昭和的心の遺産を求めて・・・

私の生まれ育った南房総を中心に、昭和的な物・情景などを綴って行きたいと思います。

戦争と平和

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    終戦67年 不戦の誓い新たに   
 
   本日8月15日、終戦から67年を迎えるにあたり約310万人の戦争犠牲者に対し、ご冥福をお祈りい
   たします。
                          終戦記念日に寄せて
【佐貫の海軍第二工廠地下工場】
   海軍第二工廠・佐貫地下工場は、木更津第二海軍航空廠八重原工場の疎開工場として、1944年
   11月頃から掘削された総延長9㎞ほどの地下軍事工場。 1945年7月に完成し、実際に戦闘機の
   プロペラ・計器類・脚部の部品や、手榴弾の筒などが製造されていた。 それらの製造には多くの
   女子学生が動員されていた。
 
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         当時、海軍第二工廠・佐貫地下工場で実際に作業をしていた女子学生たち。
   動員中の作業服に「神風鉢巻」を締めている。当時の航空司令長官が日の丸をはさんで、神風と
   書いた。生産工場にも神風を吹かせようという意図があったという。 1945年(昭和20年)の写真
 
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       佐貫地下工場入口での、第二海軍航空廠兵器部の作業員たち。後列は女子学生。
                       1945年(昭和20年)8月15日撮影
 
 
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墨絵日記
「昭和廿年を顧みて」
木更津高女四年・平野壽美子さんの日記から
 
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   一月二日より出業。櫛田大佐より、神風手拭を頂く。神風特攻隊の真心こもれるこの手拭きりり
   と締めて、訓話の一語一語を身にしみてお聞きする。
              「神風の兄等の心うけつぎて、すべてを捧げ神機つくらむ」
 
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   一月二日より八日まで、神風週間なり。神風手拭を締めて分解に洗浄にはげむ。ガソリン槽の
   中で真っ黒い部品を洗浄する。冷たさで指が凍え、部品を槽の中に落とし、ひじまでまくって拾
   ひとるつらさ―しかし、私達は・・・・・・とはりきる。
             「洗浄しつつきっとみつめるガソリンにうつりし我の神風の二文字」
 
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    二月頃の寒さは肌をさす様である。一日の作業を思ひながら周西の駅へ。両側の家は燈火管
    制で、燈火一つみえぬ。ホームへあがって空をみる。雪でも降りはせぬかと思はれる程の灰色
    の空。 明日もまた、しっかりと、雲間の星に誓ふ。
「友だちと集ひて語り笑ひ合ふ。一日のつかれ忘れ去りなむ」
 
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    ジーッと食事のベル。作業を止めて控室へ走る。机を並べる友とたのしい事、辛い事、あれや
    これやと語り合ふ。この頃は話題も工場疎開へと移る。
「食事しつつ友の誰彼と話し会ひて覚えず笑の湧出るを覚ゆ」
 
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   早朝より小型機の空襲・・・・・・、十時の列車に乗り込む。列車が青堀につく途端、総員退避。
   友達と手をたづさへて前の林の中へ。ガンガンと鳴る高射砲、グーンと急降下する敵機、到頭
   午前中林の中ですごす。誰も、作業が困ると溜息ばかり。
「間断なき敵機の空襲受けつつも工場如何にと作業思はる」
 
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   空うららかな初夏、土手の上の松の木陰でたのしい昼食。食事後は、歌を口ずさむ者、ノートを
   開く者、しかし、いつか話しは、佐貫工場の事。゛佐貫はあのあたり゛誰かは言って、そちらを指さ
   す。゛地下工場はどうかしら゛しっかりやろうね・・・・・・しっかりと結ばれた心―
「うららかな初夏の草に腰下しつ、たのしき希望あれこれと語る」
 
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   佐貫の地下工場、作業に熱中する。ブーコンが悪いと言はれ、別のブーコンを持って行って変へ
   てつける。結果はどうか、心ばかりあせる。あちらでは誰か、上部流量をしてゐる。
「メタ不良、メタ不良とて返されるブーコンながめ涙も出でず」
 
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   ハンティングせぬ管制器みつめつつ故障見出せぬ我、うらめしかな地下工場に移りて幾月か、
   漸く穴倉住居に慣れてきた。応召、入営、工場内の男手はますます減少、工場の中堅とならね
   ばならぬ私達であった。あかあかした電燈の下、出る朝日、入る夕陽のほか、太陽に接する間も
   少ない生活ではあったが、なつかしい、たのしい頃であった。
 
