なお爺のひとり言

一期一会の出会いを大切に 満89歳の卒寿になった、なお爺 これからも よろしく

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   昭和20年8月のこと  その21   終戦

   帝都・東京は灰燼帰す
   東京は空襲で焼失した家屋は71万3千戸以上にのぼり、
   広島の焼失家屋は約10万戸であることから比較して、
   いかに東京が焼け野原で灰燼に帰したが想像されよう。
         (「日本列島空襲戦災誌」東京新聞社)
   人口は、開戦当時800万人が住む大都市・東京は
   20年6月15日の人口調査では220万人、1年前の約3割に減少
         (「近代日本総合年表」岩波書店)。
   しかも、異様であったことは、町から子供や女や老人が姿を消して、
   男ばかりが目立った都会になった。
   殆どの家庭では、主婦、老人、子供たちを地方に疎開させ、
   どうしても仕事で東京を離れられない、男たちが残った。
   この男たちが、日本の官僚組織、公的機関、企業、報道関係などを動かしていた。
   この見渡す限りの焼け跡が、日本の原点となった。

 東京大空襲(3月10日)の1週間後の浅草。 浅草松屋デパート屋上からパノラマ撮影した惨状。
  左は隅田川、右に地下鉄浅草駅ビルと焼け落ちた浅草仲見世。 (東京空襲を記録する会)
イメージ 1

イメージ 2
     焼け跡で入浴   
     3月10日の空襲を頂点に
     B29による絶え間ない爆撃で
     東京は焼け野原が増え続ける。
     国電大塚駅付近の
     ドラム缶風呂での入浴の光景。 
     唯一、休息のひと時の笑顔。
          (朝日新聞社提供)
イメージ 3
 国会議事堂前に畑が出現(9月)   
 終戦直後の食糧難を乗り切るため、
 日本中が畑作りに精を出し、
 焼け跡は耕されて麦、いも、
 カボチャなどが植えられた。 
 畑作りは、同時に、泥棒との知恵比べだった。
        (共同通信社提供)

   平岡敏男の昭和20年8月15日の日記
   明治43年生まれ 当時35歳
   終戦当時、毎日新聞社東京本社政経部副部長、デスク仕事。
   家族は青森県に疎開、杉並の自宅で単身生活。
   職務上、和平交渉の進展状況・内容は刻々知らされる。
   広島・長崎の原爆がいつ東京に落とされるかと、恐怖不安を抱いていた。
   編集局長・吉岡文六が秋月外交官から「フランスは何度も戦争に負けたが、必ず立ち直った。
   民族が優秀だからだ」という話を、仲間に披露した。 
   新聞社内では、日本の敗戦を前提にして、戦後をどうするのかという考えが広がりつつあった。
   8月15日の放送を、社内全員が起立して聞いた。 
   戦争責任をどうするかという声も聞かれたが、多くの男たちは黙ったまま立ちすくんだ。 
   内閣情報局に、報道全て規制された新聞で、戦後に向けてわずかに表現できたには、
   8月15日付紙面の社説「過去を肝に銘じ前途を見よ」であった。
   社説は「(略)過去から得る教訓は貴い。われわれは過去を忘れず、
   その教訓を骨身に徹せしめなければならぬ。 しかしながら、断じて過去に捕らわれ、
   過去の囚人となってはならない。 強い日本を建設すべくひたぶるに進んできた。
   勿論ただ日本が強くさえあればよいというのではなかった。 
   道義の上に強い日本を建設することが願望であった。 強大日本への願望が国民に
   内在したものであったか、世界の事情、自然の力に因ったものであるかは、
   容易に断定し得ないと思う。」(15日毎日新聞社説)
   20年12月経済部長就任。 
   論説委員、ロンドン支局長、総務局長、企画調査局長、常務取締役、監査役を歴任、
   51年毎日新聞社社長、55年会長に就任。

   8月15日 
     一億慟哭の日。
     大東亜戦争終結の日。
     敗戦の幕開かる。
     正午、社で、陛下の御放送を聞く。
     悲哀、痛憤、恐懼の錯雑。
     大御心の有難さに、むせびなく。 わなわなとふるひ泣く。
     何をかいわん。
     鈴木内閣総辞職、阿南陸相自刃。
     この日、米、一粒も食はなかった。
     はるより手紙来る。 すべては終り、すべては始まる。
   8月17日
     昨日朝、あまり省線が混むので都電に乗り換えるため新宿におりたら、
     都電がまた相当の混み方だ。 空襲がなくなったので忽ち猛烈な人出だ。
     後継内閣首班は東久邇宮稔彦王殿下。 赤坂離宮で組閣。
     この日宿直。
     ソ連は既に京城に入った。
     土佐湾では、敵の艦隊に特攻機が出ているとも伝へられる。
     騒然たる不安。
     さかんにビラが撒かれる。 断固抗戦すべしといふのだ。
     新聞九時半で降版。 部員と語り十二時頃ねる。
     朝七時起きる。
     内閣々僚顔ぶれ決定。 親任式。
     陸海軍人に対し証書渙発さる。
     朝かびた乾パン、昼は農商省食堂のうどん。四時頃社を出る。 暑い。
     家に帰ったら、特配の白米二キロ、鰊半匹。 白米をたき、鰊をいれて味噌汁をつくり、
     わが菜園の小さなトマト二個、それと同じくわが菜園の胡瓜で、胡瓜もみをつくる。
     はる、千代子、叔父に手紙だす。
     夜、山下を訪ねる。 十時半まで。
     山下夫人に聞くと、百姓は、容易に売らなくなってきたといふ。
     日一日と、非常の色彩濃くなって行く。
     陛下の仰せられるように、『堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ』日は、
     これから、どれ位続くのであらうか。 敗戦日本、無条件降伏日本。 ああ。

   陸軍曹長・某の昭和20年8月15日の日記
   大正6年生まれ 当時28歳
   戦争が青春の全てだった世代。
   19歳で浜松飛行連隊に入隊、日中戦争で北支・中支・満州を転戦、
   太平洋戦争で航空作戦に伴い、北海道・樺太・千島・九州・沖縄・台湾・フィリピンなどを
   転々とし、20年8月を所沢で迎え、予備役陸軍軍曹で民家に下宿し、兵舎に通い、
   故障した飛行機や特攻機の整備をする。
   8月15日飛行戦隊本隊は秋田県能代に展開、
   合流するに飛行機が無かったので所沢に留まった。 そして
   
   8月15日 水 晴  大詔渙発、無条件降伏。
     正午大元帥陛下の御放送あり。 晴天の霹靂とはこの事なり。
     日本は米英支ソ四国に対し無条件降伏をしたのである。呆然として為す所なし。
     続いて首相の放送あり。阿南陸相は自刃す。何して良いやら判らず。
   8月16日 水 晴  三六号整備、所沢発
     三六号右翼端を修理して午後能代へ向け飛ばす。 俺は山田と共に切符買いに昼出た。 
     記録とか個人のものは全部焼いた。派遣隊は解散。 
     キ四三(一式戦闘機隼のこと)は焼くとかで飛行場に持出してある。  皆口惜しがる。
   8月17日 金  能代着
     我等の前途は暗澹たり。 今にも東京に敵が上陸するとか話しあり。 
     デマの乱れる事甚だしきものあり。  明日より国鉄は一般の輸送を停止し、
     軍人の帰郷のみ扱うとか。本隊は全員兵舎に居れり。
     軍は一戦やるべき事。  戦隊は今夕発ったそうだ。  一切の書類は焼いて何もなし。
     ああ生をうけて以来、斯様に混乱に遭遇したる事は始めてなり。

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