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江戸東京・山手 15 青山・銀杏並木 明治神宮外苑・銀杏並木の、青山2丁目交差点の角奥に「明治神宮外苑之記」と言う 石碑がある。 高さ4m、幅1.8、厚0.36m、東北仙台産石。 そこには、明治神宮奉賛会総裁に元帥陸軍大将・大勲位功二級・閑院宮載仁親王。 明治神宮奉賛会会長が正二位勲一等・公爵・徳川家達。 何とも厳しい肩書きである。 当時としてはこの肩書きこそ、その人物にとって最も重要な看板だった。 官庁勤めの公務員、特に軍人は、終戦のときまで、全部この肩書き・看板が 付いて廻ったものである。 お氣付きと思いますが、NHK ドラマ「天障院篤姫」の天障院が最後まで護った、 徳川宗家の第16代将軍になるべき5歳?の徳川家達が、奉賛会会長になっていた。 ドラマを見なければ、碑文の細かなところまでは、気付かなかったと思う。 碑文によれば、
『明治45年(1912)7月30日の明治天皇(第122代天皇)が崩御、 大正3年(1914)4月11日昭憲皇太后〈明治天皇皇后〉がお亡くなりになり、 お二方の御神霊をお祀りし、ご遺徳を追慕戴仰申し上げたいという機運が高まり、 大正9年(1920)11月1日、代々木の地に明治神宮御創建となった。 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面に、 驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立され、 その原動力となられた明治天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいと、 明治神宮外苑の造営が進められた。 そこで天皇御在位中、しばしば陸軍観兵式を挙行し、また御葬儀が行われた、青山練兵場に、 皇室御下賜金や、国民の献金と真心の労働奉仕により、大正15年(1926)10月、 明治神宮外苑は完成した。 明治天皇・皇后御一代の御事蹟を記念する絵画館、 青少年の心身鍛錬する野球場・競技場などの運動設備、人々の憩いの場所として、 外苑・内苑を後世に残された。 造成工事完成に明治神宮に奉献するに当たり、概要を後世に伝えるものである』と 言うことである。 ファッション雑誌の背景にしばしば登場する銀杏並木。 秋は黄金色に葉が色づき、やがて散って黄金のジュウタン。 葉が落ちて無数の枝が針のように天を突き刺している冬の季節。 明治19年以来、青山練兵場と言われ、軍隊を訓練した場所である。 明治天皇の御臨席のもとにしばしば観兵式が行われた。 なかでも明治23年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の 日露戦役凱旋観兵式などは盛大であった。 当時の様子が描かれた絵画「凱旋観兵式」(小林万吾画)に其の時の様子が描かれている。 天皇陛下が何時もこの「榎」の西前方に御座所が設けられ、軍隊を閲兵した場所の榎を、 「御観兵榎」と命名し永らく保存したが、 平成7年樹齢200余年の老木は、台風で倒木したので今は2代目。 記念碑の書は元帥東郷平八郎大将の書。 銀杏並木より権田原交差点までの中間にある。 大正4年と5年(1915と16)ナイルスとスミスの曲技飛行家が、この練兵場で、 飛行機で飛んで見せた。 ナイルスは日本人には初めての、宙返りを見せ、スミスは木の葉落しを見せたので、 見物人はブッタマゲて度肝を抜かれ、その驚嘆振りが想像できる。 日本のファッションの最先端地・青山も、100年前は遮るものとてない、茫々の草原地、 軍隊の練兵場であったとは、想像できない現実です。 建国記念文庫なるものが、神宮第二野球場と絵画館の中間にある。 説明によると、 『昭和41年(1966)12月9日、建国日制定審議会は「2月11日を建国記念日」と答申、 即日法律として発布された。 数十万通に及ぶ、建国記念日制定の希望・意見書があったので、「建国記念文庫」を建設し、 保管することにした。 建設費は国民の浄財で、建国を思う国民の情熱を、千年万年の子々孫々に伝えるために、 記念文庫設立の目的とした。 建物は、建国当時米穀を以って立国したことを想い、奄美大島の高倉様式を移築し、 屋上にテンバガラスを施工し、書類を保管した。 書は、出雲大社・神門布施杉材に佐藤大寛が墨書。 礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立した故事に鑑み、 奥州巌作山の石垣白河石で施行した。 昭和44年2月11日 元建国記念日制定審議会長・菅原通済記』 とある。 建国記念日がこのように決まり、請願書がここに保存されていたとは、知らなかった。 |
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