昭和的心の遺産を求めて・・・

私の生まれ育った南房総を中心に、昭和的な物・情景などを綴って行きたいと思います。

富津レトロ旅

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

富津岬の軍事施設

 
llllllllllllllll陸軍富津射場観測壕llllllllllllll
 
17日は穏やかな春の陽気となり、午後から近場の富津岬へ行って来ました。
 
富津岬は明治時代より、東京湾の防衛のため軍の施設が築かれた要塞で、太平洋戦争中は
「第一陸軍技術研究所富津射場」が置かれ、現在でも当時の施設が数多く残されています。
 
イメージ 1
昭和50年代の富津岬と第一海堡
このころは、干潮時に富津岬から海堡まで歩いて渡ることが出来ましたが、今では水深
が深くなってしまい、渡ることは出来なくなりました。現在は立ち入り禁止区域です。
 
 
イメージ 2
1954年に撮影された「陸軍富津射場観測壕」
  沖には第一海堡が写っています。終戦から9年後の写真ですが、戦時中の富津岬は軍の
  最高機密であったため、当時は写真撮影や絵葉書の発行は許可されなかったのです。
 
イメージ 3
現在の「陸軍富津射場観測壕」です。
 1954年に撮影された写真には、壁面から鉄製の筒のような物が突き出ているのを確認でき
 ますが、現在では朽ち去っていました。壕の周辺は木が生えて視界が悪くなっています。
 
 
イメージ 4
この施設は一見トーチカの様にも見えますが、外敵を攻撃するものではなく、
40㎝榴弾砲から発射された砲弾の着弾を観察するための施設なんだそうです。
 
 
イメージ 5
総コンクリート造りのぶ厚い壁。出入り口には6ヶ所に金具が残っています。
 
 
イメージ 6
鉄骨は少な目で、コンクリートには砂利玉の含有率が多い。
 
 
イメージ 7
円形の壕内部の底面は直径3m90cm程
 
 
イメージ 8
観察窓から東京湾を望む。
 
 
イメージ 9
薄暗い壕の中には、春の潮風が吹き込んでいました。
 
 
イメージ 10
鉄製の筒が突き出ていた部分ですが、いったい何のため?
 
 
イメージ 11
富津岬の北側は遠浅の海岸
これからの季節は、潮干狩りの行楽客で賑わいます。
 
 
イメージ 12
 
 
 
 
  富津岬には、まだ多くの軍事施設が残されていますので、今後も紹介して行きたい
  と思っております。
 
 
 
 
 
 
 
 
 大悲山・岩谷観音堂のやぐら 
 
  今日ご紹介する「大悲山岩谷堂清厳寺」通称「岩谷観音堂」は、じのさんの生まれ故郷
  千葉県富津市数馬に所在する奈良時代のお寺で、高僧「行基」がこの地に訪れ一夜にし
  て築いたと伝えられています。また岩谷観音堂の裏の岩山には、「やぐら」と呼ばれて
  いる鎌倉時代に築かれた珍しい墳墓群が存在していて、当地域の中世における歴史を知
  る上で貴重な遺跡となっています。
 
  それでは前回の記事のつづきとなります。岩屋観音堂の真後ろにはコの字形に掘られた
  「廻廊洞窟」があり、両方の入口には仁王像が彫り出されています。それに続いて両壁
  面に多数の仏像群が浮彫されています。
 
イメージ 1
コの字形に掘られた廻廊洞窟右側の入口
 
イメージ 2
入口の壁面には、大きく彫られた仁王像が・・・
 
 
イメージ 3
こちらはコの字形に掘られた廻廊洞窟左側の入口
それでは、勇気を出して洞窟内に入ってみましょう・・・(笑)
 
 
イメージ 4
洞窟内はコの字形になっているので、光の届かない部分は当然ながら真っ暗
大人のじのさんでも怖いです・・・
 
 
イメージ 5
フラッシュ撮影で、洞窟内の壁面にびっしりと彫られた仏像が浮かび上がりました。
 
じのさんが小学生の頃、友達数人と肝だめしをやろうと、一人づつ順番にこの廻廊洞
窟に入った事がありました。正直とっても怖かったのですが、みんな痩せ我慢をして
ゆっくり歩いていましたが、その顔はどれも引きつっていた思い出があります。・・
 
岩谷観音堂のやぐらを始めとする洞窟群は第14窟まであり、阿弥陀如来・観音菩薩・
勢至菩薩などが彫り込まれ、これらを一巡すれば全国の霊場を巡礼したのと同等のご
利益があるといわれています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
イメージ 6
岩谷観音堂が所在する(画像中央部)数馬地区
 
