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川口市安行と新郷、その周辺 12 周光山勝林院源長寺 周光山勝林院源長寺は赤山陣屋址から首都高速道路川口線を挟んで、その向かい側にある。 県道越谷鳩ヶ谷線を走る国際興業バスの新井宿入口バス停から北に一直線に入った所に在る。 源長寺縁起によると、 「関東郡代・伊奈半左衛門忠次公の居城に近い赤山に在った古寺を再興して、 伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、 両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の円誉上人を特請して開山した。元和4年(1618)であった。 その後寄進を受けた五十石の広大な寺領と、寺域を整え、諸堂を建てて江戸初期から 中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とした。 しかし大檀那 伊奈氏の十代忠尊のとき改易され、代々の所領は没収され 赤山の館は解体を強いられ、経済的失調が決定的に成った。 これに伴い源長寺は衰退し、諸堂にも朽廃が目立ち、営繕も伊奈氏の経済不如意から放任され、 大伽藍の維持に困窮し、縮少して難局を越えてきた。 江戸中期以降明治にかけて、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者もあって 窮状が加速、広大な寺領も次第に蚕食され、多くの寺領を失ってしまった。 僅かに残った農地も、終戦後の農地改革政令に従い、全て手放し、 境内墓地の寺域が残ったに過ぎなかった。 この難局にも本尊・阿弥陀如来は無事であったことは幸いであった」 と記されている。 本尊・阿弥陀如来は藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、 川口市指定文化財に登録された。 この寺は非常に丁寧な解説案内板が随所に設けられていた。 今まで気付かなかった事、知らなかったことが記されてあり、大変勉強になった。 訪ねる前に、事前に知識を持って行くべきだが、つい智識なしで行くことが多いので、 このような解説案内板は非常に参考になる。 お寺の厚意に謝して、ここに転載する次第です。 白塀に囲まれて、周光山勝林院源長寺の入口はあった。 正面本堂
市指定の保存樹木である高いヒマラヤスギの奥に本堂はあった。 大檀那 伊奈氏の滅亡で衰退荒廃し、檀家の離散相次ぐ中、ようやく昭和中期に、 雨露をしのぐのみの茅葺本堂の再建を決意し、 昭和63年完成法要を営むことが出来たという周光山勝林院源長寺本堂。 本堂前の法念上人尊像と前庭。 法然上人は長承2年(1133)岡山美作に生まれ、父は土地の豪族だあったが、夜討殺害され 一家離散せるも、父の遺言「汝、敵人を恨むなかれ。 静世の宿業だある。 出家してわが菩提を弔い、自らの悟りを求むよ」と仇討ちを戒めた父の遺言で出家した。 比叡山に入り、皇円・叡空に師事、43歳のとき専修念仏に帰し、 東山吉水で浄土法門を説いた。 貴賎の帰依者の増加に伴い、旧来の仏教の迫害を受け、 建永元年(1206)念仏宗停止が宣下され、四国讃岐に流されたが、 建暦元年(1211)許されて帰洛したとき79歳。 翌年長旅の疲れに病の床に就き80歳の生涯を、大谷の禅坊(現・知恩院)で閉じた。 釈迦涅槃像 本像製作者・関戸三郎氏は新構造社に在って、多くの秀作を創り活躍中。 この涅槃像は、仏縁に帰依仏心、一年有余丹精を傾け製作し、 納入開眼に先だち、東京都立上野美術館にて、第68回新構造展に出品、 文部大臣奨励賞を受賞し、二十日間の一般公開で多くの入場者の鑑賞を受けた。 人間の尊厳が希薄になった現代、ご詠歌の深い心を考えるときだと思います。 板碑・板石塔婆は板佛・青石塔婆と呼ばれる、全国的に分布し、関東に多く見られる。 |
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