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江戸東京・山手 35 新宿文化センター 新宿文化センターは新宿6丁目に。 西向天神社 西向天神社は新宿6丁目にある。 神社の略記によれば「御祭神は菅原道真大神を祀り、境内末社に稲荷神社、秋葉神社、厳島神社を お祭りする。 創建はおよそ700余年前の後堀河天皇安貞3年に栂尾高弁明恵上人捧持の菅公自刻尊像を、 当地に祭られるに起因し、天正年間に兵火に被ったが、大田氏神田社領を寄進し社殿を旧観に倍した。 当時境内に鶴の巣林、雪渓洞龍屈、望岳楼、座禅石、多宝塔、鎌倉道、紅梅林、桜林、閼伽井の 十景があって、道晃法親王が東国に下向の際に、感賞の和歌を詠み、 夢見法師に当社の別当を命ぜられた。 当社はまた夢想天神の別称があり、内藤筑前守の息女が夢想によって病気平癒したことによる。 また第3代将軍家光がここに立ち寄り棗(なつめ)型の金の茶器を与えて社の修理をするよう 命じたので、なつめ天神とも呼ばれる。 明治5年村社に列し、明治40年幣帛供進社に指定された。」とある。 大町桂月の「東京遊行記(明治39年)」には、「新宿付近唯一の眺望良き処也」と書かれ、 永井荷風の「日和下駄」(大正4年)には、「夕日の美しきを見る固めに人の知る所となった」と ある。 西向天神社の能舞台 西向天神社と社務所及び境内と水屋 どうゆう訳か境内に 「新宿の女」の歌碑?? 大聖院 寛永年間(1469−1465)に牛込八郎重次が創建した不動尊のお堂。 大聖院に伝来する古文書・古記録類は、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)に及ぶ 二巻五冊一葉である。 大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由緒に関するものや、 境内の紅皿の碑に関するものなどが含まれ、 大久保地区の貴重な史料で、新宿区登録文化財古文書 山吹坂 この坂の上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、山吹坂と呼ばれる。 紅皿は大田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、 道灌に山吹の一枝を捧げた女性。 紅皿の墓 大田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑一基、灯篭二基、 水鉢一基、花立二基。 板碑は新宿区内では唯一のものとなる、中世十三仏板碑。 板碑の前には十二代守田勘弥や、歌舞伎関係者による石灯篭、水鉢等が立てられ、 その存在が広く知れれた。 伝説では、大田道灌が高田の里(現在の面影橋付近)へ鷹狩りにきて、にわか雨に降られ、 近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。 その屋の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出した。 「御捨遺集」の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、 雨具(みの)のないことを伝えた。 後、これを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。 道灌の死後、紅皿は尼となり大久保に庵を建て、死後その地に葬られた。 紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中期に成立し、幕末維新を経て広まっていく様子を 知ることが出来、伝承・文献も含め貴重な史跡として位置ずけ、新宿区指定史跡に。 これは昔、小学校の教科書に載っていた話と記憶する?? 富士塚 弘化2年(1845)築造の富士園。 神社下にはカニ川と呼ばれる小川があり、
江戸名所図絵にも出ていて、水源は太宗寺の池で、早稲田鶴巻町方面に流れていた。 この川の流域が大きな窪地になっていたので、大久保という地名になったという。 またカニ川に沿って鎌倉街道が通っていた。 今はビルの谷間になっているが、ここからの富士山の眺めはよかったと思う。 新宿中学校の校門前からの富士塚全景。 西向天神に隣接して新宿区立新宿中学校。 中学校に隣接して新宿区立天神小学校。 |
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