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東京慰霊堂における戦災60周年法要に御参列の 秋篠宮殿下 妃殿下 (御退席の乗用車) 東京慰霊堂における戦災60周年法要に集まる戦災犠牲者の関係者 納骨堂 東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 (後方建物 安田学園高等学校) 東京慰霊堂全景 戦災60周年法要のとき 闘病の記録 大腸ガンと闘う その18 その昔、日本は世界中を相手に、無謀な戦争を始めた。 中学生であった私も、否応なしに戦火に巻き込まれた。 祖国のために生き、祖国のために死す。 生と死は、常に隣同士で存在していた。 次の瞬間に死があった。 懸命に生き、懸命に死を、常に考えていた。 昭和20年(1945)3月10日、運命の日。 東京大空襲があり、死の極限に立たされ、どうにか生き延びた。 まさに九十九死に一生というほどに。 いや、生き延びたと言うより、「生かされた」ということの意味が強かった。 しかし、その時 小学校の恩師一家全員、 級友親友、 叔母の一家全員、 隣組の何軒かの一家は全滅、隣の小母さんやその隣のお兄ちゃんお姉ちゃん、 幼友達 の多くを亡くしてしまった。 それからの処世観は、天から預けられた「生かされた命」を、大切に生きることを心がけ、 何かを託されていると感じ、懸命に生きてきた。 毎年3月10日には、東京墨田区の東京都戦災慰霊堂に参拝し、 恩師、級友、幼友達の冥福を祈る。 平成17年(2005)3月10日、あの日から丁度60年。 秋篠宮様御夫妻 をお迎えしての慰霊祭。 秋篠宮家におかせられましては、翌平成18年(2006)9月6日 悠仁親王 御誕生あそばされる。 平成14年(2002)3月10日 三笠宮殿下 御参列。 何時もこの3月10日は、慰霊堂を参拝の後、 今も奇跡的に存在する私の「極限の死から逃れた場所」に行き、 色々と思索する「巡礼の日」と決めている。 しかし、大望は露と消え、いたずらに馬齢を重ねてしまったが。 丁度 60年という節目。 その節目を迎えることが出来ないと思っていたが、達成でき感慨深い日であった。 ぬかずきて 香たむければ まぼろしに 恩師と幼友(とも)の ありしあの時 香たむけ 戦火に散りし 幼友(とも)偲ぶ 君知るや 今 この平和(やわらぎ)を その昔 本の貸し借り トンボ取り 亡き幼友(とも)偲び 鳩と遊(たわ)むる その昔 戦(いくさ)に敗る 焦土には 照光ビルに 人のざわめき 戦災に 極限死(し)をまぬがれし 鉄橋が 今存在す まぼろし深し 戦火(いくさび)に 覚悟の乳(ちち)を 赤ん坊(ちのみご)に 呑(ふく)ませ絶命(たえ)し 母親(はは)の思いは 戦火(いくさび)に 水面(みずも)は龍舌(あかく) 燃え盛り 数多(あまた)絶命(たえ)にし まぼろしの川 戦火(いくさび)に 絶命(たえ)にし人の 漂(ただよ)いし まぼろしの川 澱(よど)み流るる 戦火(いくさび)に 焼けたる屍(かばね) おびただし 阿鼻叫喚の 地獄にまさり 死極限(いくさ)時(じ)に 「汝(な)は水入りて 生きよ」と母 父は厳命(いい)たり「皆共に死ぬ」 平成17年(2005) 3月28日〈月〉 胸部CT検査 採血・採尿 4月 6日(水) 腹部CT検査 4月 7日(木) 主治医と面談 胸部・腹部CT検査 及び 採血検査・採尿検査 の結果は 現在 異常なし 次回の検査日程 は 半年後位に受けること 次回の検査日は、9月過ぎに面談の上、予約決定すること と言う事で、無罪放免となる。 目出度し! 目出度し!! 