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そうだ館山に行こう!
館山自動車道が開通して以来、館山へは気軽に車で出かけられる地となりました。 何故か、 特に春〜夏の期間は、館山に行きたくなるのです。 ’11年の夏以来、毎年息子と館山の街を
自転車で散策して来ましたが、今夏もまた昭和な風景を探しに行って見たいと思います!
今回の記事では、昭和な夏の館山の風景を古絵葉書から紹介します。
昭和30年代の北条海岸の風景です。
浜辺に一列に並んだ子供たちは、水泳前の準備体操でしょうか、中には赤フンの少年も・・・
北条海岸では、現在でもフンドシ姿の子供たちが毎年海水浴に訪れているようです。
遠く富士を西に、波静かな鏡ヶ浦をたくさんのヨットが帆を立てています。
この頃は、長閑なヨットハーバーだったんですが・・・
浜辺に放牧された親子牛・・・
後方に見えるのは鏡ヶ浦ですが、現在では見られなくなったなんとも長閑な風景ですね。
北条海岸で投網をする漁師
当時は浜辺でどんな魚が採れたのでしょうか・・・
夏の風物鏡ヶ浦の花火大会は、海水浴の宿泊客を楽しませてくれました。
戦前の絵葉書に見る北条海岸
海水浴ことはじめ
明治35年頃、房州北条鏡ヶ浦の海水浴場が開かれました。
鏡ヶ浦の海の美しいことは昔から定評があり、
道興准后の歌に、「名にしおふ鏡ヶ浦は富士うつす雲かとそ見る岸の白波」とあります。
そのままに、400年の昔が目にうつるほどであった。
明治の海水浴場は鎌倉七里ヶ浜や大磯の浜のように古歌にうたわれた所が多く、
北条には明治30年代の中頃から、高等師範学校とその付属中学の海水浴寮が出来、
ほとんど同時に一高生も来るようになると北条の海水浴は有名になりました。
同じころ本田存とという水府流の水泳の達人が、北条海岸で水泳の指導に当ったそうです。
明治40年代になると北条海岸の松林に、早稲田大学はじめ多くの学校の寮が年ごとに増えました。
交通は霊岸島から小さな汽船でゆき、乗客は魚の桶を日除けにして往復したそうです。
汽車が北条に通じたのは大正8年でしたが、北条線はトンネルが多く、蒸気機関車での旅も
あまり楽ではなかったと聞きます。 大正12年の大震災は北条の町を全滅させました。
幸いに海水浴客は大方帰った後だったので、被害はすくなかったようです。
寮は大半が壊れましたが、翌年には松林にテント村などができ、まもなく復旧したそうです。
しかし昭和のはじめになると、保田・岩井・富浦などが東京湾内の海水浴場として、
北条と並んで知られるようになりました。
平成6年 保田海水浴場にて・・・
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2013年07月23日
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