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昭和20年8月のこと その17 終戦 戦争は人と人とを引き裂いてしまう。徴兵で、母は息子と別れ、妻は夫を失い、 家庭には男たちがいなくなっていった。 日本中の家庭が老人と女と子供だけになっていき、更に戦況の悪化により、 子供たちとの悲しい別れが始まった。 昭和19年3月、閣議により建物疎開に続き人員疎開が実施された。 都市防空のため老人・子供の縁故疎開、6月30日学童疎開要綱が決定され、 縁故疎開が出来ない学童の集団疎開が実施され、子供たちは親元を離れて行ったのである。 東京のみならず、全国13都市にも適用、疎開学童数40万人が予定され、 疎開先は地方の旅館、寺院、民家等で、 学童50名に教員1名、寮母は25名に1名と規定された。 8月4日第一陣が東京駅、上野駅から、肉親の下を離れていった。 疎開の日々は子供たちの心に何を刻み付けたのだろう。 多くの体験者は二度と思い出したくない消してしまいたい記憶だと語る。 集団疎開、女子学童の昭和20年8月15日の日記 昭和9年生まれ 当時11歳 東京 疎開先 8月15日 水 晴 朝、食事を取りに行き、帰りに空襲になり急いでかへって来た。 食事がすんで少し休み、分数の勉強をした。 少し早く食事を取りに行った。 食事が終わってすぐ上文司(宿坊の名)へ、重大発表を聞きにいった。 日本がむじょうけんこうふくをしたのだ。かしこくも天皇陛下の御声をお聞きした。 寮へかえり、先生からいろいろとお話をお聞きして、 あらたに心持をいれかえて、又、日本を起こすことをちかった。 天皇陛下のおなさけを心からかんしゃして、 先生はじめ、皆で、くやし泣きに泣いてしまった。この日を永久に忘れまい。 おやつにイリ豆をたべた。すぐ勉強に取りかかった。 朝 モロコシダンゴ汁(オハ、ダイコン) 昼 おぞーすい、おしんこ 夜 うどん おやつ イリ豆 校門を出る疎開児童、何時帰れるのか、親も子供も誰も判らなかった。 東京からの学童疎開の第一陣は、昭和19年8月4日。 軍人兵士の日記は、その存在自体大変貴重であった。 その第一の理由は、軍隊での生活は、24時間厳しい規制に縛られ、 肉親との私信から持ち物まで細かいチェックを受け、 徹底した階級社会で下位の兵は上位の兵に絶対服従、 個人としての自由時間も空間もない集団生活であった。 個人記録の日記などは付ける余裕はなかったはずである。 人間性を失うまいと、唯一の行為「日記」を、隠れて読み書きする場は厠で、 「厠日記」として記録された。 第二の理由は、敗戦と共に軍人の記録は戦争責任の証拠となるとして、一切の焼却命令。 此れで殆どが灰になった。 厠で書き綴った日記を隠し持って、復員することが極めて困難であった。 野間宏「真空地帯」、五味川純平「人間の条件」など、 平凡な日本人が徴兵制度で入隊した軍隊で、どのように生き、どう考えていたのかを伝える、 非人間性を告発した文学作品で生々しく記録されている。 兵士の「厠日記」 昭和20年8月15日の日記 大正14年生まれ 当時20歳 仙台鉄道局で機関士勤務 20年2月応召 ソ連軍上陸に備え、北海道で戦車連隊で猛訓練中で、戦車30台保有のため 戦争可能と認識していた。 当日、中隊長より正午重大放送を拝聴する命令を受けて、 陣地構築資材運搬任務につき、途中民家で放送を聞く。 8月15日 水 曇 暖
北山の助手代理として乗る。牛乳や豆を買った。独戦五中隊へ材料運搬したら昼になった。 三叉路で「大元帥陛下」の玉音を拝聴す。 心なしか敵米英ソ支四カ国の降伏条件に 受諾の旨の詔を陛下御自ら御放送あらせられているのだ。その御声もふるいを帯びていた。 ああ遂に利あらずして反枢軸に屈したか。 この仇いかで打たずに居られようか、 一億国民、否大東亜の諸民族の平和も無惨にも水泡に帰したか。早く死んだ将兵は幸福だった。 皇国の必勝を信じて殉国した先輩勇士に対して何で申訳があろうか。 今日の今迄誰が時局の転換を想像したであろうか? 日本臣民たるもの陛下の至上命令とはいうものの悲涙に咽ばぬものはあったろうか、 あまりにも想われぬ事実だ。 仕事を途中にして帰る。車両整備中に堀中尉の話あり。 日本の今後の惨状を語り最後に我々軍人の進むべき道を明示してくれた。 阿南陸相に続いて殉死するつもりかも知れぬ中尉の態度が何とも言われなかった。 みんな沈黙のまま今日一日も過ぎて就寝す。 夜二十三時頃非常呼集発令さる。 情報に依れば帯広地区に於いて暴徒発生の疑濃厚なりとの事だった。 中隊から○○分隊の兵員出動して警戒に当った。 ああ明記すべき昭和二十年八月十四日と十五日 |

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