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東浦和とその周辺 その7 見沼田んぼ 散策案内 大熊家表門 中仙道浦和宿本陣の表門で、明治元年及び明治3年の、 明治天皇大宮氷川神社行幸の際、行在所にあてられ、行在所の表門として使われたが、 程なく大熊家に移築された。 江戸時代末期の建立で、浦和宿本陣を知る唯一の遺構として貴重のため、 昭和34年3月31日さいたま市指定有形文化財指定。 旧高野家離座敷 江戸時代末期に建てられた離れ座敷で、茅葺寄棟造り、主室の四畳半には 茶事の炉が切ってある、数奇屋造りの茶室である。 離れ座敷を建てたのは、高野隆仙(1811--1859)という医師で、文人墨客の交流の場とし、 師と仰ぐ高野長英と親交が深く、幕末から維新の動乱期に、 真剣に生きた人々の生活の一端を伝える建築物である。 高野長英 文化元年5月5日(1804年6月12日)嘉永3年10月30日(1850年12月3日) 江戸時代後期の医者。蘭学者 高野長英の養父高野玄斎は仙台藩・水沢留守家の藩医で、江戸で杉田玄白に蘭法医術を学ぶ。 高野長英は長じて、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事、才能を認められ、 師の「長」の名を受け「長英」と名乗る。 長崎に留学し、シーボルトの鳴滝塾で、学力抜群で塾頭となった。 文政11年シーボルト事件に捕らえられ、厳しい詮議を受けたが、巧に逃れ、 豊後国日田の広瀬淡窓に弟子入りする。 義父玄斎が亡くなったが、帰郷を拒絶し、家督を捨てたので、武士身分も失う。 天保元年、江戸に戻り、町医者・蘭学者を開業し、三河・田原藩重役の渡辺崋山と知り合い、 能力を買われ小関三英や鈴木春山と、蘭学書翻訳に当たる。 天保8年、「異国船打払令」のとき、アメリカ商船モリソン号が打ち払われる モリソン号事件について、幕府批判のかどで捕らえられ、永牢の判決を受けた。 弘化元年、牢屋敷火災に脱獄し、逃亡生活を送り、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で、 宇和島藩主 伊達宗城に庇護され、兵法書、蘭学書の翻訳や、兵備の洋式化に従事するが、 その後、江戸の戻り、偽名を使い、薬品で顔を変え、町医者を開業する。 嘉永3年、江戸青山百人町に潜伏中、捕縛されるとき、奮戦し自害して、護送中に絶命する。 開国が実現した後、明治31年(1898)7月4日、その功績により正四位を追贈された。 故郷水沢市では,高野長英、斉藤実、後藤新平を三偉人とし、 小学校では総合学習授業で,生涯・功績を学習する。 高野長英記念館(http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/) 高野隆仙 高野隆仙は武州足立郡間木村(埼玉県さいたま市緑区尾間木)の人。 高野長英をかくまった罪で鴻巣ヒカタの同心詰所で「石ぜめ」の拷問を受けたが、 百日経っても口を割らなかったという。 釈放された翌年、拷問の傷が再発、衰弱し、安政6年49歳でこの世を去った。 江戸板橋に住み、長英の釈放運動をした。 高野長英の脱獄後、高野隆仙のところに連れて行った水村玄銅はその弟。 散策は、思いもよらぬ発見があります。 幕末から維新の動乱期に、この家の中で何が話されていたのだろう。 ここで真剣に生きた人々の生活に、触れることが出来るとは思いもよらぬことでした。 この家を見たとき、高野長英の名は、漠然と、幕末に活躍した人と記憶にあったが、 深くは知らなかったので、調べてみて改めて、大変な人物であると知り、 歴史に思いを巡らし、近い内にまた改めて、見学しようと思う。 「大熊家表門」は、明治天皇が二度も、行在所として使われた 「浦和宿本陣表門」ということは、この門は輿で通るか、歩いて通るかないわけだから? 想像は無限に広がるよ!!! 大牧堤 大牧堤の春 桜並木の散策路・見沼代用水路西縁 藪かんぞうの咲く初夏の大牧堤 |
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キタ━━━━(゜∀゜)━━━━
2008/7/11(金) 午後 4:13 [ mankodaisuki ]