘機である。 当然、派生型も多く改良に改良を重ねて使用された。 だから、一口に「ゼロ」といっても、全く別物といっても良い位、多種に渡るのである。 しかしながら、総じて扱いやすく乗り易い戦闘機である。 ただ、防弾が非常に弱く、一撃で火が付く事も、しばしばである。 私も、あっという間に撃墜された事しばしばである。 しかし写真の時は、上手く敵機を補足して、20ミリ機関砲により撃墜した。 会心の射撃である。 ウィキペディアによると。 当時の軍用機は採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦が制式採用された昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたり、下2桁が「00」になったため「零式」という名称になった。なお大日本帝国陸軍(以下、陸軍)では同じ年に採用した兵器を一〇〇式と命名している(例:一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式重爆撃機)。海軍は昭和17年(1942年)に零戦の水上機型である二式水上戦闘機などを最後に年次名称を廃止したため、大戦後期に主力となった局地戦闘機「紫電改」や「雷電」などには年次名称は無い。
「『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」と言う者もあるが、戦時中の新聞報道に「兵士たちにはゼロセンと呼ばれており……」という記述があることからも、「ぜろせん」「れいせん」の両方が使われていたと考えられる。渡辺洋二の著書や坂井三郎を始めとする関係者の話からも、「ぜろせん」という言葉は当時から一般的であり、中央から現場(実戦部隊)にいくにつれて「れいせん」より「ぜろせん」、時代が後になるにつれて「れいせん」より「ぜろせん」と呼ばれる傾向が読み取れる。昭和17年(1942年)後半以降は部隊では「ぜろせん」であったらしく、昭和19年(1944年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際も「荒鷲等からは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されている。反対に一見それらしく思われる「ゼロファイター」の和訳が戦後一般化したという説には根拠が存在しない。 連合軍が零戦に付けたコードネームは「Zeke」(ジーク)。だが米軍側の将兵も「Zero」(ゼロ)と呼ぶ事が多く、「Zeke」のコードネーム自体が「Zero」の綴りに近いから選ばれたという説もある。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、「Hamp」(当初はHap)というコードネームがつけられた。 武装
用途の1.に挙げられている「敵攻撃機の阻止撃攘」を可能にするため、当時としては大威力の20mm機銃の搭載が求められている。では、どのような敵攻撃機を想定していたのか。これは『昭和十一年度 航空機種及性能標準』に記載されている300km/h以上で突入してくる800kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した艦上攻撃機や、1,500kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した陸上攻撃機を一撃の下に撃墜するには、炸裂弾を使用可能な20mm機銃が必要であると判断された為であろう。初期型は20mm機銃と7.7mm機銃を2挺ずつ搭載しており、米軍戦闘機の12.7mm機関銃4〜6門とは対照的とする意見が多い。多くの搭乗員は20mm機銃の大威力を認めているが、その反面60発しかない携行弾数(初期型)の少なさも欠点として指摘(やや極端な例だがわずか2回の射撃で全弾が無くなったと証言する搭乗員もいる)しており、これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。20mm機銃については、大戦中盤から初期の一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになり、大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6〜8門を装備したF6FヘルキャットやP-51ムスタング、P-47サンダーボルトを投入してくると、九七式7.7mm機銃に変えて、三式13.2mm機銃を1〜3挺搭載している。 十二試艦戦試作一号機が完成する前、大陸で実戦を経験した実戦部隊から7.7mmまたは13mm級機銃の多銃装備を求める意見書が提出されたが、その当時は戦闘機に搭載できる13mm級機銃がないこともあって、結局この意見は採用されていない。堀越技師も海軍からの指示で試作中の十二試艦戦に13mm級機銃を搭載して搭載燃料を減らした場合の試算を行ったが、原案より活躍期間が短くなると感じたと回想している。この判断のため対戦闘機戦で不利になったとして海軍上層部を批判する意見も多いが、13mm級機銃に変更していた場合、12.7mm機関砲を主用した陸軍戦闘機の例から見て、史実より対戦闘機戦で有利となる代わりにB-17を始めとする大型爆撃機に大幅に不利になっていた可能性を指摘する意見もある。 防御
欧米で重要視された防御装備は要求項目に記載されておらず、当然ながら設計においてはほとんど考慮されなかった。日中戦争において防弾装備の必要性が痛感されていたにも拘らず、要求の追加すら行われていないのは、日本で実用可能なエンジンが欧米のものより低出力であることと、当時の技術力で実用可能な20mm級機銃弾対応の防弾装備は非常に重く(戦車の装甲を考えれば容易に想像できる)、単発機には搭載不可能であることから、中途半端な防弾装備を施すよりは無防弾として軽量化を図り、速度や運動性等を向上させることで被弾確率を低下させた方が合理的と考えられたためである。 開戦後、米軍機の防御の堅さや鹵獲(ろかく)したB-17の防弾装備を目の当たりにしたことから防弾の必要性が再認識され、『昭和十八年度 航空機機種及性能標準』(昭和17年(1942年)度に計画されたもの)から戦闘機の防御・防弾能力についての記載が現れる。 しかし、防弾装備の実用化が遅れていたこと、開戦から一年も経たずにガダルカナル等で始まった連合国軍の反撃に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容出来なかったことから先送りされ、結局終戦まで十分な防御装備を得ることができなかった(昭和18年(1943年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに自動消火装置が、翌昭和19年(1944年)生産開始の五二乙型から操縦席に50mm防弾ガラスが付加、更に五二丙型からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加し、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式にしている)。 なお一般に日本機は「防弾装備の実施が遅れていた」と言われているが、これが当てはまるのは太平洋戦争初期までに登場する海軍機に多く、陸軍機には早くから防弾装備が実施されている機体が多い。 戦闘機としての特徴
500km/hを超える最高速度と高い運動性能(他国の戦闘機よりも旋回性能が格段に優れていた)、長大な航続距離、20mm機銃2挺の大火力を併せ持ち、搭乗員の高い技量もあって太平洋戦争の緒戦において無敵ともいえる活躍を見せたことから、太平洋戦争初期の優秀戦闘機と言われる。 第二次世界大戦初期において、陸軍の一式戦闘機「隼」と並び遠隔地まで爆撃機を援護することができた数少ない単発単座戦闘機。 ボルトやネジなど細部に至るまで徹底した軽量化を追求したため、極初期型はいささか行き過ぎた軽量化が施されており、昭和16年(1941年)4月に二一型140号機が急降下飛行時に空中分解して墜落、操縦していた下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚等の大掛かりな対策工事が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったことを挙げている。 性能諸元を見てみると。 諸元 制式名称 零式艦上戦闘機二一型 零式艦上戦闘機五二甲型 機体略号 A6M2b A6M5a 全幅 12.0m 11.0m 全長 9.06m 9.121m 全高 3.5m 同左 自重 1,680kg 1,894kg 正規全備重量 2,674kg 2,743kg 発動機 栄一二型(離昇940馬力) 栄三一甲型(離昇1,130馬力) 最高速度 533.4km/h(高度4,200m)注1 559.3km/h(高度6,000m) 上昇力 6,000mまで7分28秒 6,000mまで7分1秒 降下制限速度 629.7km/h 740.8km/h 航続距離 3,350km(増槽あり)/2,222km(正規) 全力30分+2,560km(増槽あり) 武装 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各60発)注2 機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発) 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各125発) 機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発) 爆装 30kg又は60kg爆弾2発 同左 注1:主翼外板増厚後の数値。制式化当時は同高度で509.3km/h。 注2:後期生産型は携行弾数各100発。 |

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