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降伏文書調印式
昭和20年〈1945年〉9月2日午前 東京湾上 米戦艦ミズーリ号 上で、
「大日本帝国」は、連合国(アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、 オランダ、ニュージーランドの9カ国)に対し、降伏文書に調印した。
この日は、中学4年(旧制度)2学期の始まりだったと記憶している。
東京立川の陸軍飛行部隊(現米軍ジョンソン基地)に「学徒勤労動員」され、
8月15日の終戦をむかえ、とりあえず、9月1日まで自宅待機休校と言う事で、
9月1日を迎え1年9ヶ月振りの、学業復帰であった。
しかし、9月2日の降伏文書の調印式は、国民の今後がどうなるのか、最大の関心事であり、
我々の未来に 夢と希望 があるのか、不安と心配の一日であったと、記憶している。
お話は前後するが、昭和18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定された。
9月には大学生の「徴兵猶予撤廃」、ここに国民の20歳以上の全ての青年が、
戦地に向けて出陣していった。
20歳に満たぬ者は、国のためにと、陸海軍の志願兵に、進んで志願したのだ。
では当時の中学生はというと、
「学徒勤労動員令」により、飛行機・戦車・兵器・弾薬等製造の軍需工場や、
軍服・落下傘製造の被服工場や、 都市防災地帯建設の強制家屋取り壊し作業、
その他もろもろの作業に動員され、戦場に動員された人たちの補充として、徴用されたのである。
私も18年12月(中学2年生)から、学業を放棄して、工場に動員され、
20年5月〈中学4年生〉空襲により職場が消失、それまでそこに動員されていた。
そして次の動員先が、陸軍飛行部隊であった。
動員の目的が「本土決戦に備え、食料確保のための開墾」。
飛行場であったから毎日、アメリカ空母艦載機の空襲で、開墾などとても出来る状況ではない。
そのような状況を、陸軍上層部は承知であったと思うが、
我々の「学徒動員」がなぜ「飛行部隊」であったのか、
本土決戦に備える、他の目的があったのではないか、
とにかく全ての事は、不明である。
こんなことがあったなんて、想像出来ますか?
むかーーし、むかしのお話 第3話
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戦争が終わっても、戦地へ行かずに助かった人は大勢いて、でも戦争が終わると決まったら、それまで、必死で戦った人々や、訓練中の人々をほったらかしに無責任に、放り出すなど、ひどいことだと思います。
情報がなくて、ジャングルで必死に、いきのびて、命令を待っていた人や、捕虜になると思い込んで、出て行けなかった人がたくさんいたのですね。
無責任です。
その事実、なかなかきちんと伝わっていません。
何もかも不明だったのですね。
2009/7/31(金) 午後 10:44