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歴史の特別日 014 大正天皇崩御 大正から昭和に 大正15年(1926)12月25日 宮内省の杉琢磨・内蔵頭(くらのかみ)が、 「天皇陛下には、今25日午前1時25分、葉山御用邸において崩御あらせられる」と、 大正15年12月25日午前2時40分に発表。 大正天皇は、10月頃から気管支炎にかかり、体調を崩されていた。 御歳47歳。 宮内省が、神奈川県葉山の御用邸にこもられていた天皇の「御不例(ごふれい=ご病気)」を 発表したのは12月15日であった。 崩御から2時間後、皇太子裕仁親王(25歳)が、 葉山御用邸の御座所で「剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)」が行われた。 大正10年から摂政を務め、病弱な天皇に代わって公務を果たしてきた 裕仁親王が「践祚(せんそ)」して、第124代の天皇につかれた。 昭和2年2月7日、「御大喪」、 昭和3年11月10日、裕仁新天皇の「即位大礼式」 が行われた。 崩御のニュースが伝わると、町は哀悼に包まれ、 高島屋呉服展は「奉悼の意を表し、25日に謹んで休業仕候」と社告を新聞に掲載。 多くの市民が宮城前に詰めかけた。 ところがその前、ご病状をめぐり葉山御用邸を舞台にした新聞社の激しい取材合戦は、 特ダネを掴もうと、しのぎを削っていたが、崩御の報に一斉に配られた新聞号外の中で、 ひときわ異彩を放つ新聞があった。 他社を圧倒する『特ダネ』を掲載した東京日日新聞であった 「元号制定に関しては、枢密院に御精詢あり同院において慎重審議の結果 『光文』、『大治』、『弘文』等の諸案中左の如く決定するであろう『光文』」。 崩御から約2時間後の午前3時半頃に発行された東京日日新聞の号外には、 早くも新元号を『光文』と明言していた。 続いて「報知新聞」も『光文』と発表した。 ところがこのスクープ・特ダネは「元号誤報」騒動にと、発展したのであった。 宮内省が「天皇御不例」を発表するや、新聞社は一斉に動きだした。 特に元号については、明治天皇崩御のとき、「東京朝日新聞」が「新元号を大正に決定」の 特ダネを入手した。 「東京日日新聞」は特ダネ決戦で破れ、その積年の恨みを晴らす 絶好の機会と捉えていた。 東京日日新聞は如何に「光文」スクープを入手したのか?? 「大正が改元されるとき『光文』か『天文』のどちらかに決定されると言う極秘情報が 入っていた。 政治部辣腕記者の働きによるもので、その後、政治部長のもとに『光文』に 決定すると言う情報がはいったのである。 (渡辺一雄「実録号外戦線」) 東京日日新聞の号外に驚いたのが、厳戒態勢を敷く東京朝日新聞で、真偽を確かめるため 葉山御用邸での枢密院の精査委員会を徹底的にマーク。 意外なことに、安達謙蔵・臨時代理大臣から「昭和だ」との返答を得た政治部記者は、 「昭和」と書いたメモを握ってデスクに駆けつけ、その場に倒れこんだ。 翌26日午前11時、政府は「大正15年12月25日以降を、改めて昭和元年となす」 との詔書を公布。 この瞬間、東京日日新聞の社運を賭けた「世紀のスクープ」は、「元号誤報事件・幻の特ダネ」 に一転した。 東京日日新聞の本山彦一社長は激憤、翌2年1月15日の重役会でみずから辞表を提出。 責任問題で社内は紛糾したと言うことである。 『昭和』に決った理由について、政府と宮内省が、東京日日新聞スクープの後、 あわてて決定済みの「光文」を「昭和」に差し替えたと噂されるが、真相は未だ謎である。 (日録20世紀 講談社) 大正天皇は明治12年(1879)8月31日生まれ。 明治天皇の第3皇子で、母は柳原愛子。
明治22年(1889)立太子。 33年(1900)九条節子〈貞明皇后〉と結婚。 45年(1912)7月30日、明治天皇の崩御により皇位を継承。 大正4年(1915)、京都で即位礼 大正天皇の大喪儀の中心である「葬場殿の儀」は、昭和2年2月7日、新宿御苑で行われた。 写真は皇居から御苑に向かう葬列。 沿道は50万の人で埋め尽くされた。 毎日新聞社 明治37年、沼津御用邸でのスナップ。 右から皇太子嘉仁殿下(大正天皇)、裕仁親王殿下(昭和天皇)、淳宮殿下〈秩父宮〉、侍従 天皇のご病気が発表され、葉山御用邸はあわただしさを増した。 写真は12月18日、参殿のため、逗子の養神亭を出発する大臣たち。 天皇崩御が伝えられた12月25日、街頭での喪章売り。 腕章は一本8銭から50銭が標準の値段だった。 天皇の崩御を伝える、大正15年12月25日付「東京日日新聞」号外。 元号は『光文』と、はっきり書かれているが、スクープ合戦での元号誤報事件となった。 |

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