東京都慰霊堂 3月10日 春季大法要 (東京空襲犠牲者追悼法要) 9月 1日 秋季大法要 (関東大震災犠牲者追悼法要) 場 所 東京都墨田区横網(よこあみ)町 横網町公園 最寄り駅 JR総武線 両国駅下車 徒歩 北方向 7分 都営地下鉄 大江戸線 両国駅下車 徒歩 北方向 5分 大正12年9月1日に起こった 「関東大震災」 の身元不明者の遺骨を納め、 死亡者の霊を祀る 「震災祈念堂」 として 昭和5年(1930) 創建された。 付属施設として、 「東京市(都)復興記念館」 は 震災資料館 この土地は、明治・大正時代に「陸軍被服廠」(陸軍軍服、軍靴の製造場所)があった 土地で、被服廠が大正8年に北区赤羽に移転し、公園予定地として更地になっていた。 「関東大震災」が起こり、多くの罹災者の避難場所になり、そして家財道具が持ち込ま れ、立錐の余地も無い程となったところに、周囲からの火災がその荷物に燃え移り、 たちまち「火災旋風」 が起こり、罹災者は焼死した。 この土地だけで、東京市全体の死亡者の半数以上の3万8千人が死亡したとされる。 震災後、死亡者を慰霊するための慰霊堂を創建し、 「震災祈念堂」 として、 身元不明者が納骨された。 その後 「太平洋戦争」 における 昭和19・20年(1944・45) の空襲により、 再び東京は焦土となり、 東京の市民だけで 十数万人以上が死亡した。 特に、昭和20年3月10日の空襲では 一夜にして10万人以上の人達が、 死亡し犠牲になった。 その殆どが、身元不明者として、近所の公園などに仮埋葬された。 昭和23年(1948)頃から、公園その他 約130箇所 に仮埋葬されていた、 身元不明者の遺骨を、この「震災祈念堂」に 改葬 した。 昭和26年(1951) 戦災者整葬事業が完了して、 「東京都慰霊堂」 と改称した。 平成14年3月10日 三笠宮殿下 御参列 平成17年3月10日 秋篠宮殿下 妃殿下 御参列 凡そ、内閣総理大臣の参列、または代参も、未だ無かったと記憶する。 前 鈴木東京都知事が1回、石原都知事が1回位の記憶しかない。 政治・宗教分離 を 理由 としているのだと思う。 「東京大空襲被災者」いや 「日本全国の大都市・中都市・小都市 約70都市の空襲被災者」 「広島市の原爆投下被災者」 「長崎市の原爆投下被災者」 「沖縄本島の地上戦・占領による軍事支配による被災者」 「その他 諸々の戦争による被災者」 これらは、皆 一番弱い国民が最大の犠牲者になった。 戦争行為の愚かさ 戦争の悲惨さ を冷厳に受け止め、戦没者の霊を弔い、 再び戦争の惨禍を繰り返すことの無きよう、平和の尊さを 後世に伝えるためにも、 平和を祈る「祈念堂」と「資料館」の建設が必要です。 しかし、このことに対しては、 国家 も 東京都 も熱心ではありません。 「東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」 も戦後50年も経って、 やっと完成したのである。 ですから、そこに収められる「死没者名簿」に記載されるべき人達の、 名簿が提出できないのである。 私の母が健在であったなら、叔母一家の名簿を提出できた。 この国の指導者は、戦後六十四年にもなるが、国民に対して、ただの一度も、 総括 も 謝罪 も無かったのである。 戦争で家を失くそうが、財産を失くそうが、戦争で命を落とそうが、 全て戦争のため 「戦時保障は無く」、まして 「国民に対しての謝罪」 など有り得ないという論拠である。 国民が仕掛けた、戦争ではない。
一部の国家指導者による、戦争であった。 それなのに、何故国民だけが犠牲になるのだ!!! |
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2008年06月20日
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