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東京見物 009 皇居外苑2
皇居を護る文武2忠臣の銅像
楠公銅像
楠木正成(くすのきまさしげ)は、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、
鎌倉幕府の御家人帳にない河内国(現大阪府南河内)一帯の
水銀流通ルートで活動する豪族といわれ、
足利尊氏(あしかがたかうじ)と共に、
「建武の新政」の立役者として活躍もし、
また後醍醐天皇側近の人物との接触も持っていた。
南北朝時代の元弘年間(1333)後醍醐天皇の挙兵を聞くや、
正成も下赤坂城で挙兵し、南朝側の軍の一翼を担い、
後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、
大和国吉野などで戦った護良親王と共に、河内国千早城に籠城し、
鎌倉幕府の大軍と奮戦した。
楠木正成の活躍に触発され、各地に鎌倉幕府倒幕の機運が高まり、
新田義貞らが挙兵し、ついに鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇も京に凱旋した。
後醍醐天皇の「建武の新政」が始まると、
正成は天皇の信任を受け、河内・和泉の守護となった。
建武元年(1334)正成が北条氏残党討伐のため京を離れた直後、
護良親王が謀反嫌疑で捕縛され、
「建武新政」に反抗する足利尊氏に引き渡され、
再び戦乱の抗争となった。
正成は、社会の混乱は後醍醐天皇の政治にあり、
力を持った武士階級を統制し社会を静めるには、
もはや公家政治では無理と認識し、
武士を統制できる武家政治の中心になれるのは、
足利尊氏以外にはないと、
尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言したが容認されず、
新田義貞の下での出陣を命じられ
「湊川の戦い」で尊氏の軍に破れ自害した。
南朝寄りの古典「太平記}には正成の事跡は強調されて記載され、
また足利氏寄りの史書「梅松論」にも、
尊氏自身が、清廉な正成に一目置く同情的に、記載されているという。
南北朝の抗争が北朝の勝利に終わると、南朝側の正成は朝敵とされたが、
永禄2年(1558)正成の子孫が、朝敵赦免を嘆願し、
正親町天皇の勅免を受けて、
そして江戸時代水戸学尊皇史家より、忠臣として見直されて、
これにより「湊川神社」創建に結実した。
「鎌倉幕府」からは悪党と呼ばれたが、
明治以後は「大楠公」と称され
明治13年、正一位を追贈された。
この銅像は別子銅山を開いた住友家が、
開山200年記念に、東京美術学校に依頼し作成し、
宮内庁に献納したもので、
高村光雲などの東京美術学校職員らによる、
当時の技術の粋を集めて作成され、
明治33年(1900)に完成献納された物と言う。
本体高さ4m、花崗岩台座を加えると8m、
本体部の重量6,7トンと。言われる
和気清麻呂銅像
皇居平河門近く、大手濠端、気象庁前、
東京メトロ東西線 竹橋駅 、大手町駅近くにある。
高さ4.2m宮中に登る、正々堂々たる気品に満ちた、
清麻呂像の中の最も有名な像。
和気清麻呂は、皇統を護った忠臣として知られ、
奈良時代末期から平安時代初期の貴族で、
備前国藤野郡( 岡山県和気町 )出身の、
奈良の都に出て近衛府に使えた人物。
天平宝宇6年(762)僧・道鏡は、
孝謙上皇(女帝)の病を、秘法を用い治療し、
それ以来孝謙上皇の寵愛を受けた。
孝謙上皇は、天平宝宇8年(764)藤原仲麻呂の乱の鎮圧後、
淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として重祚すると、
道鏡の権勢は非常に強まり、翌年太政大臣禅師に、
さらにその翌年には法王となり、
更に「天皇の位」に就きたいとの欲がでて、
称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたいとも思っていたという。
神護景雲3年(769)に、宇佐八幡宮の神官が、
「宇佐八幡神の神託」として、
僧の道鏡を皇位に就かせれば天下泰平になると、
称徳天皇へ奏上したので、道鏡はこれを信じ、
自ら皇位に就くことを望んだ。
そこで称徳天皇は、和気清麻呂を「宇佐八幡の神託」を確認するよう、
天皇の使者として八幡宮に参宮することを命じた。
宣命文を読もうとし時、神が禰宜に託宣宣命を訊くことを拒んだため、
清麻呂は不審を抱き、改めて宣命を訊くことを願い出て、
禰宜が再び神に顕現を願うと、
身の丈三丈(約9m)の大神が現れ、宣命を訊くことを拒んだが、
大神の神託「天の日嗣は必ず帝の氏を継がしむ。
無道の人は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、
称徳天皇に報告した。
これが宇佐八幡宮神託事件である。
清麻呂の報告を聞き天皇は怒り、
因幡員外介に左遷し、更にその後大隈国(鹿児島県)に流罪した。
神護景雲4年(770)称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚したので、
光仁天皇により従五位に復位し、美作・備前両国の国造に任じられ、
神崎川と淀川の治水工事などを行った。
桓武朝では、実務官僚として重用され高官となり、
平安遷都の建設を進言し、崩壊しかけた律令政治の立て直しに尽力した。
嘉永4年(1851)孝明天皇は、清麻呂の功績を讃え、
神階正一位「護王大明神」の神号を贈った。
明治7年(1874)神護寺境内にあった清麻呂を祀った廟は
「護王神社」と改称され、別格官幣社に列し、
その後明治天皇の勅命により
神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座し、
明治31年(1898)没後1100年を記念し、贈正一位が贈られた。
昭和15年(1940)、紀元2600年記念事業として建立され、
楠公銅像と共に、文武二忠臣を象徴したものである
清麻呂は楠木正成と並ぶ勤皇の忠臣とみなされ、
戦前には十円紙幣に肖像が印刷されたこともあった。
震災いちょう
和気清麻呂銅像脇に「震災いちょう」と呼ばれる
「いちょうの木」があります。
樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、
大正時代、文部省の敷地一ツ橋1丁目1番1号
(現在パレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にあった
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、
一面焼け野原になった都心にあって、奇跡的に生き残り、
当時の人々に、復興への希望を与えた。
その後復興事業に伴う区画整理に、
切り倒されることとなった際、
当時の中央気象台長岡田竹松氏が、
これを惜しみ後世に残したいと、
帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れ、
長官も意義を理解し、この地に移植したという。
日本の道百選 内堀通り
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