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   昭和二十年八月十五日、我々日本人にとりては永遠に忘れられ得ぬ日なのだ。予想だにせぬ
   「終戦の大詔」ラチ゛オの前にすすり泣いた私達であったのだ。「勝利の日までは」と誓って入っ
   た此の佐貫の地下壕・・・・・・私達はかへらねばならぬ。ふりかへりふりかへり下る山、涙でかす
   む山の松の緑が眼にいたい。
「聖断の如何にしがたく我去りぬなつかしの山を幾度かみき」 
 
 
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67年前の今日、人々の思いはどんなであっただろうか・・・
 
終戦記念日に寄せて
「佐貫の海軍第二工廠地下工場」
 
おしまい
 
 
 

平和への誓い

        平和への誓い        
 
広島は6日、原爆投下から67回目の原爆の日を迎えました。
  本日広島市中区の平和記念公園にて平和式典が開かれ「子供代表」の小学6年生の男女2名
    が「平和は私たちでつくるもの、仲間とともに行動していく」と「平和への誓い」を力強く述べてい
    たのが印象的でした。
 
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紀元2600年(1940年)を記念して演技する木更津小學校の女性徒
この年「日独伊三国同盟」を締結、戦意高揚をめざして全国で記念式典が行われました。
 
翌年、日本は太平洋戦争に突入したのです。
 
この写真に写っている小学生の少女たちと、本日「平和への誓い」を述べた
2人の小学生の思いは同じであっただろうか・・・
 
 
原爆死没者に対し追悼の意を表します。
 
 

連合艦隊の入港

   連合艦隊の入港と北条海水浴場     
    8月15日の「終戦の日」を向かえるにあたり、戦没者を追悼し平和への祈念をいたします。
    8月のじのもんたのブログでは、地域の戦争に関する記事を紹介して行きます。
 
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   館山湾には、8月の中旬以降になると、連合艦隊が大演習の中休みによく入港したそうです。   
   当時の写真には、4隻の戦艦と、その他の小艦隊を確認することが出来ます。
   左から「山城」「扶桑」次に、縦向きの戦艦ははっきりしませんが、「金剛」あたりでしょうか?
   次いで縦向きの戦艦は檣楼の高さから「榛名」かもしれません。
昭和6年の北条海岸より
 
 
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  館山湾に艦隊が入港する頃は、土用波が立ち始める頃であるのと、艦艇から汚物を流すので、
  海水浴客にとっては、招かれざる客であり、また敬遠されたものであったそうです。 
                          船形海水浴場の絵葉書より
 
 
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                 鏡ヶ浦沖を黒煙を吐きながら進む山城・扶桑級の戦艦
                     安房鏡ヶ浦海水浴場の絵葉書より
 
 
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       【扶桑】新造時には世界最大を誇った帝国海軍初の超弩級戦艦。奥は旗艦長門
1944年(昭和19年)10月25日戦没、生存者なし
 
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   【山城】扶桑の2番艦。扶桑・最上と駆逐艦4隻の西村部隊の旗艦としてレイテ沖海戦に参加。
   しかし米第7艦隊の砲撃を受けて沈没する。
1944年(昭和19年)10月25日戦没、生存者10名
 
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    【榛名】民間造船所で初めて建造された主力艦で、サーマル沖海戦後、呉に帰還するも、
    燃料の供給が止まったために、浮かぶ砲台として利用されたが、米空母機動部隊による
    数度の空襲により、大破着底状態で終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)7月28日 大破着底・戦後解体
 
 
戦争の記憶を次の世代に
 
つづく

小櫃駅からの出征

      君死にたもうなかれ     
   8月15日の「終戦の日」を向かえるにあたり、戦没者を追悼し平和への祈念をいたします。
      8月のじのもんたのブログでは、地域の戦争に関する記事を紹介して行きます。
 
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出征兵士を見送る人でいっぱいになった小櫃駅(千葉県・君津市)昭和13年
 
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子供たちも一緒に日の丸を振って見送る
 
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村民総出で出征兵士を見送る 小櫃駅より
 
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小櫃駅より出征兵を見送る 突然強い風が吹いた
 
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小櫃駅から出発する出征兵士 昭和12年
彼らの心境はどんなであっただろうか・・・
 
 
出征シーン 千葉県・佐倉駅

指導物語
1941年(昭和16年)10月4日に公開された日本映画
同年(第18回)キネマ旬報ベスト・テン第10位。
 
 
      省線の老機関士帝国陸軍鉄道連隊の若い機関特業兵との蒸気機関車の運転の指導を通
 じ心の交流、また機関特業兵らが機関士として人間として成長していく姿を描く。 
 日中戦争支那事変)勃発から数年たつ戦時下当時の製作かつ太平洋戦争大東亜戦争)開戦
 戦 直前の公開であり、間接的に戦意高揚を担っている側面も多分にあるものの、基本はタイトル
 通 りあくまで指導を通しての鉄道員と軍人との交流を描いた作品であり、劇中の描写やキネマ
 旬の評価などから単なるプロパガンダ映画ではない。
 本作の第3の主人公として「出演」しているのがC58形蒸気機関車である。これには鉄道省が全面
 協力しているため描写や撮影は大変凝ったものであり、元国鉄職員の鉄道研究家・久保田博は、
 は自らの著作の中で「この作品以上に蒸気機関車を良く撮られた映画はない」と評価しており、ま
 