 
  岩屋観音堂は富津市南部の豊岡地区に源流を発する湊川下流域に位置し、北側の丘陵
  が川近くまで迫った河岸段丘上に存在しています。岩屋観音堂は永い間、村人の祈り
  や信仰、集いの場所としてあり続け今日に至っています。今回数年振りに訪れた岩谷
  観音堂周辺は以前よりも綺麗に整備され、廻廊洞窟内の照明や、やぐら内階段の手摺
  の設置などがされていました。住民の方に聞いたところ、2年前地元民の奉仕活動に
  より、観音堂の大改修と供に洞窟群周辺の整備が行われたそうです。
 
 
  でもじのさん的には洞窟内の照明や手摺の設置には、ちょっと残念な思いがしました。
  確かに訪問者に対する安全面での配慮は当然必要な事だとは思います。しかしこの様
  な歴史的な遺跡や遺産は極力当時のままの状態で保存し、後世に伝えて行く事が望ま
  しいと思うのです。一度手を入れてしまうとニ度とは元に戻らないのですから・・・
 
 
 
 
 
 
 

富津市の穴訪問記

 
  大悲山・岩谷観音堂のやぐら 
 
  今日ご紹介する「大悲山岩谷堂清厳寺」通称「岩谷観音堂」は、じのさんの生まれ故郷
  千葉県富津市数馬に所在する奈良時代のお寺で、高僧「行基」がこの地に訪れ一夜にし
  て築いたと伝えられています。また岩谷観音堂の裏の岩山には、「やぐら」と呼ばれて
  いる鎌倉時代に築かれた珍しい墳墓群が存在していて、当地域の中世における歴史を知
  る上で貴重な遺跡となっています。
 
イメージ 1
崩れた石段の先に見える岩谷観音堂
奈良時代の高僧行基による一夜の作と言い伝えられています。
 
 
イメージ 2
  現在堂内は傷みが酷く、天井や壁等が修繕されていますが、梁や柱に残された彩色から
  建築当時の華やかさが伝わって来ます。
 
 
イメージ 3
そして、岩谷堂裏の岩山に掘られた「やぐら」群です。
なんとも不思議と言うか、奇妙な景観ですよねぇ・・・
 
 
イメージ 4
埼玉県にある吉見百穴をご存知の方も多いでしょう。
ここはその吉見百穴と同じ古墳時代に築造された「横穴墓」が最初とされ、もともと
数基あった横穴が鎌倉時代に「やぐら」として改変され、繋げられたようなのです。
 
イメージ 5
岩山に彫られた階段
  「やぐら」の発生地は鎌倉で、中世鎌倉に武家政権が樹立された際、武士階級と鎌倉の
  もつ地域性のもとに考え出された特殊な墳墓です。中世の文献には岩屋、岩屋殿など
  とみられます。
 
 
イメージ 6
  「やぐら」は鎌倉地方に代表されるもので、房総では富津市・君津市にかけて発見され、
  安房地方にも分布しています。このことは当時、房総と鎌倉との関係がより密接なもの
  でたことを物語っています。
 
 
イメージ 7
  地元では、昔から「ボラ」「ヨコアナ」「アナ」などと呼ばれています。 子供の頃に
  古老から聞いた話では、むかし火の雨が降ったときに入った穴だと聞かされていました。
 
 
イメージ 8
この「やぐら」の奥壁には数基の五輪塔が線刻されています。
 
 
イメージ 9
階段を上った高い位置にある「やぐら」は他のものよりも広く、壁面には数多くの
仏像が浮彫りされています。
 
イメージ 10
仏像には赤い彩色が残っています。
築造当時は朱や漆喰で彩色されていたのかも知れません。
 
 
    じのさんが子供の頃、探検や秘密基地的な遊び場だった岩谷堂のやぐら群
    鎌倉時代のお墓だと知っていたら・・・
 
 
    岩屋観音堂には「やぐら」の他に、観音堂をコの字形に囲む廻廊洞窟があり
    次回の記事でご紹介したいと思います。
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 
 

梅の話し

LLLLLLLLLLL梅の話しLLLLLLLLLL
 
千葉県君津地方も梅の花が見頃となりました。
 
  梅は中国が原産で、元来、日本には野生していなかったといわれています。牧野富太郎博士も
  「我が思い出」の中に「九州の豊後から日向の北方にかけて、梅の野生があるが勿論遠い昔に
  支那から来たものである」と珍しいものとしてしるされています。
 
