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館山海軍航空隊掩体壕
南房館山に今も残る太平洋戦争時代の遺跡
米軍敵機から零戦を隠すために作られた戦闘機用掩体壕(えんたいごう)
館山市の宮城地区には、太平洋戦争時に作られた不思議な形をしたコンクリート製の建造物があります。
これは掩体壕と呼ばれ戦闘機を1機ずつ収める施設で、米軍の飛行機に爆弾を落とされても戦闘機を守る
事ができるよう全体が部厚いコンクリートで固められています。さらに屋根には土が盛られ、草が生えてい
るため上空からは見つかりにくい形状をしています。
この画像は、じのもん吉に零戦をイメージしてもらっています・・・小っさ!
宮城地区の掩体壕を上から見た図です。
零戦をこの様に納めていたのです。
当時、学生や住民、兵士たちによってこの周辺だけでも10数ヶ所の掩体壕が作られたそうですが、現在
当地区で残っているのはここの1ヶ所のみとなってしまいました。
戦後66年が経ったとは思えない程、コンクリートの状態の良さにはビックリです!
掩体壕の作り方は、土をまんじゅう状に盛った上に木材等の資材で覆って形を整え、その上にコンクリート
を流し、固まった後に盛った土を取り除くという方法だったそうです。
天井部を見ると当時の木枠が残っていました。錆びていますが釘もしっかり残っているのが見えます。
コンクリートが破損した部分からは、鉄製の骨組が露出しており、製造方法を観察する事が出来ます。
この掩体壕からつながっている誘導路から、小さな豊津川を越えた所にあった滑走路へと戦闘機を引き
出し、飛行させていたのだそうです。
米軍の上陸 「館山海軍航空隊」水上班滑走台跡に上陸、湾の対岸に見える山は館山市の船形山
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上の米戦艦ミズリー号において、降伏文書調印式が行われました。
翌3日午前9時20分、カニンガム准将に率いられた米軍第8軍第11軍団の3,500名の兵士は上陸用舟艇を
使って館山に上陸して来たのです。東京湾口に位置する房総半島南部の館山は、戦略上の最重要地点
であったため、本土決戦が想定されていただけでなく、敗戦直後はアメリカ占領軍本隊による初上陸地点
となったのでした。
1939年(昭和14年)の記録によると、館山海軍航空隊には97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機があり
ました。この時の館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送り込む事でした。
しかし1941年(昭和16年)の日米開戦に伴い、館山海軍航空隊は東京、東京湾、太平洋岸を守るための
基地として使われるようになりました。終戦後日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦時には
零戦・紫電など41機の飛行機しか残っていなかったそうです。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周
辺には40基以上の掩体壕が作られましたが、現在残っているのは今回の宮城地区のものと、香地区に残
っている大型の掩体壕の2基だけとなってしまいました。
館山地区の戦争遺跡は、今後もアップして行きます。 |
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2011年11月07日
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