 た「この映画の主人公は(瀬木や佐川ではなく)C58である」とも述べている ロケーション千葉県
 の各地で行われており、主な舞台は佐倉駅周辺である。映画冒頭で2台の機関車が併走するシー
 ンは佐倉駅の先の総武本線成田線の分岐であり、機関区は横の本線上を電車が走っているこ
 とから千葉機関区で、また、佐川が指導を受けるために電車に乗るシーンがあることから所属部
 隊は津田沼鉄道第2連隊である。なおラストシーンで佐川ら将兵が出征する列車はその佐倉駅
 から発車しているが、次のシーンで瀬木らが発車直後の列車を見送るシーンでは線路架線
 張られている。当時電化区間は千葉駅までだったので矛盾するが、これは撮影上の都合や軍機
 機密保持(部隊の所在地を秘匿)のためと考えられる。
 キネマ倶楽部からVHSが発売されたのみで現在までDVDの発売はない。
Wikipediaより
 

館山海軍航空隊掩体壕

     館山海軍航空隊掩体壕     
南房館山に今も残る太平洋戦争時代の遺跡
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米軍敵機から零戦を隠すために作られた戦闘機用掩体壕(えんたいごう)
 
  館山市の宮城地区には、太平洋戦争時に作られた不思議な形をしたコンクリート製の建造物があります。
  これは掩体壕と呼ばれ戦闘機を1機ずつ収める施設で、米軍の飛行機に爆弾を落とされても戦闘機を守る
  事ができるよう全体が部厚いコンクリートで固められています。さらに屋根には土が盛られ、草が生えてい
  るため上空からは見つかりにくい形状をしています。
 
イメージ 2
 この画像は、じのもん吉に零戦をイメージしてもらっています・・・小っさ!
 
   
              イメージ 3
宮城地区の掩体壕を上から見た図です。
零戦をこの様に納めていたのです。
 
イメージ 4
  当時、学生や住民、兵士たちによってこの周辺だけでも10数ヶ所の掩体壕が作られたそうですが、現在
  当地区で残っているのはここの1ヶ所のみとなってしまいました。
 
イメージ 5
戦後66年が経ったとは思えない程、コンクリートの状態の良さにはビックリです!
 
  掩体壕の作り方は、土をまんじゅう状に盛った上に木材等の資材で覆って形を整え、その上にコンクリート
  を流し、固まった後に盛った土を取り除くという方法だったそうです。
 
イメージ 6
   天井部を見ると当時の木枠が残っていました。錆びていますが釘もしっかり残っているのが見えます。
 
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   コンクリートが破損した部分からは、鉄製の骨組が露出しており、製造方法を観察する事が出来ます。
 
   この掩体壕からつながっている誘導路から、小さな豊津川を越えた所にあった滑走路へと戦闘機を引き
   出し、飛行させていたのだそうです。
 
イメージ 8
米軍の上陸 「館山海軍航空隊」水上班滑走台跡に上陸、湾の対岸に見える山は館山市の船形山
 
  1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上の米戦艦ミズリー号において、降伏文書調印式が行われました。
  翌3日午前9時20分、カニンガム准将に率いられた米軍第8軍第11軍団の3,500名の兵士は上陸用舟艇を
  使って館山に上陸して来たのです。東京湾口に位置する房総半島南部の館山は、戦略上の最重要地点
  であったため、本土決戦が想定されていただけでなく、敗戦直後はアメリカ占領軍本隊による初上陸地点
  となったのでした。
 
  1939年(昭和14年)の記録によると、館山海軍航空隊には97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機があり
  ました。この時の館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送り込む事でした。
  しかし1941年(昭和16年)の日米開戦に伴い、館山海軍航空隊は東京、東京湾、太平洋岸を守るための
  基地として使われるようになりました。終戦後日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦時には
  零戦・紫電など41機の飛行機しか残っていなかったそうです。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周
  辺には40基以上の掩体壕が作られましたが、現在残っているのは今回の宮城地区のものと、香地区に残
  っている大型の掩体壕の2基だけとなってしまいました。
 
館山地区の戦争遺跡は、今後もアップして行きます。

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