イメージ 1
 千葉県君津市 菅原神社に咲く梅の花
 
日本最古の梅栽培?
  梅が我国に中国からいつ頃伝えられたのかというと、「明石原人」で有名な早大の直良信夫博士
  の研究「日本古代農業発達史」によると、日本の古代にウメを栽培していたのは、主に関東地区
  の人々で、ウメの核を出土したのは東京前野谷の泥炭層であったから、弥生時代後期の前野町
  式土器を使用していた人達が最初の栽培者であったかと思う。千葉県富津市湊町更和字下北原
  にある下北原遺跡にはウメの核の遺存が非常に多く、したがって栽培もかなり盛んであったと解
  さなければならない。核の形態は現生のものに非常によく似ているし、その大きさも現在のブンゴ
  ウメに匹敵するほどの大きさを有している。と記されています。
 
イメージ 2
千葉県富津市更和字下北原に咲く現在の梅 2013年3月2日撮影
 
  下北原遺跡の発見によると梅が栽培されていたことは明瞭で、千葉県は日本中で一番古い方の
  梅林があった地方となります。梅栽培の歴史は弥生時代の頃から始まったものであることが解り
  ましたが、花見の歴史も桜よりも梅の方が先で、万葉集で歌われている数も桜が四十で、梅が百
  あるといわれ、奈良時代は梅が流行し、平安時代になって桜が流行したとみられているようです。
  梅の栽培が本格的になったのは江戸時代以降で、明治時代になって園芸品種が三百以上になっ
  たといわれています。
 
イメージ 3
下北原の梅 2013年3月2日撮影
この品種の梅は実を付けるのですか?植物について無知なので解りません。
 
 下北原は、私の実家から程近い場所にあり、子供の頃はカブトムシやクワガタムシを採集した思い
 出の場所でもあります。私は小学5年生の頃から考古学に興味を持ち、生涯の趣味としております
 が、以前何かの書物で地元の遺跡から大量の梅の核が発見されたと記憶していました。その書物
 が何であったのかが解らず、先日やっと探し出しここに紹介することができました。
 字の下北原という地名も、地元のごく限られた人しか知らないですし、ましてや古代に梅林があった
 事など直良信夫博士の報告書を読まなければ知る由もない事でした。
 

金谷の鉄尊様

LLLLLL金谷の鉄尊様LLLLLL
 
金谷神社の社殿横に大鏡鉄と呼ばれている物が収蔵されています。元来は円形であったものが
現状では二つに折れていて、その径は1.6メートル、厚さ11センチ、重さは1.5トンもあるそうです。
 
イメージ 1
金谷の大鏡鉄 【千葉県指定文化財】
 
 里伝によると文明元年(1469年)6月、この神社から数百メートルの海中に光を発するものがあった。
 たまたま六昼夜も続いたしけがおさまったので、村の人々が船を出して海底をうがったところ、大円
 板を発見、直ちに引き揚げようとしましたが作業は困難をきわめ、金谷神社に祈願したところ、この
 大円板が二つに折れて七月一日、遂に引き揚げられました。人々は神威を感じて社殿の裏に祭っ
 たといい伝えられています。
 
  
イメージ 2
現在では金谷神社社殿横に祭られています。
 
 日本書記の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の一節に、三浦半島から上総へ渡るとき、船首に
 大鏡を懸けて軍をすすめたと記されています。この書記の叙述から、この大円板が鏡であったの
 ではないか、ということで、村人はこれを「鉄尊様」と呼び、地名の「かなや」もこれに由来するもの
 であるとも伝えられて来ました。
 
イメージ 3
金谷の地名の由来とされる「大鏡鉄」 通常はガラス戸越しに見る事が出来ます。
 
 ともあれ、この大鉄円板は中世を遡る時代に造られたものといわれ、長谷川熊彦工学博士の見解
 によれば、砂鉄をもとにして猟鉄(銑鉄の一種で、炭素の含有料は3.7%内外、性質は軟弱、流動
 性があり、小型鋳物に適する)を槌で打鍛えたものであり、砂鉄の製錬炉「たたら」で製造したもの
 だといわれています。
 
 
イメージ 4
明治時代の絵葉書に見る、金谷神社
  当時は社殿の直ぐ前に海が迫っているのが解ります。
 
イメージ 5
現在の金谷神社
鋸山ロープウェイの入口に位置しています。
 
 

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
じのもんた
じのもんた
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(22)
  • 鉄砲夢物語
  • みかずき
  • 銀河帝国司令官ヘル
  • 凹々道
  • む〜んろぼっと
  • Tae
友だち一覧
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!
衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事