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昭和20年8月のこと その4 著者 関千枝子は、戸惑いながら語る。 二年西組 のクラスメートが、『靖国の神』に、祀られている。 広島市で疎開地の跡片付け作業中に死んだ教師、生徒は『最年少の英霊』として、 昭和38年に合祀された。 昭和44年には叙勲。 原爆で死んだ生徒達を靖国に合祀する運動をしたのは、 「広島県動員学徒等犠牲者の会」であるという。 原爆ドームの近く、平和記念公園の対岸に、昭和43年に建立した「動員学徒慰霊碑」、 太平洋戦争中に勤労動員され、戦争のために死んだ学徒の霊を慰めるためにつくられ、 動員先の工場で、空襲等のため死んだ学徒も含まれているので、 全国の学校の名前が記されているが、主力は疎開地片付け作業中、 原爆で死んだ広島の生徒であるという。 広島には慰霊碑が数多く建立されている。その多くは今の「平和大通り」の周辺にあるという。 それだけ、その付近が犠牲者が多かった事を物語っている。 では何故そこに集中していたのか? ある本によれば、空襲の被害を少なくするための、建物の強制疎開。 疎開地片付け作業が、遅れていたので突貫作業の大動員であり、 そのための中学生の大動員であったという。 その頃、その様なところの働き手は、中学生しかいないため、学校単位での動員であった。 もはや、この国の状況は、そこまで逼迫していた。 それでもなお、勝利を夢見て、国民に強要し、本土に敵を誘い入れて撃滅できると、 国民に信じ込ませていたのである。 国民も、半ば不信に思いつつも、大本営の情報のみそれを信じるほかは無かったのである。 多くの都市において、実施されていたことである。 火災の被害を食い止めるための、防火帯道路の建設で、線引きされたところは、 住民に有無をいわせず、いきなり住宅を引き倒して、道路を作ってしまうのである。 当時東京では、空襲されるようになって、いち早く方々に防火帯が作られた。 しかし3月10日の大空襲では、幅50mあるいは100mの防火帯は、 空爆攻撃に何も役立たなかった。 その様な教訓がありながら、広島の大動員であり、集中被災であった。 靖国神社に合祀されたとき、その遺族の喜びは大変なもので、最大級の喜びであり、 名誉なことであるという。 この運動のために、懸命に努力した遺族もいる。この人々は、子供の愛し、魂を慰めるには、 これしかないと信じて運動し、「これで、犬死では無くなった」という人もいたという。 靖国神社は、時として色々の問題を提起する。
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