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'''太平洋戦争の中の「沖縄戦」'''
1945年、昭和20年6月23日は、「沖縄戦終結の日」とされています。
物量に物を言わせた、米軍の艦砲爆撃の激しさは、「鉄の暴風」といわれるほどに、
熾烈をきわめた 沖縄地上戦 は、米軍戦史でさえ、
「ありったけの地獄を、一箇所にまとめたような戦闘」と記したほどの
壮絶悲惨な攻防戦 でした。
沖縄戦の次に来るのは、日本本土での決戦で、帝国陸軍は沖縄作戦の最中にも、
本土決戦の準備を進め、 「軍民一体の戦闘」 を想定し 「国民義勇兵役法」 を、
この日6月23日に公布したのである。
昭和20年3月、西太平洋を制圧した米軍は、大小空母40隻、戦艦18隻、船舶1450隻を
沖縄周辺 に展開、 沖縄全島 は3月23日より猛烈な空襲と艦砲射撃にさらされ、
26日 慶良間諸島 に上陸占領し、米攻略軍の補給基地が確保され、
4月1日から 沖縄本島 に上陸作戦を開始した。
米軍地上戦闘部隊18万3千、補給部隊を併せると延べ54万人の大部隊であった。
迎える 沖縄守備軍10万、しかし3分の1は 防衛隊、学徒隊、現地召集の補助兵力に
すぎなかったので、首里の主力陣地に留まり、息をひそめ無血上陸を許した。
8日頃からの首里攻防戦は熾烈を極めた。
米軍は海と陸から砲弾の雨を注ぎ、戦車を先頭に歩兵部隊が突撃、火焔戦車と爆雷とガス弾で、
日本軍が立てこもる地下壕を一つ一つ潰していった。
これに対する守備軍は、夜間の斬り込みと爆雷を抱いての肉弾戦法で、
一進一退の攻防戦は40日以上に及んだが、5月下旬日本の主力部隊は壊滅したのである。
首里陥落が目前に迫った5月22日、軍司令部は喜屋武半島への退却作戦を決定したが、
既に弾薬も兵器も食糧もなく、本格的な戦闘を続ける力は残されていなかった。
喜屋武・摩文仁の自然洞窟に立てこもり、最後の一兵になるまで抵抗する出血作戦に出て、
ここに沖縄戦で最も悲惨な、一般住民を巻き込む地獄絵が繰り広げられることとなった。
6月6日小禄地区の海軍飛行場が占領され、大田海軍司令官は、海軍次官当てに、
訣別電報で、 戦況報告し、
最後に「沖縄県民斯ク戦ヘリ。 島民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ワランコトヲ」と
打電し自決した。
洞窟にたてこもる兵隊と避難民は、米軍の攻撃にさらされ、火焔放射器や爆雷ガス弾により、
穴の中で焼き殺され、修羅場の殺戮戦は一ヶ月におよんだ。
6月23日牛島陸軍司令官の自決したことで、日本軍の組織的戦闘は終結した。
しかし、その後掃討戦は続き、米軍の沖縄戦終結宣言は7月2日であった。
さきの3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸するや、鹿児島県知覧・鹿屋両基地から、
海軍機500機、陸軍機150機を投入して、 沖縄本島 への菊水作戦「神風」で、
片道燃料の航空肉弾戦の、特攻出撃を行った。 所謂、「神風特攻隊」である。
これに呼応すべく戦艦「大和」は、呉軍港を29日出港、三田尻沖に仮泊して最終実戦訓練をし、
4月5日に出撃命令を受けて、沖縄本島の浅瀬に乗り上げて、不沈の砲台と成るべく、
これまた片道燃料の「特攻出撃」であった。
戦艦「大和」は味方の護衛戦闘機はなく、遂に4月7日、奄美大島西方通過中に、
米軍攻撃戦闘機 数百機の波状攻撃を受けて、あえなく轟沈。
その後、米軍に占領された沖縄は、軍政が敷かれ、昭和21年4月24日米軍政の基に、
沖縄民政府が設立され、そして昭和27年4月1日琉球政府発足した。
昭和47年5月15日、ようやく日本に復帰したが、嘉手納基地は恒久基地化。
摩文仁(まぶに)の丘の平和記念公園には、
沖縄戦で散った軍人・軍属・県民の慰霊碑が建てられている。
慰霊碑は各県別に沖縄戦で散った軍人・軍属全員の氏名が刻まれているが、
中でも沖縄県は、軍人・軍属の他一般県民の氏名が刻まれ、その数はおびただしい。
沖縄出身の軍人・軍属のなかには、防衛隊、学徒隊、義勇隊など
一般県民からの義勇兵が含まれている。
戦死者その数、正規軍人65908名、沖縄出身軍属28228名、戦闘参加者55246名、
一般住民38754名、 米軍側12520名 という尊い命が失われたのである。
摩文仁の丘の、県立平和祈念資料館には、沖縄戦の数々の資料と、歴史的教訓が残されている。
沖縄戦の最大の犠牲者は住民であり、正規軍人より一般住人の犠牲がはるかに多い。
戦争の悲劇は、戦死者の数だけではなく、かろうじて生き残った者も、
心に生涯癒すことの出来ない、大きな傷を残した。
3ヶ月も戦場をさまよい、人間性にも異常をきたし、敵兵よりも砲弾よりも恐ろしい、
親が子を殺し、集団自決を強いられ、日本兵が住民を虐殺すると言う極限状態の、
狂気の地獄絵を見てしまったことである。
「投降勧告ビラ」が何十万枚もばら撒かれたが、信じる人もなく、
ビラを持っているだけでスパイの嫌疑がかけられるという、
極限状態で島の最南端まで追い詰められ、生死の岐路に立たされ、自決する者、
百に一つの望みをかけ投降する者。
展示会場のむすびに、
沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない と思うのです
このなまなましい体験の前では いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争を起こすのは たしかに 人間です しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間 ではないでしょうか
これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない 私たちの信条なのです
風光明媚な南の島にも、このような悲劇があったのです。
沖縄のことわざに、
「意地ぬ出(いじ)ら手ひき、手ぬ出(いじ)ら意地ひき」 争いをいましめた言葉という。
争いを好まず、「守禮の邦」と言われ、誇りにする県民である。
那覇空港周辺の小禄地区は海軍根拠地隊約一万が守備についたが、
圧倒的な米軍の前についえ去った。
司令官太田実少将は、昭和20年(1945)6月13日、豊見城村の司令部壕で自決した。
大田少将は6日夜、海軍次官あて、次のような訣別電文を打った。
(原文のまま。・・・・部分は不詳)
「左ノ伝ヲ次官ニ御通報方取計得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既ニ通信力ナク
第三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付
本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレトモ現状ヲ看過スルニ忍ヒス
之ニ代ッテ緊急御通知申上ク 沖縄島ニ敵攻撃ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ
県民ニ関シテハ殆ト顧ミル暇ナカリキ 然レトモ本職ノ知レル範囲ニ於イテハ
県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ケ 残ル老幼婦女子ノミカ相ツク砲爆撃ニ家屋ト
財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難
尚 砲爆撃下・・・・
風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンシアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ
看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来タリナハ老人子供ハ殺サレヘク 婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ
毒牙ニ供セラルヘシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ・・・
真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノト思ハレス
更ニ軍ニ於イテ作戦ノ大転換アルヤ自給自足 夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ
指定セラレ 輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕
物資節約ヲ強要セラレテ御奉公ノ・・・・ ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ・・・・コトナクシテ
本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形・・・・
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂ウ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ランコトヲ」
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