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埼玉:川口 36 川口神社 川口神社 川口神社は川口市金山町にある。 社伝によれば、平安時代・天慶年間に武蔵国足立郡司武芝によって、 武蔵国一宮・大宮氷川神社より分祀勧請したと伝えられる。 そのため氷川大明神と称し、崇敬を集めてきた。 江戸時代は西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、 名主宇田川家によって社殿の再建修造がされていた。 明治42年、鋳物師の神・金山権現社を合祀し、川口神社となった。 11月19日は金山神社の祭礼に、「裸参り」「寒参り」が行なわれ、 鋳物職人たちの器量上達を願い、裸、裸足で参拝した。 川口神社の神鏡 八代将軍吉宗の命を受け、幕府勘定役・井沢弥惣兵衛為永は紀州流土木工法をもって 見沼新田開発に成功した。 享保16年(1731)、江戸に産米を江戸に運ぶため見沼通船堀を新設、 杉島貞七郎保英を配下に工事を担当させた。 杉島は川口宿の生まれで、享保18年(1733)に、 工事完成成就に産土神である氷川大明神に、川上因幡守の作とされる神鏡を川口神社に奉納した。 金山神社 川口は江戸時代日光御成道が整備され、岩淵宿につぐ川口宿が成立し、旅人の往還が多くあった。 江戸時代後期の「遊歴雑記」に、「この駅の南 うら町筋に釜屋数十軒あり 但し釜のみ鋳家あり、釜のみ作る舎あり」と書かれ、街道の裏町通り沿いに鋳物屋が並び、 鍋・釜・鉄瓶などの日曜品を製造していた様子が書かれている。 川口鋳物は。室町時代末期からすでに行なわれていた。 鋳物に適した鋳型の砂や粘土が取れたこと、街道や荒川・芝川の舟運、 江戸という大消費地に隣接していたことが、川口鋳物の隆盛の要因である。 (丁度戦争後も鍋・釜の需要で川口は同じように商売繁盛し、 今日の工業都市に飛躍的に発展した経緯があるが、最近は工場が衰退し、 東京のベットタウンとして、工場が全てマンションになってしまった) 江戸時代の観光案内書「江戸名所図会」にも、川口の鋳物屋の絵が描かれている。 原料は山陰の砂鉄を用い、燃料は松炭を使い鉄を溶かしていた。 明和元年(1764)ごろは、宿駅が整い、 本陣・脇本陣があり、旅籠が30、戸数314、うち鋳物業は14在ったというから、 川口の鋳物は古い歴史がある。 金山神社は南北朝時代暦応年間の御鎮座と伝えられ、江戸時代以降川口鋳物業の発展にともない、 鋳物師の守護神「金山権現」として篤い崇敬を受けてきた。 もとはここより300m南西にあったが、政府の方針で明治42年合祀されたが、 戦後、国家管理を離れたので、鋳物業関係者と氏子の熱望により、 金山彦命を御分霊、旧社殿を移築して別宮とした。 梅ノ木天神社 護国神社 昭和23年時の川口市長指導により、市役所神殿の譲渡を受け、 西南戦争から大東亜戦争に至る戦役に戦没した、川口市内全英霊を奉斎する社として、 境内に設立し遺族会が主体になり例大祭を主催し、平和と繁栄の礎となった英霊に感謝し、 平和の努力を誓う行事にしている。 この脇にこの胸像がある。碑に 「海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ ・・・・明治33年12月横須賀海兵団に入隊、 軍艦高千穂の乗組員となり、日露戦役起こるや直ちに旅順攻略に従い、 決死旅順港口第2次閉塞隊に志願、広瀬武雄海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、 猛砲火の下に港口水道の突入し、・・・・よって自ら爆沈して任務を完遂し、 広瀬中佐、杉野兵曹長と共に帰らず英魂とこしえに靖国の霊となる、 実に明治37年5月23日夜である」 この旅順港口閉塞は、日露戦争の重要任務で、 後のロシア・バルチック艦隊撃破する「日本海海戦」 そして日露戦争に勝利する足がかりとなった重要な作戦であった。 ここ碑に在る広瀬中佐、杉野兵曹長は軍神第1号として、 当時飯田橋が始発駅の中央線が、東京駅まで開通した時、 新しい万世橋駅前に銅像として飾られ、東京市民の崇敬の的になった軍神である。 その後われわれ小学生の修身教科書、音楽教科書で教育された人物である。 太平洋戦争終結後、この銅像は撤去され、行方がわからない。 しかし、広瀬中佐、杉野兵曹長の他に、 川口出身の小池一等機関兵が戦死していたことは知らなかった。 万世橋の銅像は行方が判らなくなったが、この胸像はここに残って、崇拝されている。 浅間神社 |
散策・埼玉 川口
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