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江戸東京・下町 03 築地本願寺・慈光院 東京都慰霊堂に隣接して築地本願寺・慈光院があり、 ここも慰霊堂と同じく毎年3月10日と9月1日に 関東大震災受難者及び東京大空襲犠牲者の法要を実施している。 3月10日には、法要と法話が行われていた。 慈光院は震災・戦災犠牲者の回向のため、築地本願寺の別院として開かれている。 江戸東京博物館 江戸東京博物館がすぐ近くにある。 江戸東京博物館はJR両国駅の近くで、高床式の蔵をイメージした建物で、 江戸と東京の歴史博物館として、江戸から東京に変遷の過程を資料や復元模型などで 分りやすく展示してある。 都民ばかりか、児童生徒の社会科学習に、特に修学旅行生に人気の楽しい博物館となっている。 江戸東京博物館・自動車駐車場に入る館内入場路の脇には、江戸城を築城した 大田道灌の鷹狩り装束の銅像がある。 大田道灌は武州川越の城主であったが、鎌倉通用のため江戸に一城取立てるべく、 鷹狩りをかねて城地の見立てをなし、 武蔵の国、郡の名は豊島、千代田、宝田、祝言の三村の名は吉瑞の名であるので、 この地に城を築けば末々繁盛疑いなしと、ここに城を築城し、 千代田の城と名付けたと言われている。 江戸東京博物館の近くに、この様な高札があった。 「置いてけ堀」の由来である。 江戸東京博物館入り口近くにある、「言問橋の欄干と縁石」 「言問橋は昭和3年(1926)に完成し、関東大震災復興橋の一つで、 昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲のとき、 浅草方面から向島方面へ避難しようとする人々と、その反対側からの渡ろうとする人々とが 橋上で交叉し、身動きできない状態となった。 人々ばかりか荷物、荷物満載の荷車・リヤカーなどもあった。 そこに火が燃え移り、橋の上はたちまち大火災に包まれて、橋上では逃げるすべもなく、 多数が焼死し、辛うじて川に飛び込む人が多くいたが、しかし助かった人は殆んどいなかった。 平成4年(1992)の改修工事に当たり、当時の欄干と縁石が撤去されることになり、 東京大空襲の被災の歴史資料として一部を江戸東京博物館が譲り受け、ここに保存展示した」 と言う事である。 昭和20年3月10日の東京大空襲の記録写真 東京都慰霊堂での戦災犠牲者追悼法要には、どうしても語らなければ成らないので、
記録写真を転載しました。 アメリカ軍提供 3月10日東京空爆状況確認偵察の航空写真 まだ火災の噴煙がたれこめている。 神田区、(千代田区)日本橋区、京橋区(中央区)下谷区、浅草区(台東区) 本所区(墨田区)深川区、城東区(江東区)荒川区(荒川区)が全焼壊滅状態。 空襲被害、戦災家屋26万9千戸、死者推定10万人、負傷者4万人、罹災者101万人。 焼け残った震災祈念堂と復興祈念堂(下側) 左上は隅田川、浅草方面 |
散策・江戸東京・下町
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